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花の唄が聴こえる  作者: FRIDAY
弐:リィンの森
21/67

1 林間疾走

 “花と種の国”ファスリーズをツェテラ大街道沿いに東へ、ゴルゴドア山脈が見えてきたら大街道を離れ、山脈の峠道へ続く道を進む。その途上に、深く広大な森がある。

 名を、リィンの森という。

 その森の、しかし道も外れた完全な森の中を、

「――ひぃ――ひぃ――ひぃ――」

 ハルカは、全力で走っていた。

 リィンの森は、鬱蒼と茂った木々が重なり合いほとんど人を寄せ付けない森ではあるが、ツェテラ大街道に遠く及ばないながらも街道は続いており、集落も道沿いに散在している。だから道中はそれほど苦でもない――という前情報だったし、最後に取った宿の主人もそう話していた。だからそれほど何かに対する心配はしていなかったし、途中で行商にでも出会えたら僥倖、くらいの気持ちだった。

 それが今は、命がけで疾走している。

 どうしてこうなったのか。

 いや、同じ宿屋で、不穏な噂は聞いていたのだ。けれど、まさかそれに、自分がいきなり出くわすことになるなどとは夢にも思っていなかった。

「だから言ったよね! ボク言ったよね!? 嫌な予感がするって! 行商が来るまで待とうって! 黒猫の悪い予感は当たるんだよっ!」

「うる――さい――!」

 ふいごのように呼吸を乱しながら、切れ切れにハルカは悪態をつく。もともと運動が得意なわけでもないところに、木々が複雑に入り組み、枝や根がいくらでも眼前や足元を奪ってくる森の中だ。またハルカは地面をうねるように飛び出している根に足を取られて姿勢を崩し――その頭上を、ハルカの胴体ほどの太さもある枝が豪速で飛び抜け、眼前の藪を薙ぎ払った。慌ててそれらを一緒くたに跳び越え、枝を吹き飛ばしてきた何者かへ振り返ることはなく、再び全力で走り出す。

 振り返って確認する必要などない。むしろ振り返る動作がタイムロスだ。なにせ、その姿は最初に見ているのだから。

 ハルカが身をよじらせながら必死で通り抜けた木々の隙間を、周囲の全てを巻き込んで薙ぎ倒しながら、その何者かがハルカを獰猛に追いかける。

 巨大な黒い影。小柄なハルカならば背を逸らさなければ見上げられない程に大きく、木の枝ほどに太い毛並みを逆立たせ、頭上には不自然に妖艶な純白の花を幾輪も戴き、下顎から天を衝く牙はハルカの身の丈ほどもあり、爛々と闇の奥にかがやく瞳は深紅に染められている。

 魔獣。魔猪だ。それもただの魔猪ではない。数百年を生き延びた、この一帯のヌシではないかとすら思われる一頭だ。その巨大な魔獣に、どういうわけかハルカは追われ、全力で逃げている。

 もうかれこれ数十分もの間、この逃走劇が繰り広げられていた。魔猪が進路上の木々の何もかもを薙ぎ倒しながら追ってくるため辛うじて追いつかれてはいないが、しかしハルカの足取りも目に見えてもつれ始めている。そもそもハルカは既に顔や手足に痣を作っており、わずかに片足も引きずっていて、杖に縋りながら前に倒れるような勢いで進んでいる有り様だ。このままでは追いつかれ、粉々に粉砕されるまでも時間の問題だろう。

「ハルカ、そうだ、飛翔! 空を飛ぶ魔法は!?」

 横を、こちらも必死に並走する黒猫が叫ぶが、ハルカは息も絶え絶えに首を振る。

「無理よ。私はそういう基礎的な魔法は苦手なの、知ってるでしょ!」

 飛べるものなら最初から逃げている。まあ、できたところで真昼の街道で急に飛び出してきた魔猪を眼前にして動転した状況で行使できるのかは怪しいところだが。

 しかし無理だ無理だと言っていても状況が好転するわけではない。むしろこのまま走るだけでは早々にジリ貧だ。けれどいくら必死に考えても、焦りと痛みでまともな考えがまとまらない。

「つっ――」

 痛めた足首に体重をかけてしまい、ハルカは顔を歪める。真正面から不意打ちで魔猪に対峙し、咆声とともに追われるまま街道を外れて少し行ったところで崖から転げ落ちたのだ。幸いそれほど高低差のある崖ではなかったので大事には至らなかったが打ち身や捻挫は避けられなかった。その上道もわからなくなってしまったのだ。それで魔猪が諦めてくれればよかったのに、獣はあろうことか崖上から飛び降りてきた。そこから追われるままに必死で逃げ続け、どれだけ進んでもリィンの森は鬱蒼として視界を塞ぎ、完全に現在地がわからなくなってしまった。

 今はただ、とにかく背後に迫る魔獣から逃げ出して一息つきたい。なぜこれほど執拗に追われるのか、そんなことは二の次だ。

 どうする、どうする。花の魔法で木々に道を開けてもらい、ハルカが通り過ぎたところで閉じて魔猪を妨害する、という方法を考えることはできるが、実行するにはあまりにも時間がない。ハルカ自身が移動し続けているということもあるが、背後の魔猪との距離が近すぎる。木々が閉じる前に、魔猪が隙間めがけて巨体を捻じ込んでくるだろう。単純な短距離走になってしまえば、ハルカに勝ち目は皆無だ。

 同じく花の魔法で蔦などを魔猪に絡ませ妨害する、あるいは木々で壁を作って道を阻む。いずれも、まさに今あらゆる障害を粉砕して前進してきているのだ、これも有効打にはなるまい。

 時間がない、時間がない。このままでは死んでしまう。誰にも知られぬ森の奥深くで魔獣に食い散らかされ、弔われることも、エドワンスたちに知られることもなく虫の餌となってしまう。

「そんな、ことに――なって、たまる、か――!」

 歯を食いしばる。痛みと恐怖に両目から涙が零れ落ちる。それを拭うことも惜しみ、ハルカは考える。

「反撃は!? 何か攻撃できる魔法!」

「それも苦手なの! 私は花の魔法しかほとんどまともに使えないんだってば!」

 ましてこんな追い詰められた状況ではなおさらだ。

 くそう、とハルカは苦し紛れに叫んだ。

「あんた、先へ行って何かないか見てきて! 何でもいい、逃げるでも隠れるでも反撃するでも、どんなものでもいいから!」

「わ、わかったよ! でもボクが戻ってくるまでにやられてないでよ!」

 叫び返すと同時に、黒猫は漆黒の影となって奔った。魔女の使い魔だ、黒猫もいくらかの簡単な魔法は使える。先行してこの先の状況を見るのだ。

 ズキズキと足が痛む。もう限界だ、休みたい。そんな心の弱気を精神力で捻じ伏せる。立ち止まるな。休むと死ぬぞ。

 果たして、黒猫の帰還は迅速だった。

うろだ! この先にもの凄く太い古木があって、その裏に深い洞がある! あの化け猪がどうやってハルカを追ってるのかはわからないけど、これだけ深い森だから、数メートルでも距離を離してあそこに飛び込めば隠れられるかも!」

「わかった、それで、距離は!?」

「ここから大体五十メートル!」

 今の距離では洞に飛び込んだところで魔猪に追跡され、古木ごと粉砕されるかもしれない。だが少しでもリードして一瞬でも魔猪の認識から姿をくらまし、そこへ逃げ込むことができれば、あるいは撒くことができるかもしれない。

 それに賭けるしかない。

「くっ――命には代えられない。一か八か、飛ぶわ。掴まりなさい」

 走る支えにしていた杖を水平に構える。まともに体重を支えた両足が痛みを訴え顔をしかめるが、構わない。両手を添え、前に突き出す動きは、どう見ても飛翔するためのそれには見えないが、

「飛ぶって、ハルカにはできないんじゃないの?」

「ええ、だから――前に落ちるのよ」


 黒猫がハルカの背に飛びついた瞬間、言下に、ハルカの身が前方に強烈な力で引っ張られたかのように、弾け飛んだ。


 それはまさに飛ぶというより落ちるというそれだが、見ようにとっては滑空と言えなくもない。

 そして勿論、制動は全く効いていない。

「ウワァ――――死んだァ――――!」

「ちょ、うるっさいっての!」

 制御を全く放り出しているわけではない。懸命に制動を試みてはいるが、そもそも得意ではない魔法を無理に行使している上、加減のない高加速状態だ。ただ“前へ落ちる”ことだけを指向する杖から振り落とされないようしがみついて、木や岩などの衝突すると致命となる障害物のみ身をよじって回避するだけで精いっぱい。

「――――っ!」

 太い枝葉を紙一重で躱せば、背の低い藪に浅く突っ込み、慌てて高さを上げれば再び枝が迫る。蔓の隙間をかいくぐれば張り出した岩を掠り、横へローリングすると地面すれすれで突き出した根に肩を削られる。葉や枝で頬や腕に細かな擦過傷をいくつも作り、最早背後の魔猪との距離がどれだけあるのを確かめる余裕もない。

 ……あと、どれだけ……!

 黒猫が言った太い木までは、あとどれだけあるのだ。昼間にも拘らず暗く見通しの悪い中、さらに相対速度で先までは見通せない――そんな思考をした瞬間が、隙だった。

「ハルカ!」

「――――っ!」

 黒猫の叫び声で我に返ったが、遅い。

 張り出した一抱えもある枝が、眼前に迫っていた。

「――――、――――っ!」

 全力で身を捻る。直撃はギリギリで回避したが、脇腹を浅く強打してしまった。

「っ、ぐぅ」

 浅かったはずなのに、呼吸が止まるほどの激痛。一瞬にして視界が涙で滲む。口の中も切ったのか、血の味がした。

 ……ヤバイ、もう、キツイかも。

 脳裏を弱音が走る。だがその瞬間、

「ハルカ、見えた! あれだ!」

 ハルカの肩に必死にしがみついている黒猫が叫ぶ。その叫びで、迫る闇の壁が大樹の幹であることを悟る。

 ぶつかる。

「――――っ!」

 木の洞は、この裏だ。杖に必死の急停止をかけつつ弧を描くように宙を滑る。

 ドリフトした。

 今度こそ、何の抵抗もできない。ただただ宙を転げ、枝葉に身体を削られ、地面に投げ出されるように不時着した。二転三転しようやく止まる。

「ぐ、うぅ……」

「ハルカ、早く、早く!」

 全身が痛く、重い。だがそれでも、手近な場所に転がってしまっていた杖を掴み直し、黒猫の声のする方へ必死で這い進む。落下の衝撃で耳鳴りがするが、それでも向こうから迫りくる魔猪の衝撃音だけは聞こえた。

 ……間に合って――!

 前を探る手が、何かに触れた。ガサガサと冷たい手触りは、樹木の表皮。ハルカは最後の力を振り絞って、その空洞へ身を投げ出した。

「ハルカ、ハルカ!? しっかりしてよ――!」

 黒猫の声が聞こえるも、遠い。

 まだダメだ、とそう思うも、意識は深く落ちて行ってしまった。


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