祖父・賀茂保憲
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「じいちゃん、いる…?」
大内裏の南東に位置する陰陽寮の、いつも陰陽頭が使用する仕事部屋。
広さは五畳ほどで、屏風の前に漆塗りの横に細長い机が置かれた部屋には、沢山の巻物や書が積まれている。
その中埋もれるように、白髪の上に烏帽子を被り、紫の直衣を着た祖父・賀茂保憲の姿があった。
「あぁ、守道か。 待っていたよ、入りなさい」
入り口から声をかけた守道に、しわの深い顔に優しい笑みを浮かべ、骨張った手をひらひらと上下に揺らす。
それを見た守道は、思わず足を止めた。
あの優しい笑みが恐ろしい。
あの笑みの裏にどれほどの怒りが抑え込まれているのだろうか。
季節が冬にもかかわらず、気持ちの悪い冷や汗がぶわりと噴き出してくる。
「……どうした、守道?」
中々入って来ない守道に、保憲は積まれた書の山から顔をひょこっと覗かせる。
そして、再び守道に手招きをした。
「守道、入らないの……?」
微動すらせず硬直している守道を、隣にいた吉平は心配そうに顔を覗き込む。
そして、守道の顔の前に手のひらを出して、ひらひらと上下に振って見せた。
「守道ー……?」
それでも守道には反応がない。
それを見つめた吉平は守道の手を握り、引っ張るように一緒に部屋へ入る。
心ここにあらずな守道は、珍しく吉平にされるがままだ。
そして、先に部屋に入って円座を並べて待っていてくれている吉昌の隣に立った。
「出仕が遅れてしまい、申し訳ありません…保憲様」
吉平は保憲にいつもとは違う落ち着いた声で謝りながら、深々と頭を下げる。
それを見た保憲は、柔らかく優しい笑みを浮かべ、守道達の足下の円座を指差した。
「気にしてはいないよ。 さあ、立っていないで座りなさい」
「はい、では失礼します」
吉平は再び保憲に頭を下げ、音をたてず柔らかく優雅に円座に座る。
それにならい、吉昌も隣の円座にゆっくりと座った。
「守道、早く座りなよ」
「へ……? あ、あぁ…うん」
ただ一人立ったままだった守道に吉平は柔らかな声で告げ、軽く脇をつつく。
それでさすがに我に返った守道は部屋を一周見回し、慌てて空いている円座に座った。
「急に呼び出してすまないなぁ…」
保憲は目の前に並んだ守道達の顔を順々にじっくりと眺める。
そして、申し訳なさそうに眉間にしわを寄せてやんわりと首を傾げた。
そんな保憲に、守道はすかさず頭を振る。
「ううん、俺達こそ遅れてごめんなさい」
「気にしてはいないから、大丈夫だよ。 逆にこちらが謝らなくてはならないからなぁ……」
床に額がつきそうなほど頭を深く下げる守道に、保憲は優しい笑みを浮かべて呟いた。
呟かれたその言葉には、怒りなど全く感じられない。
それどころか、守道がよく知るいつも優しく柔らかな物腰の祖父そのものだ。
「…………………え…?」
怒っている、怒られるとしか思っていなかった守道は、思わず拍子抜けしてしまう。
だからだろうか、たっぷりと間を置いたあと答えたのは、たった一文字のみだった。