馴染みのない駅にて
しまった。
寝過ごしてしまった。
イヤホンつけてロクに車内アナウンスを聞かなかったのが間違いだった。
走行中の電車の窓の外は夜闇につつまれた知らない町が通り過ぎていく。
ロングシートの端で僕は肩を落とした。
乗っている車両をぐるりと見渡す。僕以外は誰もいない。
首に下げたイヤホンから幽かに楽しげなしゃべり声が聞こえた。
どうやら僕はラジオを聴いているうちに寝入ってしまったらしい。
さてどうしたものかと考えていると、駅への停車を予告するアナウンスが流れた。
聞いたことのない駅名だったがこのまま乗っていてはどこまで行くかわからない。とりあえず僕はその駅で降りることにした。
電車が止まり、乗車口が開く。湿気が多く生暖かい空気が僕に触れる。
ホームに降りるとアスファルトの雨に濡れたにおいがした。よく見ると霧のような細かい雨が降っていた。
僕はここがどこなのかを確認すべく、駅名をスマホでインターネット検索する。すると、僕が下車する予定だった駅から7駅分乗り過ごしていたことが判明した。
それに加えて、ダイア通りの運行ならばあと20分は電車が止まらない。
寝起きでなんだか意識がはっきりしないのでベンチに座って電車を待とうと思ったが、ベンチが雨でぬれていた。
仕方ない。僕は柱にもたれて電車を待つことにした。
2,3分は経ったころだろうか。
柱にもたれかかってスマホでまとめサイトを見ていると、視界の隅に少し動くものが見えた。
それが何か気になり顔を上げると、向かいのホー ムに燕尾服を着た男性が立っていた。
黒の燕尾服にシルクハット。遠目からでもわかるほど上等な仕立てであったが、時代錯誤な服装は僕の目をいやでも引き付けた。
すると、僕の視線に気づいたのだろうか。燕尾服の男はゆっくりと芝居がかった動きでシルクハットを取り、会釈した。
僕はつい反射的に会釈を返した。
外見で人柄を判断することが良くないことだと思いつつも、なんとなく「この人にはかかわってはいけない」と直感的にそう感じた。
見てはいけない、と思いスマホの画面に視線を戻そうとする。しかし、燕尾服の男が気になって仕方ない。
僕はスマホを見るふりをして、視線だけ男の方へと移した。
燕尾服の男は跳ねるようにホーム中を動き回っていた。かと思うと突然立ち止まり、パントマイムを始めた。
まるで悪夢でも見ているようだった。
しかし、僕は目を離すことができなかった。いつの間にかスマホを見るふりもやめ、男の動きを目で追っていた。
男は見えない壁を触るような動きをした。おそらくもっとも有名で、「パントマイム」といえばこの動きだろう、というものだった。
うまいものだ、と僕は素直に感心してしまう。
壁を触る動きを一通り終えると、男は見えないカバンの中を探って、見えない「何か」を取り出した。そしてプルタブを開けるような動作をして、見えない液体を一気に飲み干した。
少し振って空になったことを確認すると、ゴミ箱に投げ入れるような動きをした。すると、
カラン
僕のもたれかかっている柱から少し離れたところにあるゴミ箱から、缶と缶がぶつかるような音がした。
とっさにゴミ箱の方を見る。当然だが誰もいない。
まさか、あの男が入れたのだろうか。
しかしどう見てもあれはパントマイムだった。缶は実在していない。
幻聴、だったのだろうか。
腑に落ちないがそれ以外に説明がつかない。
少々怖いながらも男の方を見ると、見えない椅子に座ってくつろいでいた。
男はぼーっとしたり本を読んだり、散々くつろいだような動作をした。立ち上がって伸びをし、そこから少し歩いて立ち止まり、ドアを開ける仕草をする。
もしかしたら、と思い、僕はゴミ箱の少し向こうにある待合室のドアをにらんだ。
視界の隅に入れた男の動きと連動して、ドアがひとりでに開閉した。
心臓が冷たく波打った。
やはり、あの男の動きと連動している。
男を見る。スキップをしながらホーム中を右へ左へと跳ねている。
妙に嫌な予感がした。鼓動は速く大きくなり、呼吸は散り散りだった。
これ以上ここへは居ることは危険かもしれない。
左手に握りしめていたスマホで時間を確認する。電車が来るまであと6分だった。
よかった。ここから、あの男から離れられる。
少し落ち着き、もう一度男に視線を戻した。
男はまだパントマイムを続けているようだった。
もう二度と会いたくないな。深く息を吐きながら心底そう思った。
休みなく動いている男は僕に顔を向けると、こちらに向かってカウボーイが投げ縄で牛を捕獲するような仕草をした。
額から冷汗がどっと噴き出す。
しまった、と脳が理解したときにはすでに遅く、左足首が何かにきつく締めつけられた。
シルクハットの影になって見えないはずの男の口元がニヤッと笑った気がした。
男が縄を引くしぐさをする。その動きに合わせてグンッと足首が引っ張られる。
勢いに耐えられずに尻もちを搗く。
少しずつ線路へと引きずられる。
抵抗しようとコンクリートを掴みかけるが、男が引く力の方が強い。
左足はもうすでに膝下あたりまでが線路側へ出ていた。
なんとか引き上げようとしているその時、遠くから列車が近づく音がした。
列車は速度を落とすことなく近づいてくる。この駅では止まらないのだ。
まずい、なんとしてでも左足をホームの上へ戻さなければ。
そう思い力を強めるものの、男の力はますます強くなり、僕は少しずつ線路へ落ちていく。
列車と僕の距離は急速に縮んでいく。
列車の姿をちらっと見たその一瞬、今まで以上の力で線路側へととひきずられた。
もうダメかもしれない。
絶望に駆られ諦めかけていたその時、僕の襟首を何かが思い切り引っ張った。
ホームの上に全身を引き上げられた僕は、足元すれすれを走り去る列車をただ眺めていた。
「よかった。大丈夫ですか」
背後から優しげな男性の声がした。
振り返るとスーツ姿の若い男が僕の服の襟をつかんでいた。
「あ、ありがとうございます。助かりました」
立ち上がりながら僕は男性に礼を言った。
男性は僕が酔っぱらってホームで寝ていると思い助けたらしい。
気を付けてね、もうホームで寝ちゃだめだよ、と男性は言った。
僕はその男性に先ほど体験したことはすべて伏せ、以後気を付けます、と言った。
でも本当に気を付けてね。
男性は僕に念を押すように言った。
この駅、転落事故多いから。