3 旅支度
唯一の窓から差し込む光は明るいが部屋中を照らすには全く足りず、真昼でも薄暗い部屋の中。
その隅に設置されたドレッサーの前に、一人の人影があった。
背丈は小柄で、身にまとった外套のお陰でややわかりにくいが細身な体格であり、櫛通しの良さそうな黒髪などからおよそ少女と思われた。
その少女は鏡へ身を乗り出し食い入るように見入っていて、何やら延々とぼそぼそ呟いていた。非常に小声であり、鏡に話しかけているというよりは自分に言い聞かせている、という雰囲気である。
薄暗い部屋の中、という状況も相まってなかなか猟奇的な画になっているが、よくよく聞いてみると呪文のように呟き続けている言葉は、
「私は大丈夫私は大丈夫私は大丈夫私は大丈夫私は大丈夫私は大丈夫私は大丈夫私は大丈夫私は──」
「いつまでやってんのさ」
不意に少女と異なる声が響いた。それは呆れたような色を含んだ少年のような声で、細く開いた扉の方から聞こえたのだが、そこには少年はおろか誰もいなかった。もちろん部屋の中のどこにも、少女以外の人間はいなかった。
しかし少女は全く驚くこともなく、振り向きもせずに、
「うっさいわね。別にいいじゃないの」
「強がるのもいいけどさ……ほんとに大丈夫なの?」
「大丈夫よ。私は大丈夫──」
「……声が震えてるよ」
少女のむっとした顔が鏡に映った。しかし特に言い返すこともなく、櫛を拾い上げて髪を梳き始めた。
「それで? 何の用」
「何の用って……台車に本を全部積み終わったよって」
「荷物も?」
「うん」
「ああ、そう。御苦労様」
「…………」
「──何よ」
少女は扉の方へ振り返った。そこには依然として誰もいなかったが、視線を下に降ろすと人間以外の者がいた。
猫だ。
黒猫。
その黒猫が、少女のじとっとした視線を受けて口を開いた。
「もっと、こう、素直にまっすぐなお礼の言葉が聞きたいかなって……あ、ちょっと、それは! それはなしでアゥッ」
少女が指で弾いた髪ゴムが眉間に命中し床上で悶える猫を軽く流して、少女はもう一度名残惜しげに鏡を一瞥すると櫛を置いて立ち上がった。
「…………」
少し考えて櫛を拾い直し、懐に仕舞う。
身を翻してつかつかと扉へ向かい、扉脇の外套立てから漆黒の三角帽子を取って被ると、扉の前で一度立ち止まった。
そして振り返り、さして広くもない部屋の中をぐるりと一望する。
「…………」
「忘れ物は?」
いつの間にか復活し床に座り直した猫が、少女を見上げて問う。
「そうね。本も、これから全部返しに行くし……ないわ」
「未練はない?」
猫の声音に小生意気な、悪戯っぽい響きが混ざった。
「……ないわ」
「本当に?」
「ないわよ。別に二度と帰ってこないわけじゃないんだから」
もともと家具は寝台と机しかなかった。部屋中に散乱していた本も全て運び出してあるため、部屋の中はいやに閑散としている。
忘れ物もなく、未練もないと言った少女は、しかしそれでも動かない。
そんな少女を見上げて、
「怖い?」
「…………」
「怖いんでしょ?」
「──うっさいわね。ええ、そうよ。怖い」
じっと物の少なくなった部屋の中を見つめながら、苦々しい表情で少女は頷いた。
「怖くないわけないでしょ。怖くて仕方ないわ」
「でも行くんでしょ?」
「ええ。行くわ。私は、外に出る」
決然と、わずかに声が震えているけれども、決然と彼女は言った。
「決めたもの。もう引きこもらない」
「うん。それじゃあ、行こうか」
猫の促しに頷いて、ようやく彼女は扉へ向き直った。わずかに開いた扉に手をかけ、外に出ようとする。
その目の前で扉が閉じた。
「……どういうつもり?」
目の前で扉を閉じた猫をじと目で見下ろす。対して猫はしれっと、
「どういうつもりかと言えばね、あ、ちょっと待っ、足降ろして振り上げるのやめて振り子運動やめて」
一応、少女が渋々猫を蹴り飛ばそうとした足を降ろしたのにほっと吐息して、猫は、言う。
「ほら、これから新しい世界に出て行くんだから、門出の扉は自分で開いた方がいいと思ってさ」
「……余計なお世話よ」
言いながらも、視線は扉を見据えている。そのやや軟化した口調に猫が、
「お、照れてる照れてる? もう全くハルカったら照れちゃっチャア!?」
つま先で顎を引っ掛けられ錐揉みして扉に激突した猫に構わず、三角帽子を深く被り直すと、ハルカは扉の取っ手に手を置いた。
一つ、深呼吸を置いて。
扉を、押し開ける。
「また会いましょう旧世界。そしてこんにちは新世界──さあ、脱ヒキコモリよ」