守道の弟
「守道兄様……?」
簀子に立ち止まり、ずっと空を見上げたまま動かない守道の背後から、幼い少年の声が聞こえてくる。
守道はその声にはっと我に返り、緩慢に背後を振り返った。
「どうした、行義?」
「……うん…。 あのね、兄様…」
少し俯き加減にもじもじとしているのは、肩甲骨まで届く真っ直ぐでくせのない艶やかな黒髪に、同色のくりくりとした愛らしい瞳。
薄い青色の単に黄緑色の狩衣を身に纏うその少年は、光栄の次男で守道の三歳年下の弟・賀茂行義。
父の性情を受け継いで、明るく短絡的な性格の長男・守道とは違い、次男の行義は内気で少し甘えん坊な性格だ。
「うん?」
言おうかどうしようかと悩む行義に、守道は柔らかく微笑みながら首を傾げてみせる。
そんな守道を行義は不安そうな表情で見上げ、そろそろと重い口を開いた。
「明後日……吉野に行くの?」
「……もしかして、聞いてたのか?」
恐る恐る聞いてくる行義を、守道は呆然と呟きながら見つめた。
勅命は守道に与えられたもの。
関係のない行義が守道よりも先にその事実を知ることはあり得ない。
だったら、父の部屋かその近くで聞いていたことになる。
しかし、いつもなら近くにある気配はすぐに気づくのに、全く気づかなかった。
それほど、突然の勅命に動揺していたのだろう。
「ごめんなさい、兄様…。 書を読んでいてわからないところがあったから、父様に聞こうと思って部屋に行ったんだよ」
そう言って、行義は手に抱えた書を守道に見せた。
「大衍暦議か……」
大衍暦議とは、暦生必読書とされている暦学理論の書だ。
暦道を生業とする賀茂家の陰陽師としても、必ず読まなければならない。
勿論、守道も幼い頃から今もなお読んでいて、まだ元服していない行義も将来暦道を学ぶ者として今のうちから読むように教育されている。
「偶然聞いたんだな……。 お前がいるのに気づかなくてごめんな、行義」
「ううん、僕こそ立ち聞きしてごめんなさい…」
「いいよ、気にするな」
申し訳なさそうにしょんぼりと俯いた行義の頭を、守道は優しく撫で回す。
その手を大人しく受け入れていた行義はやがて、柔らかな笑みを顔に浮かべた。
この頭を撫で回す手の温かさと優しさは父にそっくりで、安心する。
しかし、それも明後日からしばらくの間、離れてしまうのだ。
「寂しくなっちゃうなぁ…」
「大丈夫だって、すぐに帰ってくるさ」
守道は小さな声で呟いた行義に、明るい声で答えた。
この言葉に偽りはない。
下された勅命が面倒なものでなければ、すぐに戻るつもりだ。
「約束だよ、兄様」
「わかってるよ」
必死な表情で言う行義に、守道は優しく笑って再び頭を撫でる。
そして、行義の小さく柔らかい手をそっと握った。
「兄様…?」
「部屋においで、行義。 その書のわからない所を、俺でよければ教えるよ」
「本当!?」
守道の言葉を聞いた行義は、嬉しそうに顔を輝かせた。
そんな行義を、守道は目を柔らかく細めて見つめる。
今は悪いことは忘れて、吉野に行くその日まで甘えてくる行義の相手をしよう。
しばらく会えなくて、寂しい思いをさせてしまうだろうから。
「じゃあ、おいで」
「うん!」
行義の手を引いて、守道はすっかり日も暮れて暗くなった簀子を渡り、自室へ戻って行った。