光栄と菖蒲
―――――
――――――――――
青く澄んだ昼の空が真っ赤に染まり始める、夕暮れ時。
日が沈むにつれて風も冷たさを増し、容赦なく体に吹きつけてくる。
冷え込み始めた都を、かじかむ手を温めるように忙しなく擦り合わせながら急ぎ足で歩く男の姿がある。
その男は、自邸である賀茂邸に急ぐ光栄だった。
光栄は本日全ての仕事を終え、さっさと陰陽寮を退出して邸に帰宅してきたのだ。
「おーい、帰ったぞー」
光栄は邸の立派な門を開き、広い庭からそう叫んだ。
しかし、返事がない。
賀茂邸に今あるのは、耳鳴りがするほどの静寂。
そして、時刻が夕暮れ時であるためか、空の赤が邸全体を染め上げ、絶妙な不気味さを出している。
光栄は邸をぐるりと見渡し、すっと目を鋭く細めた。
おかしい。
いつもなら、妻の菖蒲が必ず出迎えてくれるはず。
そして、邸には息子達の賑やかな声が常に響いているはずなのに。
今は、それすらない。
「菖蒲ー…?」
光栄は出迎えのない玄関から邸の中に上がり、妻を呼ぶ。
けれども、やはり返事がない。
何かあったのだろうか。
そんな悪い予感が頭をよぎる。
しかし、そんな予感を消し去るように、激しく頭を振った。
「朝のことで動揺しすぎだろ、俺」
どうやら、朝の保憲との会話をいまだに引き摺っているらしい。
家族の声が聞こえないだけで、ひどく焦り乱している自分自身からそう感じてしまう。
光栄はガリガリと後ろ頭を掻きむしる。
そして、頭の烏帽子を無造作に掴み、それをそのまま簀子に投げ捨てた。
いつもなら、投げ捨てないで下さいと菖蒲に叱られるが、気にしない。
「菖蒲!」
ドタドタと忙しない足音をたて、光栄は菖蒲と共同で使っている部屋に辿り着いた。
そして、今度は少しだけ力を込めて名前を呼びながら勢いよく中へ入る。
「あぁ……光栄様、お出迎えもせず申し訳ありません」
部屋の中心で布と針を握って座っていた菖蒲が、光栄を見た瞬間に慌てて腰を浮かせる。
立ち上がった菖蒲は、申し訳なさそうに体をくの字に曲げて深々と頭を下げた。
「明日までに守道の新しい狩衣を、と仕立てるのに夢中で……」
必死に理由を語る菖蒲を、光栄は今にも泣き出しそうな表情でみつめる。
そして、急ぎ足で駆け寄り、まるで倒れ込むように菖蒲に強くしっかりと抱きついた。
「み、光栄様……!?」
突然の行動に驚いた菖蒲は、光栄に抱かれたまま目を大きく開く。
そして、ゆっくりと視線をずらし、光栄をみつめた。
「いかがなされたのですか、光栄様……?」
ただならぬ光栄の様子に、菖蒲は柔らかな声でそう尋ねる。
そして、光栄の背中に腕をまわし、優しく抱き返した。
「……いや、何でもない。 ただお前に触れたかっただけだ、許せ」
「まあ、光栄様ったら……」
いつもなら絶対に言わない甘い言葉に、菖蒲は顔を真っ赤に染めながらはにかむ。
その菖蒲の白くなめらかな頬を愛しげに撫で、淡く微笑んだ。
菖蒲はただ出迎えを忘れていただけで、表情も仕草もいつも通り。
色々考えすぎて、光栄の思考だけが先走りしていたようだ。
そのことに安堵し、光栄はほっと胸を撫で下ろす。
そして、菖蒲に首を傾げてみせた。




