② 変態の創り出した異世界
なぜだろう。
廊下を駆けている時、奇妙な事に気付いた。
とにかく仄暗いのだ。
壁はヒビ割れ、窓ガラスもいくつか割れている。
「ねえ茜、なんか変じゃない?」
「うん、廃墟みたいだねー」
そんな会話をしながら、廊下の角を曲がった時。
——!?
思わず絶句した。
それは信じられない光景が、目の前に広がっていたからだ。
なんとナースや、SM女王などのコスプレをした女性の空気人形が、壁にズラリと並んでいた。
しかも人形達は、まるで生きているかのように、身体をクネクネさせている。
床にはモザイクが必要なアダルトグッズ、またムチやロウソク、手錠、猿ぐつわ、下着などが散乱していた。
天井にはピンク色のミラーボールが回転し、それら沢山のアダルトグッズを、妖しく照らしている。
……何、これ?
私は気分が悪くなって、立ちくらみがした。
しかし茜の方は「凄い、凄い」と、感心しながら眺めている。
好奇心に満ちたその横顔は、むしろ嬉しそうだ。
「見て見て、春香、この下着! ここんとこが、こんななってて……」
「わわっ、茜っ! そんな物、拾わないでよっ!」
私は、茜から卑猥な女性物の下着を取り上げると、ポイと投げ捨てた。
「もうやだ、こんな所! 早く千葉先生がいる体育館に行こうよ!」
「あっ、うん。そうだね!」
あぁ……。
一体、この学校はどうなってしまったの?
割れた窓の外に視線を走らせると、五月晴れだった空が一変、どんよりと濃い雨雲に覆われていた。
私は胸の内に、不吉な予感を膨らませた。
体育館に着くと、やはりそこも一面が妖しいピンク色だった。
壁にはヌードポスターが大量に貼られ、ここにもアダルトグッズが、あちこちに転がっている。
とてもスポーツをする、神聖な場所ではない。
呆気に取られた私の視界の端に、千葉先生の姿を捉えた。
コートの隅に座っている。
恐怖の中、やっと得た安心感。
私は「先生ぇぇぇ!」と、情けない声を出した。
息を切らし、千葉先生の側に駆け寄った。
しかし、背中を向けて座る千葉先生は、無言でバスケットボールを、クリーナータオルで磨き続けている。
……なんだか、様子がおかしい。
こんなに私が騒いでいるのに、押し黙ったまま、振り向こうとしない。
「なぎさ先生、どーしたの?」
たまりかねた茜が、千葉先生の顔を覗き込んだ。
「あら? あなた達……」
振り向いた千葉先生の顔は、いつもの温和な表情だった。
私は、ホッと胸を撫で下ろした。
ここで茜が事の成り行きを、千葉先生に説明する。
「ねえねえ、なぎさ先生、聞いてよ! 部室に行ったらさ、ロッカーから変態ジジイが出てきたの! そんで廊下には、大人の玩具が沢山あって……」
「そんな事より、これ見て。凄く美味しいのよ」
そう言って千葉先生は、先程まで磨いていたバスケットボールを、バリバリと食べ始めた。
——‼︎‼︎
「え? なぎさ先生……? そんなもの食べたら、お腹痛くなるよ?」
茜が、心配そうに言った。
ふと、咀嚼をやめた千葉先生は、私達の顔をうっとりと眺めだした。
そして、その口から耳を疑うような言葉が、飛び出した。
「あなた達の顔も、丸々としていて美味しそうねぇ」
私は、サーッと血の気が失せるのを感じた。
さすがの茜も、この発言には困惑した顔を見せた。
千葉先生が一歩、近づく。
わわっ。
私は恐怖を感じ、後退りした。
いつの間にか千葉先生の目は赤く充血し、肌の色は緑色へと変化している。
徐々に口も裂け、ギラギラとした沢山の牙が音を鳴らし始めた。
「食わせろぉぉぉぉぉぉ!」
突然、凶暴な声を出し、千葉先生が襲いかかって来た。
「うっぎゃあぁぁぁ!」
私は悲鳴を上げて、茜と共に逃げ出した。
体育館から飛び出すと、無我夢中に来た道を辿る。
途中に、トイレがあった。
私は茜に小声で話しかけた。
(茜っ! トイレに隠れようよ!)
茜は一瞬「えっ」と、小さな声を漏らしたが、すぐに頷いた。
私達は、女子トイレの一番奥の個室へと、身を潜めた。
両手で口を塞ぎ、乱れた呼吸を押し殺す。
隣にいる茜も、口を真一文字に閉じて、気配を消そうとしている。
シーンと、異様な静けさに包まれた。
「どこだぁぁぁぁ!」
突然、静寂を破壊する、怒鳴り声が響いた。
怪物になった千葉先生だ。
私は身体を強張らせた。
今、ドスッドスッと、不穏な足音がトイレ前を通過している。
緊張はピークに達した。
フーッ、フーッ。
口を押さえる指と指の間から、息が漏れた。
ドスッドスッ……。
やがて、千葉先生の足音が離れていくと、はたと静まり返った。
引っ張っていた輪ゴムが緩む様に、硬直した体から緊張が解かれる。
はぁ……助かった……。
しかし安息の時間は、束の間だった。
ガタガタガタ……。
目の前の便器が震えている。
えっ……何……?
私と茜は息を飲んで、便器をジッと見つめた。
と言うか、目が離せない。
ガタガタ……。
ゆっくりと。
それは、ゆっくりと。
閉じていた便座のフタが、持ち上がった。
もう嫌な予感しかしない。
やめて……本当にやめて、と心の中で叫ぶが、私の願いは、あっさりと打ち砕かれた。
やはり便器から、何かが出てくるのだ。
——あの変態おじさんの顔だ!
『キシシシ……ワシの創り出した変態異世界からは、逃れられんぞい……』
首だけ出して、ニタリと笑う変態おじさん。
私は意識が遠くなりかけた。
「出たなぁ、ジジイ……!」
こんな状況でも、茜は勇敢だった。
隅に置いてある消臭スプレーを掴むと「悪霊たいさーん!」と叫んで、変態おじさんの顔面に噴射する。
プシューーー‼︎
『ふんぎゃぁぁぁぁぁ‼︎ 目がぁぁ‼︎ 目がぁぁぁ‼︎ しみるぅぅぅぅ‼︎』
さらに茜は、洗浄レバーを捻った。
「地獄に帰れー‼︎」
バシャアーーーー‼︎‼︎
『おごぉぉぉぉ‼︎ 溺れるぅぅぅ‼︎』
変態おじさんの頭がクルクルと回転し、水と共に流れていく。
ゴボゴボ……ゴボボ……。
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o
。
o
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……え? 何?
やっつけたの?
つづく……