1 婚約者がかけ落ちしました
道の端で屈んで苦しそうにしていた白髪の老婆が今にも倒れそうな様子を見かねて少女は声をかけた。
「あの、大丈夫ですか?どこか悪いのですか?」
そう言いながら呼吸が荒く苦しそうなその背をそっと擦る
「は…はぁ…はぁ…悪い…わ…ね…」
「いいえ、それよりとても苦しそう。お薬か何か持っていらっしゃいます?」
「持っ…てい…た…荷物を…盗ま…れて…」
「そんな…なんてこと」
辺りを見回しても人通りの少ないこの場所では見ている人もいなかったようだ。
「はぁ…はぁ…息が…く…る…しい…」
(ずいぶん苦しそうだわ。盗人を探すよりこの方をなんとかしなくちゃ)
「わかりました。ひとまず息苦しさを何とかしなければ」
そう言って少女は老婆の胸に手をあててボソボソと何事かを呟く。一瞬その手の内が熱を持ったかと思うと暖かな光が手から発せられ老婆の苦しさがスーッと消えた。
老婆は驚きに目を丸くする。
あんなに苦しかったのが嘘のように呼吸が楽になりだんだんと背筋が伸びてきた。
驚くことに白髪の髪が鮮やかな赤色に変わっているではないか。
(髪の色が変わった!?それにお若くなったような…)
今や美しい貴婦人となったその人は一瞬少女を見つめるが次第に柔らかな微笑みになる。
「美しいお嬢さん、あなたは治癒魔法が使えるのね。ありがとうあなたのおかげで助かったわ。」
美しいと言われまんざらでもない様子の少女は頬に手を当てクネクネと落ち着きがない。
(美しいだなんて!なんて良い方なの!)
「ほんの少しですが治癒魔法が使えますので。でも今は一時的に痛みを取り除いただけにすぎません。帰られたらお薬を飲まれた方が良いですわ。お荷物は残念でしたけれど…」
上品な元老婆は目を細めて優しい眼差しで少女を見る。
「一時的だとしても私はあなたに救われたわ。ありがとう。荷物の事は大丈夫よ」
何やら荷物を探すあてがあるらしい。
「それならば安心致しました」
ニッコリと笑顔が可愛らしい少女を見ているとつられて笑顔になる。なんとも不思議な空気を纏う子だ。
「あなたの手から発するその汚れのない純白の光に見覚えがあるけれど、もしかして北の魔女一族かしら」
老婆に見えていたその人は話し方や振る舞いが"上品な貴婦人"然としている様子を見ればどこか貴族のご婦人なのだろう。
「北の魔女一族をご存知なのですか?」
「ええ、昔北の魔女一族の方とお会いした事があるのよ」
「そうだったのですね!ご存知でいらっしゃるなんて嬉しいです!」
そう言って目を輝かせている少女は被っているフードの隙間から美しい銀の髪がチラリと見えている。
陶器の様な白い肌にアメジストの様な紫色の瞳、まるで妖精のようだ。
「ふふっ、魔女は厭われる存在であるのにあなたはどうしてそんなに嬉しそうなのかしら」
「だからこそ嬉しいのです。魔女というだけで警戒される事もありますが、マダムからは魔女を警戒されたり嫌悪している様子も感じられませんし、まるで懐かしいご友人の話をされているかのようで…」
優しい眼差しで頷きながら眩しそうに少女を見ていたマダムは、何かを思いついたようで嬉しそうに少女の手を取った。
「そうだわ、あなたにぜひお礼をしたいから良かったらうちの屋敷まで来てくださらない?」
「そんな、お気になさらないでくださいませ。私は大したことはしておりませんので」
「あら、遠慮しないで。お礼もしたいし、何よりあなたともう少しお話してみたいわ」
前のめりなマダムに少々困惑している。
「私ももう少しお話しを聞いてみたいのですが…この後用もありますので」
「そう、それは残念だわ。でも今日のお礼はさせて欲しいの。それにまたあなたとお話したいからお名前を聞いても?」
「お礼は必要ございませんが…私はマルグリッド伯爵家の娘でセリーヌ・リリー・マルグリッドと申します。」
「まぁ、マルグリッド伯爵のお嬢さんなのね。私は…」
そう言いかけたところで少女は何かに目を止めて慌て始めた。
「あのっ、お話の所申し訳ございませんっ、私もう行かなければなりませんので、こちらで失礼いたしますっ」
そう言うなり少女は風の様に去り、あっという間に姿が見えなくなった。
呆気に取られていたマダムは「ふふっ」と楽しそうに笑って、あの子はお菓子好きかしらと早速マルグリッド伯爵へ手紙を出すことを考えながら歩き始めた。
「お嬢様、一体どこにいらしたのですか!?」
「どこってずっと私は部屋にいたわよ」
「そんなはずございません。何度もお部屋にお声をかけてお呼びしましたのにお返事もなく鍵をかけていらして。その様な時は大抵こっそりお屋敷を抜けて外にお出かけされることが多いではないですか」
(さすがはリリアン、行動がよまれているわね。王都の端にある人気店のお菓子を買ってきて欲しいと頼んだのに、どうしてこんなに早く戻れるのかしら…)
「少し一人で静かにお昼寝をしたかったのよ。誰にも邪魔されたくなくて」
「そんなこと言って、ロニーが街でお嬢様を見かけたと言っているのです。まぁ途中で見失ってしまったようですが」
(やっぱりロニーに気付かれていたのね…)
ロニーとはマルグリッド伯爵家当主の執事だ。伯爵の使いで街に出ていたらしい。
「そんな事より、私がお願いしたイチゴのマフィンは買えたかしら?」
「もう、お嬢様そう言ってごまかそうとしても駄目ですよ。今回は何事もなかったようなので良かったものの、お嬢様はもう少しご令嬢として…」
お説教が始まりそうなのを察して早めに終止符を打つ。
「わかっているわ、それよりお腹が空いたの。イチゴのマフィンをとても楽しみにしていたのよ」
今にも涎がたれそうな顔で見つめられては侍女として主にひもじい思いをさせるわけにもいかずマフィンと紅茶を用意し始めた。
(ごめんね、危険な目には合わないように気を付けるから)
と心の中で反省はするものの、危険な場所にいかないとは誓わないお転婆ご令嬢である。
このマルグリッド伯爵家は当主のロンベルク・トバコ・マルグリッド伯爵と妻キャサリン、今は離れて暮らしているセリーヌの兄であるロナウドの4人家族だ。
マルグリッド伯爵家はこの国の北にあるノエールという茶葉や珍しい薬草の生産が有名な領地を統治している。セリーヌが幼い頃には領地に住んでいたが、王都で高級茶葉を扱うサロンを開くために王都の屋敷に越してきたのだ。
王都の学園にも通い少しは大人になるかと思っていた両親の願いもむなしく、このように度々屋敷を抜けてこっそり街に出ては怒られているお転婆娘なのである。
「だって、お父様ったら過保護すぎて街へお買い物に行くだけでも何人お付きがついてくるかわからないもの。王族でもないのに恥ずかしいわ」
というのがセリーヌの言い分だ。
その容姿はまっすぐに伸びた銀の髪がサラサラと揺れ、アメジストの様に艶めいている紫の瞳、陶器の様な白い肌を持つ可憐な美少女だ。
黙って座っていると男女問わずほうと見惚れる美しさ。父親の心配がわかるというもの。
しかし、ふたを開けてみると見た目からは想像もできないお転婆ぶり。
思い返せば幼い頃から森で遭難しては捜索され、街に出ては身なりで貴族令嬢とわかるなり悪い大人たちに誘拐されかけた事もある。
それでも好奇心旺盛なセリーヌがおとなしくなることはない。
それならばいっそ早いうちに婚約者も決めて花嫁修業をさせれば淑女らしくなるのではと両親は期待したが結果はご存知の通りである。
元々賢く器用なので淑女教育も難なくこなしその場に応じで対応することはできるが、何せ好奇心旺盛なところは変わらない。
そんなセリーヌが幼い頃から慕っていたランドール侯爵家の長男ダニエルとセリーヌ15歳の誕生日に二人を婚約させたのであった。
「そういえば、先ほどランドール家の方がいらしてダニエル様からお嬢様へお手紙をお預かりしております」
イチゴの酸味とバターの香ばしい香りにほんのり蜂蜜の甘さが合わさったマフィンを堪能していたセリーヌに侍女が手紙を渡す。
「お渡しするのが遅くなり申し訳ございません。なにせお嬢様の安否を案じるあまり…」
またお説教の続きが始まる前にと手紙を受け取り封を切って読み始めた。
「えっ…」
読み進むにつれてセリーヌの顔が強張っていく。
「お嬢様いかがなさいました?」
何度も読み返してる様子だ。何度目かに読み終えた頃、無言のまま侍女に手紙を渡した。
「私などが見ても良いのですか?」
声は出さずコクンと頷く。
その姿に不安を覚えたリリアンは恐る恐る手紙に目を落とす。
―突然このような手紙を送ることを許してほしい
僕は運命の人に出会ってしまった
この気持ちを抱えたまま君と結婚することはできない
こんな僕を両親も許してはくれないだろう
だから彼女と二人で遠くへ行くことにした
セリーヌは素敵な女の子だよ
君には僕よりもっと良い縁談がすぐにでもくるだろう
でも僕には彼女しか、彼女には僕しかいない
だからどうか僕との婚約は忘れて欲しい
さようなら セリーヌの未来に幸あらん事を
ダニエル・エル・ランドール ―
手紙を読み進むにつれて引きちぎらんばかりにリリアンの手が震えている。
「なんですか…これは…」
セリーヌはマフィンをボーっと見つめて黙って首を振るだけ。
「こんなことが許されるとお思いなのでしょうか!!」
親どうしが決めた相手とはいえ、ダニエルは幼い頃から可愛がってくれた兄の様な存在でセリーヌはそんなダニエルが大好きだった。
そしてお転婆娘を唯一おとなしくさせることが出来る相手でもあった。
王都に来たばかりの頃、唯一頼れる存在で一緒に遊んでくれたりお買い物したり、時には同じ本を読んで感想を言い合ったり楽しい思い出ばかりだ。
(運命の方って…ダニエルお兄様にとって私はなんだったのかしら…)
「私旦那様にどういうことか聞いて参りますわ!」
そう言って侍女は勢いよく部屋を飛び出して行った。
その後ろ姿を見送った後セリーヌはゆっくりと立ち上がりフラフラと部屋を出て気付けば庭の奥にある薔薇園まで来ていた。
(この前一緒にここでお茶を飲んだ時は楽しそうにいつものように笑っていたじゃない…せっかくお兄様のお誕生日の贈り物を用意できたのに…)
今日街に出たのは他でもないダニエルへの贈り物の為に屋敷を抜け出したのだ。
繊細な絵柄が彫られている薄い金の栞を本が好きなダニエルへ、自分用にお揃いで銀の栞を作らせていたのだった。
空の端に太陽が沈みかけ、茜色からだんだんと藍色の空へと変わるこの時間がセリーヌは一番好きだ。
「あぁなんて綺麗な色かしら。ダニエルお兄様も見ているかし…っ…」
目から大粒の涙がぼろぼろとこぼれる。
「っっ…うぅ…お兄様…どうして私を置いていったの…」
段々と辺りが暗くなり星が瞬きはじめる。陰に隠れて見守っている侍女のリリアンも目を伏せて唇が切れんばかりに噛みしめている。
(あぁお嬢様が泣いている…お慰めしたいけど…)
こんなに泣くセリーヌを見たのは初めてなのだ。リリアンもしばらくその場から動けずにいた。