12 至高の激励
「成程」
聞き終えたエドワンスは、深く頷き、瞑目した。数秒か、数分か。下唇を浅く噛んでエドワンスの反応を待つハルカには、それがどれほど短い時間だったのか、はたまた長かったのか、判然としなかった。だがそれだけの時間をもって、エドワンスはその分厚い瞼を開け、ハルカを見下ろし――怪訝そうな顔をした。
「何を恐れているのだね?」
「……え?」
戸惑うハルカにエドワンスは微笑みかける。
「キミは勇気ある、ああ、本当に勇気ある決断をしたのだ。それなのになぜ、それほどに不安そうな顔をしているのかな」
「それは……」
視線が下がる。けれど、言うべき不安はわかっていた。
「私に、一人旅なんて、ちゃんとできるのかなって」
「ボクもいるよ!」
すかさず黒猫が声を上げるが、ハルカは弱々しく微笑して見やるだけだ。いや、黒猫だってわかっている。そうではないのだ。
「何年も引き籠ってきたほとんど誰とも会うこともなく、ただ本の中で夢想していただけ。人とのちゃんとしたコミュニケーションの取り方なんてわからないし、そもそも知らない人に話しかけるなんてことも、できる気がしない。それなのにいきなり外に出て、外の世界に出て、どうやって生きていくんだろうって、時期尚早だって、自分でもそう思うんです」
もしもエリシアに、エドワンスに、少しでも引き止められていたのなら、ハルカはあっさりと、それどころかきっとこれ幸いと、挫けていただろう。それくらいの自覚はある。
現実が見えていない、とか。
世迷言も大概にするべきだ、とか。
痛いほどに自覚しているのだ。
「エリシアさんやエド先生だから、こうやって話せているけれど、他の人だったら絶対に何も言えなくなる。お店で買い物だってできないと思います。日銭の稼ぎ方はいくつか考えてはいるけれど、それもちゃんとできるかどうか。つまるところ……私にはとても無謀なんじゃないか、って」
消え入るように、ハルカはそう言った。グラスを包むようにして持つ両手に、小さな力が籠もる。それは緊張と、恐れだ。
エドワンスは。
ふむ、と鼻から息を吹いた。
成程、とハルカをその大きな瞳で見据えた。
「まず、そうだな、ハルカ君。君は私が、もしかすればエリシア君も、多少なりとも君の決意と君の素質や経験との釣り合いに、不安か、疑いを抱いているのではないかと感じているようだが、何よりも最初に、はっきりと言っておこう。否定しておこう」
いいかね?
「生徒の門出を言祝がぬ教師はいない! 私はとても喜ばしく思うよ、ハルカ君――キミが、人生を変える決断をしたことを! この喜びには誓って、ああ誓って、ただ一点の曇りもない!」
轟、と。
木々が、花々が、植物園を覆うガラスのドームまでもが唸りを上げるほどの迫力を持って断言した。
びりびりと頬が震えるほどの勢いに、ハルカは目を丸くしてエドワンスを見上げた。あの、と唇が動くが、言葉にはならない。
ふむ、と再びエドワンスは鼻息を吹いた。
「君は魔法については勿論、何に対しても学習意欲、探求心が強い。これは私が学者であることを差し引いても非常に好ましいことだ。君は自分が、ともすればずっと引き籠ったままでいた方が良いのではないかと思っているようだが、私としては逆だ、むしろ君は外にこそ出るべきではないかと思っていた。外の世界へ出て、その知的好奇心を持って見聞を広め、知り、学び、経験し、――何だったら、もう一度学院へ戻って学問の発展へ生かしてくれないものかと、それくらいには思っていたよ」
確かにね、とエリシアも微笑しながら頷いた。
「ハルカは学者タイプだと思うわ。それも書物から学ぶよりも、フィールドワークの方」
「え……そ、そうですか?」
ええ、とエリシアは頷く。
「勿論本は読むけれど、それだけじゃ足りなくなって、自分の目で確認したくなる。今回の決意だって、そうでしょう?」
あ、とハルカは気付いて、照れたように笑った。うむ、とエドワンスも頷く。
「それに物覚えもよかった。得手不得手は勿論あったが、特に専攻の花の魔法については目覚ましいものであったこと記憶している。マンドラゴラの株分けなど、我が魔導院でもそう簡単にできる教員はいない」
ふたりから次々と評価を浴びせられて、ハルカは恐縮して縮こまる。その頬は朱色に染まっているが、それを指摘するほど黒猫も野暮ではない。内心だけで笑って黙っておく。
「だから、重ねて言うが、君がひとりで旅立つことを思い止まらせるつもりはないよ。広い世界を知り給え。私も、その昔は方々を好き勝手に飛び回ったものさ。今となっては、遠出をしても精々が一路往復の試料採取のみ。また気儘な旅をしたいものだと常々思っている」
「館長が旅に出てしまったら、数百年は帰ってこないでしょう。それはさすがに困ります。王宮も総出で止めにかかるでしょうね」
「うむ……遺憾だが、今や私も役目のある身だからな」
ふふ、と笑うエリシアに、本当に残念そうに目を伏せるエドワンス。その光景に、ハルカもつられて小さく笑った。
「サバイバル術も一通りは自習したのだろう? まあ、机上と実践は往々にして大きく乖離しているものだが、なに、それも探求の旅の醍醐味というものだ。試行錯誤し給え。旅というのは、出会いと別れ、発見と喪失、達成と挫折、悲喜交々なのだ。味わい給え。ただ一度きりの青春を。君なら大丈夫だ。私が太鼓判を捺そう。なに、どうしても逼迫したときは私を呼ぶといい。駆けつけることはできないが、アドバイスならできる」
「私もよ。あなたがどこにいても通じられるように、パスを開いておくわ」
ふたりの言葉に、ハルカははにかんだ。目尻に浮いた涙を拭って、照れたように笑む。
「――ありがとうございます」
国家最高峰の魔法使いふたりからの言葉である、というところもあるが、それ以上に。
ハルカが親のように慕い、また我が子のように慈しみをくれるふたりからの篤い信頼だからこそ、ハルカは心の底からの安心と勇気を得られた。
「ありがとう、ございます」




