王子と候補者
「さぁ、ここでいい子にしているのよ?また、木に登ったりしては駄目だからね」
数分後、エイダと別れ私は文殿に向かう途中にあるお庭に立ち寄り仔猫を庭に下ろした。足下に擦り寄り喉を鳴らす姿は愛らしい。思わず笑みが溢れると仔猫は庭に向かって走り出す。小さな虫を見つけたのだろうか。じゃれるように飛び跳ね、前足で必死に捕まえようとする姿に心が癒される。このままいたいけど、エイダにすぐに行くと約束をしたからもういかないと。
「またね」そう胸の中で思い軽く手をふり仔猫に背をむけた。急ぎ足で文殿に向かおうとすると不意に仔猫が動きを止めてか細い声で鳴く。振り返り、仔猫の背中を見つめると仔猫は真っ直ぐに裏庭の方角に走って行った。裏庭には大きな木もある。また登ってしまったら危険だ。なによりもその方角には王宮の兵士が住み込む別棟がある。女の私はその場所にはいけない。慌てて仔猫を追いかけその小さな身体を抱き上げればキョトンとした顔で私をみつめる。
「ごめんね。そっちは駄目よ。こっちでいい子にしていてね」
首元を撫で、抱き戻ろうとした時だった。
「そんな。あの夜…私に掛けくれた沢山の言葉は嘘だったんですか?」
「困ったことを聞くね。あの夜、その言葉を望んだのは君だよ。私はその願いに応えて、君が求めた言葉を言っただけだよ。それが私の本心とは限らない。キミも…それを分かっていたんじゃないかな?」
「それは…。ですが、私は殿下を愛しています。だから、私から誘ったとしても受け入れてくれた事が嬉しかったんです」
誰の声だろう。聞くところ、男女であることはわかる。それも、とても重い話な気がする。「王宮の兵士かな」内容的に男女のもつれなのはなんとなく感じる。
「受け入れてくれたのが…ね。だけど、君も知っているよね?私が来るものは基本的に拒まないってことを」
「それは、そうですけど…そんなのあんまりです…わたし…初めてだったのに…。とても優しくしてくれて…私は、わたしだけを見てくれるんだって…っ」
「最初に言ったはずだよ。誘って来た際、割り切った関係でもいいなら、君に甘い夢を見させてあげると。きみは、それに迷う事なく同意した。それを一度身体を重ねたからって覆る事はない。私は君を愛すことはないよ。攻められる理由は私にはない」
「…そ、そんなっ」
重い話し。誰がそのようなことを言っているんだろう。その姿を一目見てみよう。そう思い声が聞こえて来た場所に近づくと顔を覆い涙を流す侍女らしき服装の女性と男性の姿があった。その姿をまじまじ見つめると、思わず口から変な声が出た。
「…あっ」
その姿をみただけで、その男性が誰かわかった。痛みのない美しいブラウンの髪の毛。スラッとした体型に背中越しにもわかる異質な雰囲気。あの男性はノステリア様だ。泣き乱れる女性を前にノステリア様は深いため息をはき腰に手をあてる。
まさかノステリア様だったなんて。これは、関わらないほうがいいかもしれないわ。何か巻き込まれては大変だもの。
「エイダのところにいきましょう…」
踵を返し、その場を立ち去ろうと背後に下がる。が、胸に抱いていた仔猫が暴れ、私の腕から抜け出すように離れていく。「まって」囁くより早く仔猫はノステリア様の側にかけ寄りその足元に飛びついた。驚いた顔で仔猫を見下ろして抱き上げる。背後を振り返り私の姿を確認するもの、一瞬驚いた顔を浮かべたが何故か微笑んだ。
「…えっ」
硬直する私を前にノステリア様は仔猫の首をなで、手招きをする。見つかってしまっては逃げられない。警戒心を放ちながらノステリア様に近寄る。涙をこぼす侍女が私をみた。愛らしい顔立ちの女性。涙でぬらす大きな瞳をみるとなぜか心が痛い。その視線に耐えられなく視線を足元に移すとノステリア様は肩に手を回す。
「もしかして、部屋で待っててと言ったのに待ちきれなくて私を迎えに来てくれたのかい?嬉しいよ」
「え…えっと、あの」
「殿下…もしかして、これからそちらのご令嬢とお約束をなさっていたのですか…?」
「あぁ、そうだよ。彼女は今回の選考会にいらしたカーティス家の者だ。すまないが…彼女との約束がある。もう、これで失礼するよ」
「そんな…ノステリア様…待ってください…」
「あぁ、それと。私はこれから王妃を選ぶ立場なんだ。だから、私との事は忘れるか夢だった事にするといいよ。出来ないようなら、王宮を離れたほうがいい。その気持ちは私に届く事はないだろうからね」
「待ってください!私は本当にノステリア様のことが…いやっ…そんなっ」
彼女の叫びを聞こえているはずなのに、立ち止まる事なく私の肩を抱いたまま歩き出した。後ろ髪を引かれる思いだった。泣き崩れる彼女の様子を伺うことも振り返ることもしない態度に少し軽蔑した。
「いいんですか?泣いています」
「いいんだよ」
「よ、よくないです!は、離してください!」
回された手を力一杯引き離して距離をとる。イラついたような顔で再び私の手首を掴み歩き出す。
「ノステリア様!離してください!あんな言い方はあんまりです。お二人の間に何があったのか存じませんが、女性を泣かせるなんて、殿下としてお恥ずかしくないのですか?」
「残念な事に、そんな感情は持ち合わせてないもので。それ以上、うるさい事を言うな。これは俺の問題だ。忘れろ」
「……….っ」
旅立つ前に、クロエ様から「殿下は少々、女性に対して節度がない」と聞いていたけれど…ここまでとは。こんな方の花嫁になりたいだなんて、他の令嬢はおかしい
「わかりました。もう、何も言いません。あの、それより手をどかしてください。痛いですので」
手を振り払うと、ノステリア様はまたすぐにその手を伸ばし手首をつかんだ。
「やめてくださいっ」
「お前逃げるつもりだろ?現に、昨日こいと言ったはずなのになぜここにいる」
「そ、それは…その…」
「あぁ、逃げようとしていたわけだ」
「そん…な…こと…ございません」
動揺しているのはあきらかだろう。しどろもどろと返答を返すと、ノステリア様は見下すように微笑み、どこかに向かって歩きだす。
「あの、私はこれから御用がございまして…」
「どうせ文殿だろう。勉学より昨夜の約束が優先だ」
「ちょっ…まって」
そ、そんな。エイダがまっているのに。また怒られてしまう。私の抵抗など無意味だった。
*
「あの…私のようなものがこのような場所に出入りをしてもよろしいのでしょうか?」
ノステリア様に促連れられて来た場所は王宮内にある外殿と区分けされる場所。そこでは王や官僚達が日常的な執務を行う場所で女である侍女すらなかなか入ることの出来ない所だ。
「構わないから連れてきたんだ。気にすることはない」
「ですが…」
ここに連れられてくるまでに、何人かの官僚達とすれ違った。誰もが私を凝視して、通り過ぎればひそひそと何か良くないことを話す声が聞こえとても片身が狭い。それに、この部屋に入ることは何を意味しているか…想像すると恐ろしい。昨夜のこともあるから。
「あの…やはり私はここで」
「ここまで来て、そんな事を言うな」
「で、ですが…あ!ちょっ」
素早くドアを引き、強引に部屋の中に押し込まれた。
背後でドアの閉まる音が聞こえ、慌てて振り返るとそこにはニコニコと笑顔を浮かべるノステリア様の姿。
もう逃げられない。胸元の服を握りしめ、背後に一歩下がると、彼もまた一歩近づき素早く私の手をとった。
「あの…お、お許しください。お怪我を2回もさせたことは反省しております…ですがはやり…私は…こ、婚姻前に…そのような事をするなど…出来ません。お御父様にも貞操は大切にするようにとお厳しく教育をうけました…ので」
こうなったら、謝って見逃してもらうしかない。手首を掴まれたまま頭を深く下げると、ノステリア様はフッと鼻で笑った。あざ笑うような、小ばかにしているような笑いに顔を上げる。
「…え?」
「はは。やはりお前は面白い。この俺を何回も拒否する女なんてそうそういない…いや、いなかったな。お前を手篭めにするのは諦めたよ。そもそも今日は最初からそういうつもりはない」
「え?ほ、本当ですか…?」
「あぁ」
良かった。ほっと胸をなでおろしたのもつかの間、手首を掴んでいた手が私の顎を捉える。
「ちょっ、ノステリア様…たった先ほど諦めたと…」
「そっちはな。諦めるかわりにこれから暫くの間でいい。この部屋の片付けをするだけだ」
「か、片付けを?」
ノステリア様の視線が周囲を見渡す。それに釣られるように見渡し、思わず身体が固まった。机や床に散乱した書類の数々。出しっぱなしになった書物。長椅子に乱雑に置かれた衣類。言われて気づいたけれど、とても散らかっている。
「あの…」
「寝室は侍女が清掃をしてくれるが、ここはそうはいかない。毎日、毎日ギルがうるさく言うからしているが、俺はそんなことをしている暇はない。それなのに、あれこれと仕事を増やされてたまったもんじゃない。過去のことは水に流してやる。その代わりにこの部屋の片付けで手を打とう」
「あの…選考会の候補者がノステリア様の執務室を片付けるなど…」
「してはいけないなんてルールはない。それとも、俺に逆らうのか?逆らうのなら今夜にでもお前を抱く」
「さ、逆らってなどいません。ただ、お立場的にまずいかと。それに、選考会の姫君はノステリア様の寵愛を受けたくここにいます。私にそのような事を授け、特別のようにするには批判もついてきます。なにより…ノステリア様をお慕いしている方々に申し訳ないです」
「お慕いね。では、ユーナは欲しくないって言うのか?その、殿下の寵愛とやらを。選考会に参加しておきながらこの俺を慕ってないと?」
何も言い返せなかった。だって、私は姫のふりをしている侍女。選考会が終わったらここを去る。そんな願望も思いも、最初から私には必要ない。何も言わず、黙っていればノステリア様は執務を行う机の椅子をひき、そこに深々と座った。
「肯定ってことか。考えてみれば、お前はクロエの代理だ。俺のことも存じてなかったみたいだし、その反応も納得は出来る。まぁ、そんな事はどうでもいいさ。とにかくユーナはここにいる以上俺には逆らえない。それなら黙って言うことを聞くことだ。他の候補者の事は気にしなくていい。好意を寄せてくれる女には適当に相手をして機嫌を取れば問題ない」
「不誠実です。先ほどの侍女のこともそうです」
「それはお互いさまだ。向うもそうだろう。欲しいのは地位と名誉に自由と優雅な生活が欲しいだけだ。俺の外見を好み近寄ってくる。利用される前に俺が利用してひと時の甘い夢をみせているだけだ。それの何が不誠実だ。簡潔に分かりやすく説明をしてみろ」
「…それは…」
このお方は…なんで、そんな事を考えているのだろう。そう言うノステリア様はどこか切なさが込められた声でとても冷え切った色が瞳の奥に垣間見える。
それをなんとなく感じているけれど何もいえない。何を言えばいいのか分からないのかもしれない。
「余計な話をし過ぎた。俺はこれから執務にうつる。仕事は明日からでいいから今日は戻れ」
虫を払うように手を動かしたあと、ノステリア様は山積みになった書類に目を通していく。もう、話は終わりってこと…か。私は深々と頭をさげ部屋を出ていった。
*
「ユーナ様、いいですか?わたくしはユーナ様の御身をカーティス家からお預かりしているのです。何かありましたらまず私にご相談とご報告を必ず致してください」
「も、申し訳…ありません」
その日の夜、私は私室にてエイダにお叱りをしけていた。
「お時間が経過してもお姿が見えなく、心底ご心配していたのですよ」
ノステリア様のお部屋を出たあと文殿に向かったがそこにエイダの姿はなかった。もしかして。そう思い部屋に戻れば顔を真っ青にしたエイダがうな垂れた様子で佇んでいた。実は私がノステリア様に連れられて一刻は経過していたことから、エイダは王宮の兵士に内密に捜索をさせる大事件になっていた。無事に私を見つけ事後処理と侍女長からのキツイ説教をうけやっと戻って来ることが出来たのが太陽が沈んで随分と時間が経過してからだった。
「あの…本当にごめんなさい。その…断れなくて…」
「いえ。事情はギルバート様からお聞きしました。殿下に誘われては断ることも出来ないです」
エイダはどうやら、今朝おきたことをギルバートから聞いたらしい。きっと、ノステリア様もそのような事件になっていたことからギルバートに言ったのだろう。そのついでに、私は王宮に来てからノステリア様との間に起きた事をエイダにすべて話した。隠すのもつらいし、なにより同じ女性として何か相談をしたかったから。
「しかし、これで納得です。あの夜、なぜ殿下が夜伽に誘ったのか私には理解が出来なかったので」
「そうよね…黙っていてごめんなさい」
「いえ。言い難かった心中はご理解できますゆえ。ですが、明日からお疲れになりますね。殿下の執務室は資料の量が多く整理整頓はお時間と労力が必要な作業です」
「ええ。ほかの候補者に怪しまれないといいけど」
「おびえていては何もできません。こうなった以上、殿下の助手としてお勤めください。お気に召してもらっているのは事実なので、良かったですね」
いや…なにもよくない。エイダにはある程度は話したけれど、私が侍女ということや、王妃になる気など全くないし、彼を慕ってもいないとまでは…さすがに言えなかった。本当にこれから前途多難。こうなってはどうなるかもわからない。カーティス家やクロエ様に合わせる顔が本当になくなってしまう。