リセットボタン
1.
「人生をリセットするスイッチがあるとすれば押すか否か」
こんな話を生まれて何度しただろうか?学生の頃は親友との話題の一つとして。社会人になってからはなにかに後悔するたびに頭の中にそのスイッチが存在すればと思った。35歳を越え人生の選択肢の数が少なく感じるようになってからは特にありありと。
もはや絶対に存在しないであろうスイッチを押すという選択肢すらないことにひどく失望を感じるようになった。
2.
朝起きるとテレビを点ける。
それは情報を得たいわけではなく眠気から五感を取り戻す為の行為だった。明るいキャスターの声のトーンに起きて間もない耳がじんじんする。液晶の薄い板を境にあちら側とこちら側で世界は違うために起きる歪みの音のようだった。
甘いジャムのついた乾いた食パンを不機嫌に口にねじ込む。程なくして鳴った携帯の着信音がさらに不快に思ったが、携帯の画面に<鎌田さん>と書いているのを見て姿勢を正した。
「おはようございます、鎌田さん。また問題ですか?」
「いや、さっき正常系は確認した。原因は?」
「この間のバージョンアップが原因みたいですね。だから安定バージョンが出るのを待つべきだって山下さんに言ったんですけど。他にあった再現できる小さなバグは全て修正済みです。あとはどう顧客に報告をあげるかですかね。」
俺は左手の親指の爪を音が出ないように噛みながら答えた。
「山下には説明しておく。今日は休んでいい。」
鎌田さんは俺の苛立ちを感じ取ったのかいつもよりもゆっくりと低く穏やかなトーンで言った。俺は言葉少なで不器用な温かさが好きだった。唯一自分の所属する会社で尊敬し信頼できる先輩であった。
「ありがとうございます。では失礼いたします。」と電話を切った後、久しぶりに勝ち得た休日に嬉しさが込み上げた。何をしてもいいのだという無重力の心地よさに先ほどまで払っていた眠気が戻ってくるように感じた。もうひと眠りしよう。そう思いベッドの方に立ち上がった時、玄関のチャイム音が鳴った。
3.
来訪客は宅配便だった。配達員の男は首から玉のような汗をいくつもかいている。そういえば夏だったと思いながら小さな段ボールを受け取る。
中に入っていたのはストレス解消キューブの箱だった。仕事柄一日中パソコンの前にいて発散できないからか、ストレスを感じると爪を嚙むのが癖になっていた。特に最近はボロボロになった左手の指先がキーボードを打つ度に痛みを感じるようになり、それを見かねた鎌田さんが「ストレス発散の玩具というのがあるらしいな」と彼らしい言葉で勧めてくれたのだ。
簡易的な箱とビニールだけの包装を破るように開けると、手の中にすっぽりと納まるサイズのその六面体のスイッチを押した。キューブからはカチッという耳障りの良い音が鳴る。他も歯車のようなものが付いた面、パチンコ玉が入り込んでおりそれを回す面、猫の肉球のようなものが付いている面、ゲーム機のコントローラーのアナログスティックのようなものが付いた面があったが、一面だけ不可解な面があることに気が付いた。その面は少し高さのあるネックの細い赤いボタンが付いており、ネックの部分にストッパーが挟み込まれ簡単に押せないようになっている。第一にそのストッパー自体が固く挟まれていてなかなか取れない。これはどういうことか。
仕方なくメモ用紙一枚きりの説明書を広げた。その説明書は「ぐるぐ回るるます」、「柔らかな食感にあなたは癒されることでしょう」、「何も無限にON/OFFできる」といった怪しい日本語が連なっていた。そして、トリガーのあるボタンの面にはこう書かれていた。
<この赤いボタンを押す時、あなたは人生をリセットします。>
4.
「人生をリセットします」
俺はこの言葉にドキッとしてしまった。
学生の時なら笑いながら「俺ならそりゃもう連打するわ」と言っていたはずだ。その自分がひどく遠く、別の人間のように感じた。その頃の自分がこの状況に遭遇したらどういう反応を示すだろうか。やはり友達とケラケラと笑いながらノリで押してしまうのであろうか。しばらくの間指で挟んだ六面体と睨みあった。どのくらい睨みあったかわからないが、携帯電話が鳴りだしたことに驚きキューブをテーブルの上に置くと、画面も見ず通話ボタンを押す。
「鎌田さんから聞いたけど、どういうことだよ!」
電話口からはひどい怒鳴り声が聞こえてきた。相手は山下さんだった。
「どういうことって。鎌田さんから聞いてませんか?バージョンアップ起因でサーバが止まったんですよ。今はバックアップしたもので正常通り動いています。」
「そうじゃねえだろ。大体お前がバージョンアップを提案したんだよな?」
「いえ、議事録を確認してください。僕は来月出る安定バージョンを待つべきだと言ったはずです。そのあと、山下さんが最新版がアツイんでって無理に押し通しているのも残っているはずです。」
山下さんがわかりやすくチッと舌打ちしたのが聞こえた。俺は無意識に口に左手指の爪をあてていた。
「顧客にどう説明するんだよ。ネット通販で土曜のコアタイムの22時から0時までサービスが止まったんだぞ。下手したら損害賠償問題じゃねえか!」
「山下さんが全面に責任を持つ、負荷テストも問題ない。これを社内にも顧客にも説明していたじゃありませんか。顧客から当日緊急対応の山下さんに連絡が取れないって電話が僕の方に連絡が来たん
ですよ。修正の手順書も共有しています。社長と一緒に先方に全面的に謝罪に行くしかないと思います。」
損害賠償、当日緊急担当の不在、社長。インパクトのある言葉が重なったことに余計に気弱になったのか山下さんは幾分声が小さくなった。
「とにかく謝罪にはお前が行ってもらう。顧客への手土産は手配しとくから一旦会社に向え。」
「連絡が繋がらなかった件もバージョンアップの必要の是非も僕じゃ説明出来ないじゃないですか。僕、行きませんけどフォローはしますから。」
そう言い終わると俺は通話終了ボタンを押した。一か月ぶりの休養が、そしてせっかくのいい気分が台無しになったことに無性に腹が立った。俺は目の前の椅子を思いっきり蹴ったが、椅子が音を立てて倒れたと同時に椅子を蹴った足に激痛が走り、床にそのまま寝転んだ。
<つまらない夢ね>
不意に昔女に言われた言葉を思い出す。
5.
丁度リセットボタンの話をしていたぐらいの年齢だっただろうか。俺は一か月の半分のバイト代を使って彼女と学生には似つかわしくないイタリアンの店に行った。慣れていない俺とは反対に彼女はファミリーレストランにいる時と同じように落ち着き払って話していた。
「ねえ。そろそろ就職活動でしょ?将来とか思いつく?」
彼女はパスタをくるくると巻きながら質問した。
「ピンとこないんだよなあ。美里は?」
「私は外資系。バリバリ働いて45歳くらいで仕事辞めて、死ぬまで田舎でゆっくり自給自足して暮らすの。」
恋愛感情抜きに目の前の彼女がキラキラと見えた。彼女はその視線に気が付いたのかふとこちらを見て「なんかないの?」と質問した。しばらく俺は目の前にあるピザを見つめて考えた。
「時計のように生きる、かな。」
「何それ?」
「だから、毎日同じように仕事に行って暮らすってことだよ。」
「よくわかんない。人生のイベント的なことは?」
「普通に結婚して子供生まれても昨日と同じ今日を生きるみたいな。」
「それが夢?うーん。やっぱりわかんない。もし明日地球が滅ぶとしても?」
「それでも同じように会社に行くよ。」
彼女は驚いたような失笑をした。
「同じ日をずっと繰り返すなんて。なんだかつまらない夢ね。」
それから程なくして彼女は大手外資系の会社へ就職しアメリカへと旅立った。俺にはどうすることもできなかった。結果、彼女の言うところの俺のつまらない夢は叶わず、彼女自身の「つまる」夢は現実となりつつあるのだ。
6.
床に寝ころんだまま未来と過去を何度も行き来した。その中には起きていない過去と未来も含まれていた。どこで道を誤ったのか。何が正解だったのか。いや、正解とはどの時点でわかるものなのだろうか。
俺は起き上がるとテーブルに置いたキューブを手に取った。「あなたは人生をリセットします。」この言葉がどうも引っかかる。押したとしてどこまでリセットするというのか。そして何よりリセットしたところで何がわかるのだろうか。
俺は怪しい手順にある通りストッパーを持ち上げながらひねるように取り除くと、震える手で意を決して強く瞼を閉じそのスイッチを押した。
カチッというプラスチックが摩擦される音と親指の重い感触。恐る恐る瞼を開いた。普段と同じ部屋、先ほど蹴って倒れた椅子。何も起きていないよう思えた。
緊張が切れ、床にへたり込んだのち「そうか、そうだよな。馬鹿だな」と笑いが込み上げた。選択肢がなくなったわけではないのだ。どちらに進んでもいいから分岐がなくなっただけなのだ。俺にはリセットボタンなんて必要がなかった。
俺は急にくだらなくなった手の中のボタンをゴミ箱のある方に放り投げると床に横になった。窓からはセミの鳴き声と強い日差しが入ってくる。なぜか清々しく気分が良い。しばらく窓を見つめた後、俺は携帯の履歴を開いた。
そして、電話の相手に「先ほどは失礼しました。僕も今日いきますよ。あと話変わるんですけど、うちの会社最短でいつ辞めれます?」と言い、アメリカ行きのチケットを購入した。