吉平の弟・吉昌
「……この声…」
守道はゆっくりと声のする方へ視線を流した。
その視線が止まった先は、朱雀門。
開いている門から直衣の袂を振り乱し、烏帽子が風に煽られて落ちそうな勢いで少年が走ってくる。
その少年は、烏帽子から覗く藍色に近い前髪に同色の切れ長の瞳。
吉平によく似た風貌で、一歳年下の弟・安倍吉昌だ。
そんな弟の姿を見つけた吉平は、嬉しそうな笑みを浮かべて小さく手を振る。
「あ、おはよう吉昌。 嬉しいねぇ……お出迎えしてくれたのかい?」
「何を呑気なこと言ってるんですか、兄上!
あれだけ朝言って聞かせたのに、やっぱり遅刻してきましたね!?」
思わず耳を塞いでしまいたくなるほどの大声で吉昌が叫んだ。
「あのー……吉昌……?」
守道は恐る恐る名前を呼びながら、ちらりと吉昌を窺う。
しかし、目に飛び込んできた光景に思わず絶句した。
吉昌の体から肌を刺すような鋭い霊力の波動が迸っているのだ。
雷神召喚など簡単に出来てしまうのではと思うほど、強い霊力の波動が次から次へと溢れ出す。
それはどうやら、吉昌の止めどない怒りと比例しているようだ。
そんな吉昌に屈することなく、吉平は飄々と笑っている。
守道は思わず、そっと三歩後ろへ下がった。
「安倍兄弟の喧嘩…いつもながら凄まじい……」
守道は唖然とした表情でポツリと呟いた。
いや、これを喧嘩と言っていいのだろうか。
喧嘩というには、なんか違う気がする。
「あー……どうしよう、行義が恋しい…」
この安倍兄弟の凄まじい喧嘩を見ていると、甘えん坊で可愛い弟が非常に恋しくなる。
こんな状況は守道と行義ではあり得ない。
たとえ天と地が入れ代わろうとも、絶対にないと神に誓える。
喧嘩の多い安倍兄弟とは違い、喧嘩知らずで常に仲の良い賀茂兄弟は正反対の存在なのだ。
「守道」
ことの行く末をただ傍観している守道を、吉昌は低い声で呼んだ。
「は、はい…っ!!」
怒気の混じる恐ろしい表情で吉昌に睨まれ、守道は思わず背筋を伸ばす。
だらだらと額から顎へと冷や汗を流す守道をしばらく見つめた吉昌は、不意に深々と頭を下げた。
「よ、吉昌……?」
「バカ兄をここまで連れて来てくれてありがとうございました。 感謝します、守道」
「へ……? あ、あぁ……うん……」
怒られるとばかり思っていた守道は思わず肩の力を抜き、脱力した。
まさか、礼を言われるとは思っていなかった。
どうせなら、それらしいにこやかな表情で言ってほしかった。
まさに鬼の形相で睨みながらありがとうなど、感謝されている気が全くしない。
本当にわけがわからない、この兄弟。