第一話
木に覆われた道に入った時、野良犬が木のたくさん生えているところから歩いて出てくるのが見えた。茶色の柴犬だった。小柄である。ピンク色の首輪をつけているようだ。僕はその犬に見覚えがあった。
僕は子供の頃、柴犬を飼っていた。名前を小春といった。何でも僕の生まれる二年ほど前から家にいたらしい。小春は外が大好きな犬だった。いつでも窓を見ていた。それで僕が外に出ようとすると、必ずと言っていいほど玄関へやってきて僕と一緒に外に出ようとした。その度に外に遊びに行こうとしていた僕は、代わりに小春の散歩に行ったものだ。
その小春は僕が五歳の頃にいなくなった。僕が散歩している途中のことである。小春は急に立ち止まって、くぅんくぅんと鼻を鳴らしだした。そして自分の首につながっている綱を悲しそうに見つめたのである。
僕はその時、小春に自由がないということに初めて気が付いた。首綱がついていたりしたら、さぞ嫌なことだろうとも思った。そして急に小春がかわいそうになってたまらなくなった。それに小春なら逃げるはずはないと、僕はわけもなく思い込んでもいた。それでつい、綱を首輪から外してしまった。
ところが小春はどこかへ向かって走り去ってしまった。僕のその時の驚きはどれほどだったことか。僕は小春を追いかけてみたけれど、姿はどこにも見えなかった。歩ける限り歩いて探し回ったけれど、とうとう見つけられなかった。
僕は泣きながら家に帰って、小春がいなくなったと母に言った。母はご飯の時間になれば帰ってくると言った。しかしご飯の時間になっても帰っては来なかった。翌日も帰ってこなかった。一か月たっても帰ってこなかったとき、二度と小春とは会えないのだということを理解しないわけにはいかなかった。
あれから六年たつ。その小春が今目の前を歩いている犬とそっくりなのであった。しかし目の前の犬が小春であるはずはなかった。何しろ小春が生きているとしたらもう十一歳にはなる。犬にしては相当の年寄である。ましてやずっと会ってもいない。そのままの若々しい姿でいるはずがない。
ところが今目の前を歩いている犬は僕が五歳に見たころそっくりの姿で、ピンクの首輪をしているところまで同じである。
しかし小春と似ている犬には違いなかった。僕はどうしても名前を呼び掛けてみたくなった。
「小春、小春」
僕が呼びかけると、柴犬は振り返って、しばらく僕を見つめた。それから急にかけだして、またもとの林へ消えてしまった。
僕は思わず追いかけた。木の枝や草が体にぴしぴし当たる。しかしそれでも犬の姿を見失うまいと、僕は必死に目を凝らした。
やがて犬は木のうろへと入っていった。その木はえらく太い大木であった。僕は身をかがみこませ、うろの中へと這って行こうとした。と地面をとらえようとした手は空を切った。あっと思う間もなく、僕の体は傾いた。視線がぐらりと揺れる。木のうろのすぐ真下は空洞だった。僕は頭から、その空洞の中へ落下していった。
空洞の先はどこまでも長い穴だった。穴の真下にはまぶしい光が輝いていた。しかし明るいのは下の方ばかりで、周りのところは暗闇に包まれていた。まるで何も存在しないかのようであった。
落下しているとだんだん目が閉じてきた。落下している間も恐怖を感じてはいた。しかしそれにもかかわらず僕はだんだん眠気を感じてきた。そしていつの間にか、意識を失っていた。
まずはじめにもさもさとしたものを肌に感じた。次いでそれが草、つまるところは草原であるとわかった。起きあがってみると、周りには薄暗い森が広がっていた。
空を見上げる。夕日の赤と夜の青のぼやけた境界線が見えた。もう日が暮れかかっているようだった。それほど長く、気絶していたらしい。
僕は周りを見渡した。するとすぐ近くに木のうろがあった。僕はそこへ近づいて行った。そしてまず手でうろの中の地面を探った。今度はきちんと地面があった。僕はうろの中へと入り込んだ。そこは存外広く、上手い具合に隠れられそうだった。
僕は今日のところはうろの中で過ごすことにした。日が暮れかかっていて、何かをしているうちに真っ暗にならないとも限らない。そうなる前にこのうろの中で眠ってしまったほうがよっぽど安全な気がした。
陽が落ちるのは本当に早いもので、気が付けばもう辺りは暗闇に染まり始めている。僕はうろの中に入った。
うろの中に入っていると、とても静かだった。怖いものも何一つ見えない。うろが外から守ってくれている。その感覚は毛布で心を包まれたように柔らかなものであった。
しかしここは僕の知らない場所だった。そもそも木のうろから落ちて、どうしてこのような場所に来てしまったのかも分からない。それにどうしたら家に帰れるのかもわからない。だから両親にも会えない。ご飯も食べられない。
ご飯のことを考えると腹がすいた。しかし今から食料を得られるような気がしなかったし、取ってくるつもりもなかった。
自分の周りに何もないという現実が僕の周りに集まってきて、孤独を際立たせた。僕は初めて、真の孤独というものをその時知った気がした。初めて感じる孤独はひどく寂しいものに感じられた。
その孤独の中で、僕の心に自分一人よりほかに頼るもののないということがはっきりと心に浮かんできた。それとともにこれから自分がやらなければならないことが頭を駆け巡った。
その中でも主に二つのものが心に強く残った。それは飼い犬の小春のこと、そして二人で家に帰ることであった。
何が何でもこの二つをかなえてみせる。その思いを胸にして僕は眠った。