第三話
永田は、教養部の講義棟でエレベーターを待っていた。
天井の監視カメラが突然辺りを見回し始めたが、半透明のドーム状カバーの中の動きなので、その不自然な動作に彼は気付かなかった。
やがてドアが開き、無人のボックスに向かって彼は右足を踏み出した。
その時エレベーターが突然僅かに上昇し、入口に小さな段差が出来た。
彼はその段差に足を取られてバランスを失いかけた。
そして前傾姿勢になった所で必死に背を反らして体勢を立て直しつつ、一気に上体を起こすために再度右足をエレベーターの床に踏み下ろそうとしたが、これが間違いであった。
彼が懸命にバランスを回復しようと足掻いている間に、床が下がっていた。
予想より足の落下が大きく、勢い良く踏み込んだ激しい衝撃に彼の右足が悲鳴をあげると、そのままエレベーターの床に大の字に倒れ込んだ。
恐怖に駆られて起き上がる余裕もなく、そのまま足の方向へ這い出そうとしたが、これが最大のミスとなった。
その瞬間にドアが凄まじい勢いで閉まり両脇を挟まれてしまった結果、上半身がエレベーター内に残った状態で身動きが取れなくなってしまったのだ。
エレベーターホールには彼以外には誰も居なかった筈なので、助けを求める手段がない。
ドアに手をかけて必死に拡げようともがいてみるが、胴体が千切れそうな圧迫は、少しも減少しない。
彼の主観的時間では相当長時間に渡る苦闘が続いたが、突然事態が動いた、それも悪い方に。
脇腹に、胴体が千切れるかと思う程の圧迫に加えて、突然引き攣る様な痛みが加わり、更に上半身は床に押し付けられて肋骨が折れそうに軋み、続いて下半身が宙に浮いた。
彼の体を挟んだままで、エレベーターが上昇を始めたのだ。
ドアと体の大きな摩擦のためにそのスピードは遅いが、そのままじりじりと床が上昇を続ける。
やがて体がエレベータの床とホールの天井に挟まれて、胴体がギリギリと締め上げられ始めた。
圧迫で呼吸もできず、脇腹から枯木が折れるような嫌な音が聞こえたが、そのまま気が遠くなっていった。
彼の意識が途切れる前に最後に聞いたのは、どこかで響くベルの音だった。
加藤が講義棟に来た時、入口前には数人の学生が立ち竦み、中には恐怖の呻きを漏らす者もいた。
彼等の視線の先では、入口のガラス扉の向こうで、半開きのエレベーター扉の隙間を人間の下半身が激しく暴れながらじりじりと上昇しているところだった。
そのスラックスには、見覚えがあった。
彼の服の中で特に永田が気に入った物と同じである。
その時永田は、買った店についてやけに詳しく尋ねてきたので、特にどうとも思わず教えてやったのだが、その翌日には早速それと同じ物を履いて来たのを見て、軽く苦笑した覚えがある。
加藤は扉の前に立つ学生と目を見合わせた。
「と、扉が開かないんだよ。」
その学生が焦りながら言う。
「管理室に連絡して!」
「中に入れないんだ。」
彼の剣幕に怯える様な調子の返事が帰ってきた。
その学生を押し退けて自動ドアの前に立ってみたが、その大きなガラス戸は動く気配もない。
「じゃあ本館に行って、管理課の人を呼んできて!」
加藤はそう強く言い彼が走り出すのを確認すると、目の前に立ちはだかる手懸かりの無いガラス扉の合わせ目に指をこじ入れようとしたが、その隙間は小さすぎて指が入る余地が無かった。
ならば、とその滑らかなガラス板を掌で押さえつけながら左右に押し開こうと試みたが、掌が滑るだけで扉は全く動かない。
その間にも両足は、空中でバタバタともがきつつ、じりじりと上昇していく。
彼は、距離を確かめる様に五・六歩退がると、勢い良く右肩から体当りした。
鈍い音が響いたが、渾身の体当りはそのまま跳ね返されて尻餅をついた。
既に両足は天井近くまで上がっており、一刻の猶予も無い事は明らかである。
自分自身に落ち着けと言い聞かせつつ辺りを見回すと、横の植え込みにボウリングの球くらいの石が目に入った。
もう後先を考えている隙はない。
両手でそれを持ち上げると、一気に頭上に差し上げてからそのまま叩き付けた。
腹の底に響くような低い衝撃音が響いて扉が崩れ落ち、一呼吸おいて耳を聾せんばかりの大音量で非常ベルが響き渡った。
エレベーターホールに飛び込むと、両足はもう、天井に着く所まで上がっている。
振り返ると、作業服の職員が先程の学生と共に走ってきた。
何か叫んでいる様だが、ベルの音で全く聞こえない。
加藤は、エレベーター横の鍵穴を指して叫んだ。
「早く停めて!」
その声は聞こえなかった様だが、ジェスチャーは伝わった。
職員は、震える手で鍵を差し込みそのまま廻した。