保憲の意思はいずこに……
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夕刻、一日の終業間近の陰陽寮、暦博士・光栄の仕事部屋。
机に積まれた沢山の仕事と向き合い、必死に筆を動かしていた時だった。
ピチャン……。
不意に響いた、清らかな水音。
すでに聞き慣れたそれに、光栄はゆっくりと机から顔を上げた。
「………………紅姫?」
問いかけて、しばらく待ってみる。
返事は、ない。
しかし、感じる。
揺らいでいるようだ。
紅姫がその身に持つ霊力も心も。
主である光栄には、たとえ場所が遠く離れていようとも、式の異変には気づく。
いやな予感が脳裏をよぎった。
おかしい。
紅姫のこんな状態は滅多にない。
もしかして、吉野で何かあったのだろうか。
光栄は騒ぐ気持ちを抑え、すっと表情を引きしめた。
「紅姫、何があった」
静かな声で告げると、再びピチャン…と水音が返ってきた。
『光栄………』
ひどく沈んだ、今にも崩れそうな声。
その声に呼ばれ、光栄はさらに目を鋭く細めた。
胸がざわつく。
胸の奥で、激しく警鐘を鳴らしている。
悪い予感が、頭から消えない。
「どうした、紅姫?」
『揺らいでる………揺らいでいるのよ……。 あんたのかけた、封印が……』
「………っ」
紅姫のはっきりとしない言葉。
それでも、光栄にはわかる。
悪い予感が当たってしまった。
いつか来るだろう、光栄の祖父・忠行の代から続いてきた吉野の因縁の、綻びの瞬間が。
音もなくゆっくりと。
しかし、確実に綻びが迫っている。
襲ってくる絶望感を必死に胸の奥に抑えつけ、ゆっくりと息を吐き出した。
「守道と……晴明の息子共はどうしてる?」
光栄の問いかけに、やはりしばらく沈黙が返る。
それでも根気よく待っていると、ようやく言葉が返ってきた。
『動揺がひどいわ。 ねぇ、本当に教えなくてもよかったの? 知らない方が、本当に動きやすかったの?』
わからない。
そんな紅姫の気持ちが、痛いほど伝わってくる。
やはり、伝えるべきだったのだ。
こうなるとわかっていたのに……。
何のために、保憲は守道達には教えないと言ったのだ。
保憲の意図が、全くわからない。
完全に、光栄の思考の範囲を越えてしまっている。
『だから、行くわ。 あの地へ。 あの子達に、教えてあげるべきだと思うから……』
「……………そうか」
紅姫の声に、光栄はそれしか答えられなかった。
式が下した勝手な判断だ。
しかし、光栄も気持ちは同じ。
今伝えなくて、いつ伝えるのだと。
もはや、保憲の意図は関係ない。
親として、子にしてやれることはしてやる。
保憲に何と言われるかわからないが、怒られるなら、怒られてやろうではないか。
それが、自分の役目だ。




