⑤
女性に押し切られて、俺は此処に居ることになった。
俺が此処に居れば、この女性に迷惑をかけてしまうかもしれないのに――それでも俺は……誰かに此処にいてくれるといってくれたことが嬉しかったから。
『魔王』の側近だと言われている俺をどうしてこの女性は此処に留めようとしたのだろうか。
考えるのはずっとそのことばかりである。
でもこうしてお腹いっぱいまでご飯を食べて、そしてぼーっとするというのが久しぶりで、目の前の女性の雰囲気も理由だろうか、気が抜けてしまった。
「ねぇ」
「なんだ」
女性に突然声をかけられて、そう返事を返す。
はっとして、女性を睨むように見てしまう。本当にこの女性を信じていいのか、それが俺には判断がつかない。この女性が俺をさらに絶望させるための存在であるかもしれないのだから、
俺の視線に怯えることなく、女性は口を開く。
「名前を聞いてもいいかしら。私はジャンナ。よろしくね」
不思議な女性だと俺は思う。
こんな風に俺が『魔王』の側近だと言われていることを知っているだろうに、俺に笑いかけて、怯える視線など向けない女性――ジャンナが不思議だった。
しかし名前か……。
俺の名前はクラレンス・ロード。
だけど、その名前を口にするのは憚れた。どういう現象で今の出来事が起こっているか分からない。何で目の前のジャンナが、俺を『魔王』の側近だと思っているのにこんな態度をするのかも。
もし名前が何らかのきっかけになるのならば、このジャンナに伝えた途端何か変わったりするのだろうか。
……それにクラレンスというもう誰にも親しみを込めて呼ばれない名前を誰かに呼ばれれば悲しくなりそうだったから。
だから、
「……好きに呼べばいい」
とそう言った。
「そう、じゃあクロと呼んでもいい?」
「ク、クロ?」
なんでもいいとは言ったけれど、そんな名前で呼ばれるとは思わなかった。
それじゃあまるでペットか何かのようだ。思わず戸惑ってジャンナを見る。ジャンナは笑みを浮かべている。
「文句があるなら呼ばれたい名を教えてくれる? それか、本当のあなたの名前」
「……クロでいい」
呼ばれたい名前などない。本当の名前も伝える気はない。
どうせこの目の前のジャンナとも長い付き合いにはならない。どうせどこかで一区切りがくる。このジャンナに俺が裏切られるかもしれないし、それとも俺が追われてここから逃げ出すかもしれない。
クロなんて呼び方をされることは少し不服だが、もういいやと答えた。
「じゃあ、クロ。これからよろしくね。私は此処で生活しているから、クロも自由に過ごしてもらっていいから。ただ外に出て誰かに見つけられたら大変っていうならここにずっといればいいわ。ただ少し生活のお手伝いはしてもらえると嬉しいかな?」
何故、こんな風にジャンナが笑いかけてくれるのか分からない。
どうして俺に自由で過ごしていいなんていうのだろうか。
俺に何かしてほしいからと此処に留まれといっているわけじゃないのだろうか。――目の前のジャンナが分からない。
何でこんなに優しいのか。
――まるで絶望していた俺の願望のように、俺を全て受け入れるようなそんな笑みを溢している。
だけど、俺はジャンナが幾ら優しそうに見えたとしてもジャンナの事を完全には信用などは出来ない。
「……本当に俺が此処に居ていいのか?」
「ええ。もちろん。私は貴方に此処に居てほしい。ゆっくりしていって」
ジャンナは俺の問いかけに、躊躇いもせずにそういうのだ。本当に心から、俺が此処にいることを受け入れているとでもいう風に。
出会ったばかりなのに、俺は『魔王』の側近だと思われている男なのに。
どうしてこれだけ簡単に俺を家にいていいなんていうのかさっぱり分からなかった。
俺が親しくしていたエレファーたちだって、俺が違うと口にしても『魔王』の側近だと信じ込んで、俺の話は全て『魔王』の策略だと信じ込んで――俺の話なんて何も聞いてくれなかったのに。
俺が誰にでも優しいと思っていた人たちは俺の肩書が変われば、ただ攻撃をしてきて、怯えて――そんな行動しかしないのに。どうして、ジャンナは俺に笑いかけられることが出来るのだろうか。
それが分からなかった。
分からないけれど、笑いかけられたことが嬉しかった。
嬉しいと感じているのに、それでもジャンナが実は敵なのではないか――とその思いは消えなかった。
「……分かった」
目の前のジャンナのことは分からない。
分からないけれど、俺は此処にしばらくいることを決めた。




