50 ただいま帰りました
(もう少し…もう少しよ…頑張るのよセリーヌ、焦らないで、ゆっくりよ…)
セリーヌは意識を集中して深い湖の底から浮かび上がるように、ゆっくりゆっくり浮上させていく。
気を抜いても、力を入れすぎてもまた沈んでしまいそうになる。
焦らずゆっくり、確実に少しずつ上に上にと水面に近づいているのがわかる。
気がつけば少しずつ周りが明るくなっている。
(誰かの声が聞こえる…ミオーネお姉様…もう少し…もう少し…)
光が指しこみ始めると、眩しさに目を閉じて意識を集中させた…
*****
「今日はお天気が良くて気持ちいいわ。でも風が少し冷たくなってきたわね」
ミオーネはオレンジ色のバラの香りを感じながら窓の外を眺める。
あの舞踏会から三月が経った。
気持ちよさそうに眠っているセリーヌに話しかけるのがミオーネの日課となっている。
リリアンはいつも薔薇園から一本薔薇を摘んできてセリーヌの部屋に飾り、いつ目覚めるかわからないので毎日セリーヌの好きなお茶と菓子を用意して待っている。
「リリアン、今日は私がセリーヌの髪を綺麗にしてあげたいの」
そう言ってリリアンからブラシを受け取り、セリーヌの横に座って優しく撫でるように髪を梳く。
「お嬢様嬉しいでしょうね。ミオーネ様にこうして綺麗にしていただいて」
「ふふっ、どうかしら子供扱いしないでって頬が膨れないかしら」
三姉妹の姉二人で末の妹を可愛がっているというところだ。
「セリーヌが眠っている間に季節も変わってしまったわ。もう少しすると赤い薔薇の時期になるのよ。お母様がお茶会を楽しみにしているみたいでね…」
髪を撫でながら話しかけるが、相変わらず気持ちよさそうに眠っている。
「ミオーネ様…変わりましょうか」
「ごめんなさいね、しんみりしちゃったけど大丈夫よ」
舞踏会から一月は毎日セリーヌの傍らで泣いていた。
二月経った頃にはセリーヌに毎日その日の出来事を話して聞かせた。
そして三月たった今は笑って話せるようになった。
セリーヌが目覚めるまでそばに居させてほしいと頼み込んで今もこのマルグリット伯爵邸に滞在している。
「そうですわ、今日はお嬢様が大好きな苺のマフィンを用意しました。ミオーネ様もぜひお召し上がりください」
「あら、苺のマフィンてあの人気店の?中々手に入らないのよね」
「はい、ここ最近は苺があまり採れなかったようで作れなかったそうです。今日たまたま街へ行った時に近くを通ったら沢山の人が並んでいましたのでもしやと思いまして」
貴重な苺故に通常よりも高騰しているようだが、それでも並ぶほど人気のようだ。
「そう、せっかくリリアンが並んで買ってきてくれたのだから私も頂くわ」
リリアンは張り切って紅茶を入れ、苺のマフィンをミオーネの前に用意した。
甘い香りと爽やかな紅茶の香りが合わさって部屋が美味しい香りに包まれる。
「うん、この紅茶とてもいい香りね。この苺のマフィンも甘さと酸味が絶妙。セリーヌも食べられたら良いのだけど…」
少し俯き加減だったミオーネはまたリリアンに心配かけまいと顔をあげる。
「セリーヌと一緒に食べたらもっと美味しいわね」
少し寂しさを感じながら眠っているセリーヌの方を見ると、信じられない光景が目に飛び込んできた。
「お腹…空きましたわ…」
目の前の光景が夢ではないかと疑ってしまいたくなる。幻だったら期待させないでと文句を言うところだ。
ワナワナと口元を押さえてゆっくりとミオーネが立ち上がる。
リリアンはすでに涙が溢れている。
「おはようございます。ミオーネお姉様、リリアン」
眠っていたはずのセリーヌが起き上がってこちらを見ておはようと言っている。
これは現実なのか…
「ちょっと寝すぎたようで体が痛いです…ん?この匂いは苺のマフィ…」
セリーヌが伸びをしながら言い終えないうちにミオーネが飛びついてぎゅうぎゅうに抱きしめた。
涙が止まらないミオーネは声を上げて泣いた。
リリアンもその場に座り込んで両手で顔を覆っている。
「心配かけてごめんなさい…」
二人の様子を見てどれほど心配させてしまったかがわかった。
「旦那さまと奥様にもお知らせします」
慌てて部屋を出ようとしたリリアンだったが、何かに気づいたようで立ち止まり振り返った。
「お嬢様、おかえりなさいませ!」
涙でグシャグシャだが、満面の笑みで一言告げ部屋を出て行った。
その一言に我が家へ帰ってきた事を実感した。
そして自分の為に泣いているミオーネを見て、ちゃんと生きている事に安堵する。
「ミオーネお姉様が無事で本当に良かった…」
セリーヌも抱きしめ返して言葉にする。
「もう!私があなたを守るはずだったのに…結局またあなたに守られて…」
不甲斐ない姉でごめんなさいと何度も謝りながら、セリーヌの目覚めを泣いて喜んだ。
そして伯爵夫妻と、セリーヌが目覚めたことをこの目で確かめたくて使用人達も皆がセリーヌの部屋へと駆けつけた。
ミオーネの泣き声と、起き上がっているセリーヌを見て本当なんだと歓喜の声が屋敷中に響き渡った。
何だか母キャンベルが少し老けたように見えたがそれほどまでに心配をかけたのかと思うと胸が痛む。
「お父様、お母様、ただいま戻りました」
「ははっ、お帰りセリーヌ」
「本当にお寝坊さんねセリーヌは。ふふっ…お帰りなさい」
泣き笑いになる。
感動の嵐が吹き荒れる中、セリーヌのお腹は元気いっぱいに鳴いたのだった。
「ふふふ…お嬢様、良いところでお目覚めですね。今日はちょうど苺のマフィンがあるのです、今お茶をご用意しますね」
と、リリアンはさらに張り切ってお茶を入れる。
マルグリット夫妻とミオーネとセリーヌでマフィンを囲めるように、使用人達はイスやテーブルをセリーヌの部屋に用意する。
料理人達はそれならばと、果物やセリーヌの好きなサンドイッチも用意しようと張り切って厨房へと急いだ。
(そんなに食べられるかしら…)
セリーヌは胃袋が少々心配になるが皆が張り切っているので頑張って食べようと決意する。
が、食いしん坊のお転婆令嬢にそんな心配は無用というもの。
「さぁさぁ、ミオーネ様も涙を拭いて食べましょう」
「ええ、そうですわね。セリーヌはずっと寝衣のままでは食べにくいでしょうから着替えたほうがいいわ」
ミオーネがついて衣装部屋へと行き着替えを手伝うなど甲斐甲斐しく妹の面倒をみる。
「やっぱりセリーヌは青がよく似合うわね」
「ありがとうございます、お姉様!」
すっかり涙腺が弱くなってしまったミオーネがまた泣いてしまいそうなので、セリーヌがその背を押して席に着く。
「オッホン…それでは改めて、お帰りセリーヌ」
父ロンベルクの目尻も赤い気がするが、元々赤い目だからそう見える事にしておこう。
「皆さんご心配おかけしました。少し長く眠ってしまったようですけれど、私はこの通り元気です!」
「ふふっ、改まった挨拶は後にして食べましょう。セリーヌのお腹が我慢の限界よ」
キャサリンの一言で和やかになる。
「さぁ、とにかくセリーヌはたくさん食べて」
「はい、では苺のマフィンから頂きます」
紅茶で喉を潤してからマフィンを割って甘い香りを感じる。
一口頬張ると口の中が苺とバターの香ばしい香りが広がって、優しい甘さに幸せな気持ちになる。
「これ…これです」
目を閉じて全身でマフィンを堪能しているようだ。
これが呼び水となり胃袋が動き出し食欲が増したところへセリーヌの大好きなサンドイッチと果物が山盛りに運ばれてきた。
「あぁ、どうしましょうどれから食べるか迷いますっ」
「ゆっくりたくさん食べて。急いで食べて喉に詰まらせないようにね」
キャサリンに言われ、何だか小さい頃に戻ったみたいだとちょっと恥ずかしくなる。
その様子を皆が温かく見守る中、お腹の虫に勝てないセリーヌは厚いハムが挟んであるサンドイッチに手を伸ばした。
今日くらいは誰にも怒られないだろうと大きな口でサンドイッチにかぶりついた所で目の前にアルフレッドが現れた。
「セリーヌ…」
あまりに突然現れたものだから、サンドイッチが喉に詰まり再び気が遠くなり湖の中が見えた気がした。




