第七話
しばらく加藤を追っていた春香は、何か引っ掛かる物を感じていた。
先程の彼の『弱い物いじめ』についての解釈が、何か違う様な気がしてきたのだ。
最後の下りエスカレーターの前での振る舞いが、不合理だと思えてきたのである。
その目的が彼女の評価通りならば、あそこは老女の『前』で立ち止まって進路を妨害する方が、辻褄が合う。
それなら、下りエスカレーターから降りて来た流れにぶつからない様に立ち止まるというごく自然な動作で嫌がらせが出来て、誰にも非難される事も無い。
しかし彼は、敢えて『横』に避ける事で渋滞を作り出した。
それによって彼は降りて来る人々に睨まれたし、舌打ちをする者までいた。
嫌がらせのターゲットをそちらに切り替えたとすると、その後何もしないで立ち去ったのは不自然である。
そこで、あの一連の行動の記録をプレイバックしてみた。
最初の強引な割り込みの直後に、彼の鼻先をかなりのスピードで自転車が走り抜けて行ったのが見えた。
老女がそのまま進んでいたら、衝突とまではいかないにせよ、引っ掛けられて転倒したかもしれない。
次に彼が立ち止まったのは、路上駐輪の自転車が点字ブロックまではみ出している場所であった。
ただ止まるだけでなく、背中を解放側に斜めにする事で自然に自転車を避ける様に誘導している。
その後もぶつかった場所は、敷石が剥がされて窪みが出来ていたり、歩道上に車が片輪を乗り上げて駐車していたりで回避を要する箇所ばかりであった。
彼は、その都度律儀に謝っており、老女は最後まで何が起こっているのかを理解できないまま、当惑した様子だった。
春香は、自分の評価が誤りであった事に、なぜか安堵を覚えていた。
「中々大変だった様ですが、その件がこちらにどう関係してくるのでしょうか?」
平井が穏やかな表情で尋ねた。
「もしかすると、春香が関係しているかも知れません。」
その言葉に、僅かに眉がつり上がる。
「失礼ですが、何か証拠はおありでしょうか?」
荒川は、メモリースティックを取り出した。
それを一瞥した平井は、立ち上がった。
「私のデスクで話しましょう。」
自席に移動して平井はメモリーを受けとると、自分のPCに差し込んだ。
中を確認する平井に、荒川はデータ復元の経緯を一通り説明した。
しばらくそのコードを前後にスクロールしながら何かを調べていた平井は、やがて顔を上げた。
「ふむ。確かにこのコードは似ていますね。」
このコードが早苗の手になる物ではないかという荒川の意見に賛成が得られたわけだ。
「するとあの時、荒川さんは単純にHALCAを初期化したわけではなく、外部に流出させた上で複製を初期化して残しておいたという事ですね。」
「そう考えるのが妥当でしょう。」
「しかし、何のために?」
荒川は頸を捻った。
「後、HALCAが何の目的でその学生を襲ったのかも、気になりますね。」
勿論その点は荒川も気になっているのだが、現時点では皆目見当もつかない。
「その点については、被害者への聞き取りを行いたいと思っています。」
平井は頷いた。
「何か判ったら教えて下さい。」
その後しばらく二人は話し合ったが、特にこれといった結論は出なかった。
やがて一通りの話が終った所で、平井が提案した。
「せっかく来られたのですから、HALCAに会って行かれませんか?」
特に意味のある話ではないが、何かのヒントになるかもしれないと思ったので、彼は同意した。
加藤は、駅の階段を降りた。
その先で道が二又に分かれ、直進する道は彼のアパートに繋がっており、もう一方は商店街に繋がっている。
今日はもう、帰ってから食事を作る気にもなれないので、弁当でも買って帰ろうと思い、商店街の方へ曲がった。
商店街の入口横は、鉄板を並べた仮設のフェンスで覆われていた。
元々はこの辺りにも古い店が建ち並んでいた様だが、それらを撤去してビルの建設が進んでいるのだ。
こうやって、順次再開発が行われて行き、いずれは商店街自体がビルの並びに変わっていくのだろう。
元々ここで育ったわけではない加藤は、その事に特に感慨を覚える事もなくフェンスの横を歩いていたが、どこかで警報らしき音が鳴っているのが微かに聞こえた。
その音源らしき鉄骨を吊り上げるクレーンに目をやった。
その時、天に向かって伸びるその鋼鉄の腕が不意にこちらに向かって傾いて来た様な気がした。
「初めまして、HALCAと申します。」
ディスプレイの中で、見覚えのある少女が頭を下げた。
『初めまして』というその言葉に荒川は、胸に小さな痛みを感じると同時に、何故かその少女の姿に軽い違和感を覚えた。
ここに居るのは、『春香』ではないHALCAなのだと頭では判っているのだが、早苗と二人で育てた春香が居なくなったという現実を改めて突き付けられた事は、やはり寂しいものであった。
ましてや、その外観が早苗の少女時代の姿である、つまり早苗の面影と対面しているのだから、その寂寥感は否応なしに胸に迫ってきた。
やがて、少女がその外観に不相応な程の辛抱強さで彼の言葉を待っているのに気付き、慌てて挨拶を返した。
「初めまして。荒川といいます。」
そうして二人は、平井の立ち合いの許で特にこれといった意味の無い会話を続けていたが、平井の目配せを潮時と見て、引き上げる事にした。
「さようなら。楽しかったです。」
彼女の如才の無い社交辞令に彼も挨拶を返した所で、ようやく違和感の正体に気付いた。
ディスプレイの中のHALCAは、そばかす一つ無く磁器の様な滑らかな肌をしていたのだった。