猫と雨
その日から3日間、会わないように気をつけていた事もあり、ノステリア様と顔を合わせる事はなかった。そして、カーティス家にノステリア様との出来事を書いた文は書くのをやめた。心配をかけたくない。そんな思いから。と、言いたいところだけれど…実際、この数日で起きたことをどのように説明をすればいいのか分からなくて、保留にしている。そんな4日目のある日、事件は起きた。
「今日は凄い雨ね」
空は灰色にそまり、水をひっくり返したかのような雨がおさまることなく大地に打ち付ける。
「この時期にこの雨は毎回のことです。気温も下がっていますのから、雪が降りそうですね」
「そうね。王都は雪はつもるのかしら?」
私が住んでいた場所は冬期になると沢山の雪がふる。よく、クロエ様と雪で遊んだ。
「積もるほどはありません。お風邪など引かないようにご注意下さい。確か、事前の調査ではユーナ様は軽度の喘息持ちだと聞いています。季節の変わり目はお辛いのではないですか?」
「そんな事まで知っているの?」
「その辺は把握済みです」
エイダの言う通り、小さな頃に季節の変わり目は咳が出て胸が鳴るような呼吸をしていた。薬師に診てもらった際に喘息と言われた。煎じた薬を飲んでいる内に発作は治ったけど、念には念をいれて調べられているのね。
「まさかとは思うけど…身長とか体重とか、身体の寸法とか…そういうのも、調べてノステリア様に報告とかいってない…ですよね?」
「ご要望でしたら、殿下にご報告いたしますが?」
「け、結構です!」
「左様でございますか。他の候補者の方は少しでも気に入られようとご報告するものもいますが」
「そうなの?!そんな事をして、何になると言うの?」
「保険ではないでしょうか。正妃として選ばれなくとも、側室や妾としての立場を取得したいものです。殿下のお側にいるのが、世の女性の憧れです。ユーナ様もそうなのでは?」
「い、いえ…私は別に…私はお姉様の代わりです。そこまで望んではいません」
「そうですか」
「え、えぇ。それより本日は文殿には行かなくていいの?」
「はい。文殿には庭園を通らなければなりません。この雨の中、歩くのは酷かと思いますので。本日は勉学の事はお忘れ、お休みください」
エイダはそう言うと、手早く白く薔薇の絵柄のティーカップをテーブルに並べる。ティーポットに茶葉をいれ、お湯を注いだのち、カップに注いでいく。席につき、差し出された紅茶を頂くととても美味しい。カーティス家でも、それなりにいい茶葉を仕入れていたけれど、王宮のも素晴らしい。
「ありがとう。あの、でも、お休みなど頂いていいのかしら?お時間もあまりないのに…」
「皆様、数日置きにお休みを挟んでおります。お気に為さらず、お休みください。では、私はお仕事に戻ります。何かありましたら、お呼びくださいませ」
「はい。わかりました」
胸元に手をおき、そのまま頭をさげエイダは部屋を後にする。エイダがいなくなり、部屋には雨の音と紅茶を啜る音だけが響く。お休みをいただいたのはいいけれど…この部屋にいても、なにもする事はない。晴れているのなら、外にいけるのに残念。ティーカップをお皿におき、そのままおもむろにベッドに身を投げ出す。手足を楽々と伸ばし、ゴロンと寝返りをうち、横になりながら窓の外を眺める。
それにしても、殿下の婚約者候補に選ばれる事が、こんなにも大変だとは思わなかった。礼儀作法を学ぶ事は勿論、エイダの前で手足を伸ばしてベッドに寝転がることも出来ない。
窮屈だな。このまま平穏で、ノステリア様と会わないですごしたいかも。そのような事を考えていれば、次第に睡魔が襲ってきた。規則正しく降り続ける雨音が何故か心地よく、いつの間にか深い眠りについていた。
*
うたた寝をしている時、夢を見た。それは幼い頃だった。
『ユーナ、どうしたんだい?』
雨が強く降り続ける時、私は部屋の片隅で泣いていた。カーティス家の当主であるアンリ様はそんな私の背中を撫でながらとても穏やかな声であやす。
『泣いていては…分からないじゃないか。ほら、涙を拭きなさい』
衣服の袖で私の涙を拭い、小さな身体を抱き上げ肩に担ぎあげる。崩れ落ちそうになった身体を押さえるため、小さな手でアンリ様の髪の毛を掴めば、彼の表情が歪む。
『ちょっ、ユーナ。髪の毛は痛い!ぬ、抜てしまうよ』
それでも、髪の毛を掴んだまま泣き止まない私。次第にアンリ様は諦めて、部屋の中を歩きだした。ゆらゆらと身体を揺らしながら歩き、ふわふわとまるで雲の上にいるような気持ち。目を閉じ、その規則正しい動きに身を委ねると何処からともなく声が聞こえてきた。
「……ん」
僅かに聞こえる小さな鳴き声。怯え助けを求めるような声だった。なんだろう、この声。人間ではない鳴き声。
そっと、思い瞼を開ける。身体を起こして外をみるがまだ雨は降っていた。寝具から立ち上がり飲みかけの紅茶を飲むと、先ほどの声が聞こえる。
「……ん?」
夢じゃない。窓の外から聞こえて来る声に私はカップを置いてから窓に近寄る。鍵を開け、窓を開けると雨音にまじり聞こえて来る小さな鳴き声。この声は猫だ。窓から身を乗り出してその姿を探せば、木の上に身を縮めながら身を震わせる仔猫の姿があった。
どうしてあんなところ。私がいる部屋は4階。一階は通路になっていて、部屋からは庭が見渡せる。その庭を挟み壁側に木がある。きっと、壁を渡り木に飛び移って降りれなくなったのね。可哀想に。窓を閉めて羽織りを肩にかけ、ドアを開けると見回りの兵士が開かれたドアに気づき近寄って来た。
「御用でしょうか。ユーナ・カーティス様」
「あ、え、えっと…その…エイダに用がありまして」
「エイダは只今、侍女長に呼ばれ別棟にいられます。お呼びしましょうか?」
「い、いえ。それなら、私が別棟に行きますわ。その、雨よけをお借りしたいのですが」
まさか、この兵士に猫を助けてきてくれなんて、言えない。怪訝な顔をされるのは目に見えている。エイダに言って助けてもらおう。
「しかし、令嬢にそのようなお手数をお掛けするわけには…」
「構いません。お願いします」
私の押しに負けたのか、逆らえないのか、兵士は渋々と雨よけを持って来てくれた。それを片手に一階の渡り廊下に向かう。部屋から見るより、身はかなり小さかった。産まれて間もないのかもしれない。
待ってて。そう思うと、私の姿を見つけた仔猫が身体を震わせながら立ち上がった。
「あっ」
思わず、脚が止まった。足元が雨水で濡れ、我にかえる。つい勢いで来たけど、雨の中を木登りなどしたら危ない。それに、この衣服は王宮から支給されたもの。汚した理由を聞かれ、猫を助けるためだなんて、いってもいいのか。ううん、きっと、貴族の娘らしくないと思われるかもしれない。怪しまれるような事は出来ない。だけど、だけど…ほっとけないのに。
きっと、私がいなくなるとあの仔猫は木から落ちるだろう。小さな命を見捨てるなんてやはり出来ない。大きく息を飲んだ。「覚悟を決めよう、なんとかなる」そう決意する。
「あぁ。分かったよ。それは私の部屋に置いておいて。後で片付けるから」
「はい。承知致しました」
その時、少し離れた所で男性らしき2人の人影が見えた。兵士だろうか。腕や脚には防具をつけ腰には鋭利な剣を携えていた。
兵士らしき男性は向かいの男性に頭を下げ、棟の中に入って行く。残された男は耳元に手を伸ばし耳朶を掴んだ。良かった。あの方に頼もう。その背中に駆け寄り、手を伸ばし背中の衣服を握りしめる。
「あ、あの!」
「えっ…」
「いきなりごめんなさい。お願いが…って…あっ」
振り返った男性と目と目が合った。ウェーブの効いた美しいマロン色の髪の毛。耳に輝くエメラルドグリーンピアス。そして特徴的なブラウンの瞳。間違いない。間違えるはずもない、ノステリア様だ。
「も、申し訳ございません…ノステリア様だとは思わなくて…無礼をお許し下さい」
掴んでいた衣服を離して、大地に額が触れるほど深々と頭を下げた。よりにもよって、ノステリア様に声を掛けてしまうなんて。
「無礼?それは今の事か…この前手をあげた事か?」
「そ、それは…」
「と、言うか…侍女はどうした?候補者の者が王宮内を行動する時は侍女が同行する事になっている」
「今はいません。私の単独行動で…そ、その…無理を承知でお願いがございます」
私の言葉にノステリア様が目を細め見下ろしてくる。猛獣のような鋭い視線に堪えきれず、俯き震える手で木を指差した。
「実はあそこの木の上に仔猫がございます。降りる事が出来なくて…その…助けては頂けませんか?声をお掛けしたのはそのためです」
私の指差す方向を見つめ、仔猫を見つけると鼻から息を漏らす。
「この俺にそんな事を頼むのか?」
「…む、無理を承知でお願いしております…」
「なるほどね。まぁ、いいだろう。ただし、これは仮だ」
「か、仮って…あ、の、ノステリア様!」
最後まで聞かず、ノステリア様は羽織を脱ぎ私に押し付けると雨に濡れるのも気にせず仔猫がいる木に向かう。勢いよく打ち付ける雨がノステリア様の身体を濡らす。なんて大胆なの。傘を持って来たのにそのまま生身の身体でいくなんて。だ、大丈夫なのかな。
ノステリア様の背中を見つめていると、彼は木の根元に到着するなり身軽な動きで木に登っていく。仔猫の所までたどり着き、仔猫を抱き上げた。
「よ、良かった」
安堵し、無意識に微笑みが溢れた瞬間だった。木から下りようとしたノステリア様の足が滑り身体が揺れた。「あっ」と、声が漏れた時には既に遅く彼の身体が木から大地に引き寄せられるように落ち雨の音と共に鈍い音が響いた。
血の気がひいた。慌てて雨よけを開きドレスを持ち上げる。外に出ると勢いよく雨が打ち付け、飛び跳ねる雨水が衣服や足元を濡らす。
「の、ノステリア様!」
頬や腕、足元には多数の擦り傷。顔を歪め腰を抑えるノステリア様の向かいにしゃがみ込むと腕には仔猫がいた。安心したのだろう。彼の指を小さな舌で数回舐め、にゃあと甘えた声を出す。
「よ、良かった。仔猫に怪我なくて」
「はっ?普通、そっちじゃないだろう」
眉間にしわを寄せ、怪訝な顔。濡れた髪の毛を耳にかけ、抱いていた仔猫を私に押し付けた。
「…あ、ありがとうございます…」
「お前のせいで俺の身体が痛い」
「ご、ごめんなさい。えっと…急いで薬師に手当てをしていただきましょう。あ、あと…その…」
そっと、私は持っていた傘を彼に差し出す。雨が当たらなくなりノステリア様は振り返る。
「あの、その、本当にありがとうございます。濡れちゃいますから…なんて、もう、傘の意味ないですけど」
「全くだ。俺はいいから」
「ノステリア様!」
突如としてその叫び声は通路から響く。この豪雨に負けないほど大きな声に私もノステリア様も顔をしかめた。振り返った先には片手には雨よけを持つ兵士の姿。
「まずい。見られたか。お前は何も言うなよ」
「え?」
駆け寄ってきた兵士は目の前で立ち止まり言い放つ。
「ノステリア様!お身体は大丈夫ですか!?先ほど、木から落ちる所を目撃しまして…怪我などはありませんか!?」
「大丈夫だよ。心配掛けたね。そこの仔猫を助けていたんだ。私がいかないと落ちていたかもしれないから。それより腕を怪我した。着替えと薬師の手配を頼んでもいいかな?」
「承知致しました」
「あと、ついでに彼女の侍女を探してはくれないかい?私のせいで濡れてしまってね」
そう言うと何故か手を伸ばして私の肩を引き寄せた。
その行動に兵士は顔を赤く染め頷いた。
「しょ、承知しました。では、ノステリア様はこちらに」
「あぁ、分かったよ」
兵士が背中を向けて歩き出した時、突如としてノステリア様は肩を抱いていた手で私の雨よけを握り反対の手で顎を掴む。
「あ…ちょっ、んんっ!?」
拒む余裕や間もなかった。一瞬の隙に私の唇を奪ったのだ。最初の時と同じ、噛み付くような口付けの後、唖然とする私に言い放つ。
「今夜、俺の部屋で待ってる。来なければどうなるか…分かっているよな?」
「あ……」
顎から手を離して、仔猫の頭を撫でる。そのまま何事も無かったかのように男性の後を追いかけ去って行く。
また、キスをされてしまった。何度も何度も瞬きを繰り返すが、呆然と佇むように見えて内心かなり動揺していた。雨で濡れた袖で唇を何度も拭う。
「…………」
クロエ様、わたしはやはりもうダメです。