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僕の蹴りに跳ね飛ばされたアペリアは、体勢を立て直しながら獰猛な笑みをその顔に浮かべる。
その笑みには隠し切れない……、否、隠す心算の全くない喜びが浮かんでいた。
おいおい、本当に、やめてくれよアペリア。
そう、僕は思わず胸中で呟く。
そんな風に嬉しそうな顔をされてしまうと、思わずもっと本気を見せてあげたくなってしまうじゃないか。
でも、それは駄目なのだ。
どんなにアペリアが望もうと、最初からこの戦いの結末は決まってる。
彼はもう下級なんかに居て良い剣闘士じゃなかった。
中級を越え、上級へと駆け上がって行くべきなのだ。
僕は闘争心を満たす為じゃなく、金を稼ぐ為にここに居るから、アペリアの気持ちには応じられない。
せめてもの土産として、この先でアペリアが苦戦するであろう技を幾つか、この戦いで見せておこう。
たった一人の剣闘士に入れ込み過ぎている事はわかっているけれど、彼はそれほどの逸材だから。
それから暫く、幾度もアペリアの攻撃を受け損ねて血を流した僕は、力を失い、最後に盾ごと吹き飛ばされて地に転がる。
戦いの終わりを告げる銅鑼の音と、激しい名勝負を見た観客達の割れる様な歓声に混じって、アペリアの悔し気な咆哮が闘技場に響いた。
……もしもアペリアがそれを許してくれるなら、僕が全てを返し終わって身軽になったら、今度は僕から会いに行く。
その時はもっと、遥かに高い場所に居るだろう彼と、混じり気なしの全力をぶつけ合いたいと、強く思う。
それから半年が経ち、ファウターシュ男爵領も収穫の時期を迎えた。
豊作とまでは行かなかったが、例年通りの収穫を得て、久しぶりに訪れたファウターシュ男爵領は完全に立て直せた様に見える。
どうやらアラーザミアで僕のパトロンをしてくれていたザルクマ伯爵夫人が、裏で色々と手を回してファウターシュ男爵領の立て直しに力を貸してくれていたと言う。
可愛い代理騎士へのプレゼントだと笑っていたが、本当にあの優しいイトコには頭が上がりそうにない。
その御蔭もあって、これまでの稼ぎと今年の収穫を合わせれば、負債も全て完済だ。
だから僕は、最後に残ったこの名前、ファウターシュ男爵家の当主を弟、コラッド・ファウターシュに渡す為に男爵領に帰って来た。
……のだけれども、まさかあんなに妹であるマリーナ・ファウターシュに叱られ、あまつさえ大泣きされるとは思ってもなかった。
僕は割と頑固だと言われるが、妹はそれ以上だと思う。
「散々泥を塗った名前をコラッドに継がせて、お兄様はそれで満足なのですか?」
「お兄様が追放されれば解決する? コラッドに、実の兄弟を追放させると?」
「私がコラッドの後見ですか。つまりあの子が大きくなるまで私に行き遅れろと、そうお兄様は仰るのですね」
「逃げないで下さい。家名に泥を塗った位がなんですか! そんな泥、帝都の御前試合で優勝でもすればあっと言う間に拭えます。本当に腕自慢だったら、それ位はして下さい」
なんて風に、涙を流しながら言う妹に、僕は反論の言葉をなに一つ持てなかった。
いや、帝都の御前試合で優勝って、上級剣闘士になってからじゃないと大会に出場も出来ないから無茶苦茶大変なんだけれども。
それ位はファウターシュ男爵としてやって見せろと、妹は言ったのだ。
僕が途中で力尽きて命果てたなら、妹は髪を切り、一生を独身で領地を支える覚悟を決めるからと。
そんな風に。
もう、本当に、重い。
借金を返せば身軽になれると思ってたのに、なんでもっと重い物を僕は背負っているのか。
その話の間、弟のコラッドはずっと僕の腰にしがみ付き、死なないでと泣いていた。
でもマリーナの無茶な期待も、腰にしがみ付くコラッドの物理的な重さも、何故かどこか心地良いのは、僕が彼女と彼の兄だからだろう。
この半年で、僕との対戦に勝利したアペリアは、怒涛の勢いで上級剣闘士まで駆け上がった。
そんなアペリアより一足先に、僕の友人でもあるマローク・ヴィスタも上級に昇格していたが、もしかすれば帝都の御前試合に、彼等も参加をするだろうか。
だとすれば、彼等はとても手強い敵になる。
けれども本気で彼等と戦えるなら、それはきっととても嬉しい戦いだ。
僕は今日、帝都を目指して旅に出る。
アラーザミアでは、ファウターシュ男爵の名前は悪い意味で売れすぎてしまった。
その悪名は、きっと御前試合に優勝するって目的の前では邪魔になってしまう。
色眼鏡で見られては、上級剣闘士への昇格だって遅れるだろうから。
トーラス帝国で一番剣闘士の質が高いと言われる帝都で、誰にも文句を言わさぬ形で上級剣闘士を目指すのだ。
剣闘士なんて道を進めば、明日を生きてる保証なんてどこにもない。
でもそれが僕の足を止める理由には、もうならなかった。
何故なら円形闘技場の、剣闘士の血や汗が染み込んだ土の下には、金も名誉も、欲望、絶望、希望の全てがごちゃ混ぜになって埋まってるから。
僕はそれを掴みに、背中を押してくれる重い荷物を肩に背負って、一番大きな闘技場がある帝都に向かう。




