駆け引きと王子
これからどうすればいいか。何をすればいいのか。視線をあらゆる方向に向け、最後に俯いたままその場に立ち尽くす。パタンと本を閉じる音が聞こえた。そんな小さな物音でも身体がびくりと震えると、それをあざ笑うかのようにノステリア様は言う。
「そんなに怯えるな。と、言うか…来るのが遅いと思うが?俺が呼んだ時、次はあまり待たせるな」
「は、はい。申し訳ございません」
なんて偉そうな言い方なんだろう。もう少し、言い方ってものがあるだろうに。
「何か言いたそうな顔をしているな。それに、侍女に無理やり連れて来られたって顔だが?来るつもりはなかって事か」
「…そ、それは…」
と、言うか…今朝も思ったけれど、ノステリア様の口調と雰囲気がおかしい。最初のころはとても穏やかな口調だった。2回も無理矢理唇を奪われた時も、こんな口調だった気がする。
なんでだろう。疑うような視線にノステリア様は眉間にしわを寄せた。
「なんだよ」
「い、いえ…なんでもございません」
「あぁ、そう。それよりいつまでそこにいるんだ。はやくこっちに来い。俺が部屋に呼んだ意味と理由、今更分からないわけがないよな?」
手招きをされ、怖いと思った。断る事をさせない物言いに私は恐る恐る近寄りすわった。一定の距離を保つもの問答無用に手を伸ばし、手首を荒々しく掴まれた。
袖の隙間から覗く包帯。よく見れば、美しい顔にも擦り傷があった。仔猫を助けてくれた時のものだ。
「あの、ノステリア様…そのお怪我は大丈夫なのですか?」
「大丈夫ならこんな包帯はしない。まぁ、薬師が少し大げさに処置をしたくらいだが」
「そうですか。それは安心しました。余計なお世話かもしれませんが、今日くらいは安静にしておいた方がよいかと思います。骨とかには異常はありませんか?そうだ、助けてくれた仔猫ですが、ご飯を食べて今はお部屋で眠っています。母猫とはぐれてしまったのでしょうか?って…痛いっ!」
突如てを掴まれ痛みが走った。手を振り払おうと反対の手でノステリア様の肩を押す。だが、その手も掴まれ、引き寄せられる。一瞬の合間に私を長椅子の上に押し倒し身体に覆いかぶさって来た。顔の横に手をつき、驚き怯える私を見下ろし楽しそうに微笑んだ。
「な、な、なにを…え、えっ…ちょっ!?」
ドクン、ドクンと心臓が異常な動きを刻み挙動不審に視線を左右に動かす。そんな私の動揺する姿を見下ろしながらノステリア様は優越感に浸った顔で言い放つ。
「覚悟してきたんだろ?日中から深夜まで『心の準備』の時間を与えてやったんだ。いまさら、そんな風な怯えた顔で情けを求めても無駄だ。こっちをむけ」
顎をつかまれ私の顔が前をむく。身体中が、赤く熱を持ち始めているのが自分でもわかる。だからこそ恥ずかしかった。
「あ、あの…わたし」
「はじめて、だよな」
「あ、当たり前です。誰にでも身体を簡単に許すなんてことは…ありません」
「そう?俺はそうじゃない子を沢山見て来た」
「そ、そのような事を…い、言われ…ましても…わ、わたしには、よく、わかりません」
「まぁ、そうだよな」
「あの…の、ノステリア様…やはり、私は…」
「やめてとか聞く気はない。あの時から、俺に手を挙げたお前を抱くのを心待ちにしていたんだ。どんな顔で俺に縋ってくるのか、楽しみだよ」
そう言いながらノステリア様は私に覆い被さったまま自身の衣服の留め金を二つ外す。隙間から垣間見る胸板と素肌に見てはいけない物な気がして瞳を硬く閉じた。
ノステリア様はとても魅惑的だ。こんなにまじかで男性の肌を見るのは初めてなのに、物凄く綺麗だと思った。
「…あ…」
ノステリア様の細長い手が私の衣服にかかる。人差し指で胸元に指をかけ、軽く引っ張って離した。焦らされているような仕草にこっそりと瞑っていた目をあけると、目の前の男性は微笑んでいた。
怖い、とてもこわい。ど、どうしよう。こんな私を抱いて彼に特なんてない。美しい女性は王宮には山ほどいる。ノステリア様を喜ばせる術を持っている女性だっているはずだ。私を抱く利点なんてないのに。いやだ。やっぱり怖い。身体が震えた。生半可な覚悟なんて意図も簡単に崩れ去っていく。やっぱり、こんな事出来ない。
「ノステリア様…っ」
恐怖心をぐっと押さえ私は彼を見上げた。利き手でノステリア様の胸元を押し上げ顔を背ける。
「やはり…お、お許しください…こ、このような事は…その…申し訳ありません…私には心の準備も覚悟も出来ていません」
「駄目だと先ほど言ったばかりだ。聞いていなかったのか?」
「き、聞いていました…で、ですけど…」
ど、どうにかして…丸め込まないと。
「え、えっと…その、実は…先ほど月の物が…来てまして…なかなか、言い出せずに…いました」
震える声でいうと、ノステリア様はニヤリと口元を釣り上げた。
「そうか。それはとても愉快な嘘だな。一つ言っておく。侍女がお供をして連れて来ると言うことは、夜を過ごしても大丈夫と言う意味もある。本当に月のモノならそもそも連れて来る事はない。そんな嘘は丸見えだ、諦めろ」
「で、ですが!」
留め金が一つ外れた。楽しそうな顔で右手で髪の毛を耳にかけると、ピアスがゆれ、その手に巻かれた包帯が目にはいる。
「あ……」
そ、そうだ。この手があった。一か八かの言葉が頭に浮かび、私は更に彼の胸元にある手に力をこめる。
「あの!」
「今度はなんだ」
「えっと…その、お、お怪我をしておられるのです。負担になるかと…ここはやはり、安静にしているべきかと…思います」
「気にやむ事はない」
「ですが、ここで無理をなさると公務に支障がでます。それに、そのようなお怪我で夜を過ごそうなど…そ、その…カーティス家の産まれの者に失礼では?殿方に初めてを捧げるのですから、せめて怪我もなく体調も良い時のほうが、じっくりと…色々と教えて頂けますし、ノステリア様が喜ぶ事も出来るかと…」
「……」
何を言っているんだろう。大胆な事を言ってしまった恥ずかしさに顔を隠したいがそうはいけない。
「そ、それだけではありません。お父様に私を乱雑に抱いた事をご報告すれば…た、大変…遺憾に、お、おも…われます…が。自分で言うのもおかしいですが、私は箱入り娘です。そんな私をこのような場所で事に運ぶなど…だ、大問題です。きっと、怒鳴り込んで来ます」
しどろもどろだ。いい考えだと思ったが、いざ言うとこんなのでこの危機を回避することなんて出来るわけがない。なにか…なにか言わないと…そう思い、頭の中でたくさんの言い訳を考えていると、私の上でノステリア様はくすくすと肩を震わした。
「ふ…ははっ」
「…え?」
な、なんで笑っているの?意味がわからない。彼を見上げ言葉を待てばノステリア様は私から離れ背もたれに手を回して長い脚を組んだ。
「面白い。いいだろう。今夜はその必死さに免じて許してやる」
「え…ほ…本当ですか?」
もしかして…うまくいったの?良かった。ホッと胸を撫でお下ろし、外れた胸元の留め金をはめていく。
「あぁ。だが…ユーナ。明日、時計の針が10を指した頃に俺の執務室にこい。これは頼んでいるんじゃない、命令をしている。断ったり、来なかったたりしたら…次は、分かっているな?賢い女なら何をされるか…わかっているだろう?」
「……」
顔を青ざめ、冷え切った氷のように固まるわたし。
やはり、だめだわ…もう、この人と関わってしまった以上逃げられない。なぜ、このような事になってしまったのか…そんな事を必死で考えてももう遅い。絶望とは、まさに今の状態のことを言うのか。
この先、どうしようとか…そんな事を考えられないほどの絶望。私はただ、意地悪に微笑む彼を呆然と眺めていたのだった。
**
翌朝、前日の雨が嘘だったかのような晴天だった。雲ひとつなく、外からは小鳥の声が聞こえ、木々からは枯れた葉が大地に広がっていく。そんな中、この部屋には奇妙な静けさで満ちていた。カチャカチャとティーカップがお皿の上に置かれる音が響き、目の前に出された紅茶を飲み込む。いい香りの紅茶に心を癒されるが、先ほどから感じるとても痛い視線をうけ私はその主を見上げた。
「エイダ…何か言いたいことがあるのならいって。先程から視線が痛いわ」
昨夜、あれからノステリア様は「用がある。朝までここに」そう言い残して部屋からいなくなってしまった。朝まで大人しく部屋の中にいたけれど翌朝のことを考えるとなかなか眠れなかった。やっとのことで瞼が重くなったのは太陽が顔を出し始めた頃。今にも寝具で横になれば眠れるとはどの睡魔に襲われながら部屋を出ればそこにはエイダがいた。「お務めご苦労様です」とサラッと言われ、否定したい気持ちと恥ずかしさに返す言葉が見つからず。その気まずさの中、部屋から戻ってきて数時間ねむり今に至る。
目が覚め、ご飯を食べてから紅茶を出してもらったけれど、私を迎えに来た時から今にかけてエイダの様子がおかしい。視線がよそよそしいからだ。いいえ、その理由はわかっている。きっと、ノステリア様のことだ。
「あの、エイダ。初めに言っておきますけど、何もなかったから」
墓穴をほっているのかもしれない。私はなにを言っているんだろう。でも、おかしな誤解をされているのは嫌だ。それ以上にこの沈黙はもう耐えられない。
「信じられないでしょうけど本当よ。ノステリア様は御用があると、すぐにお部屋を出ていかれたの。それから1回も戻ってきていません。何もなかったの。私もビックリと言うか…いえ、安心したんだけど…嘘だと思うなら殿下に確認してもらってもいいわ。そ、それよりエイダ…」
「はい?」
「この話は続けていても言い訳に聞こえるから終わりにしましょう。それより仔猫のことはどうしたらいいかしら」
私の膝で丸くなりながらとても安らかな寝息を立てる仔猫。作日、助けたのはいいけど、その後この子をどうすればいいのか少し迷っていた。仔猫の背中を撫でエイダに問うと予想外の返答が返ってくる。
「飼ってはいかがですか?ユーナ様のことです。そのままにはできないでしょう」
「いいの?でも、私は王宮にお世話になっている身です」
「ご心配いりません。ギルバート様にも私から伝えておきます」
ギルバートって、あの人だ。数回会っただけなのにハッキリと覚えている。 私と同じ黒い瞳と髪の毛の人。その名を聞くだけで胸が不思議とざわつく。
「そっか。ありがとう。あ、あの…ギルバートは王宮でどのようなことをしているの?いま、言っておく…と、言っていたけど…ノステリア様とも親しそうな雰囲気だったので」
「ギルバート様はノステリア様の補佐官です。そのほかにも、若くして官僚長でもあり王宮の管轄管理であります。大変頭脳明細ですので、殿下に限らず陛下も信用しております」
「そうなんだ。とても綺麗な方よね。男性に向かってそんな言葉を言っていいのか分からないけど」
機会があれば、もう一度お会いしてみたい。
「ユーナ様?」
「あ、はい?」
「ギルバート様にご興味が御ありでしたら、今すぐにその御感情は捨ててください。ユーナ様は殿下の花嫁候補です。仮にも昨夜はともに夜をお過ごしになられたのですから…」
「そ、そんな気持ちはないです。ただ…なんとなく…その…深い意味はないの。それと、何もなかったってば」
「何もなくとも、呼ばれた事に意味があるのですよ。まぁ、その事はいいでしょう。では、休息をこの辺にしまして本日は文殿に行きましょう。ユーナ様は他のご令嬢の皆様とは異なり学ぶことが溜まっていますので」
「え、ええ。そうね」
ちらっと、部屋の時計をみる。ノステリア様の言う時間までもう半刻もない。だけれど、行くなんて約束はしてないもの。
「わかったわ。そうだ、その前にこの仔猫を庭に連れて行っていいかしら?お外の方が気持ち良いでしょうし…放したらその脚で文殿にむかいます。先に行っていてください」
「はい。かしこまりました。お気をつけてお越しくださいませ」
これで、いいのよ。あんな変態知らないんだから。どうせ…行っても変な事をされるだけだし。また、エイダに誤解されてしまうし、官僚や他のご令嬢に見られたら大変だもの。後ろ髪を引かれる思いだったがそれを振り払い私は仔猫と庭に向かった。