死神僕 6
「ここを、刺されたんだな」
マスターは、Tシャツの下の部分の裂け目を観察して、細いな、ナイフかな、と独りごちた。
俺は地べたにへばりついたまま、血だらけの服を凝視していた。どうやら腰が抜けてしまったらしい。
マスターは俺を椅子に座らせてから、自分も隣のテーブルから椅子を持ってきて、腰をかけた。
「環ちゃん、彼の名前は?」
「カブさん、です」環が答える。
「……カ……ブ?」マスターと俺は、顔を見合わせて首を傾げる。
「はい。 下に部って書いて……」
「シモベ」と、俺。
変わった名字であることは自覚していたけれど、カブなんて呼ばれたの初めてだ。なるほど。昼間に呼んでいたシモベとは、下部ではなくて僕の方だったらしい。なんだか妙に納得した。
「ええ! シモベさんっておっしゃるんですか! まさに僕になるべく生まれてきたような方ですね!」
環は大発見☆と言わんばかりに両手をぱちんとやる。抗議の一つもしてやりたいところだが、そんな気力はすっかり失せていた。
マスターは消沈したままの俺を気遣い、環を一喝してくれた。
「下部君。まずは、環の度重なる無礼を謝罪させてください。誠に申し訳なかった」
マスターは丁寧に一礼した。俺もつられて頭を下げる。環は、無礼なんてしてないですー! と憤慨しているが、マスターは軽く無視して、この状況を説明し始めた。
マスターの話によれば、俺は昨晩、刺殺された。
出血多量で、病院へ連れて行ったところで助かる見込みがないような状態で倒れていたらしい。そこへ死神の環が通りかかり、契約を結んだ。環は俺に命を与えた。俺は命の代償として、僕となった。俺は代償を払い終えるまで、つまり年季明けまで、死神の手となり足となり目となり、働かなければならない――。
馬鹿馬鹿しい。ファンタジーもいいところだ。
それでも、再び席を蹴って立ち上がらなかったのは、血だらけの衣類という証拠がすぐそこにあるからだ。
血のりなんじゃないか、手の込んだ悪戯なんじゃないか、何度も否定してみようとした。だって、そうだろう。俺が刺されるわけがないし、死ぬはずがない。ましてや、死神のお世話になるなんて、ありえないことだ。……だけど。
深く息をすると、はっきりと血液の臭いが感じられた。
悔しいが、俺は、頭のどこかではっきりと、これが現実なんだと理解してかけている。
「環から、昨晩、君と話をつけたと聞いているが、覚えはあるだろうか?」
「……あの、そんな夢を見たような……」
「夢じゃ、ないですよ?」と、環。さきほどとは打って変わって、落ち着いた様子で説明し始めた。
「下部さんは、小さな公園の入り口あたりで、大きな血だまりを作って倒れていたんです。私が見つけたとき、すでに身体はかなり冷えていて、魂も肉体から離剥しかけていましたから、亡くなることは明白でした。そこで、お声を掛けさせていただいたのです。生きてますか、と」
「生きて……ますか」
夢の通りだ。冷水を浴びせられたようにゾクリとする。環はそうです、と首肯して続ける。
「気がつかれた様子でしたので、次に、生きたいですか? とお聞きしましたところ、下部さんは、何度も強く頷かれました。ですから、私は契約することにしたんです。
お名前をお伺いしましたが、お答えいただくのは困難そうでしたので、近くに落ちていたスマートフォンを拝見させていただきました。幸い、ロックがかかっていませんでしたので、ご覧になられていたSNSから下部さんのお名前が分かった、という訳です」
プロフィール画面にはフリガナが振られていない。なるほど、それで「カブ」か。
「私は死神僕契約条項を読み上げました。下部さんは、はっきりと頷いていらっしゃいました」
環は俺をチラリと見る。マスターも「そうなのか?」と俺を見る。いや、あの時は確か……。
「さ、最初話しかけられたときに頷いたら、なんか、ガクガクいうのが止められなくなったというか……」
「痙攣だな」と、マスター。
「いえ、合意です」と、環。
「下部君は、環ちゃんの名前も知らなかったんだぞ?」
「でも、ご、合意なんです!」
二人はしばし睨みあっていたが、やがて環が折れた。
「そうですよ。痙攣でした」拗ねたように頬を膨らませる。
「……再契約、だな」
あんまり見たくはないんだがなあと、マスターはのろのろと立ち上がって、カウンターへ向かった。戻ってきたマスターの手には、白い布に包まれた小さな包みが乗せられていた。