死神僕 5
俺の目の前に置かれた資料には『死神僕就業説明会』と、丸っこいポップ体のフォントで書かれていた。パソコンに最初から入っていたであろう、微妙な猫のイラスト付きだ。ひどく安っぽくて、いかにも怪しい。
「シニガミ……シモベ?」
「はい! そうです。死神僕。つまり、私の僕ってことですね☆」と、美少女。
そっかー。美少女は死神だったのかー。って、ええっと、これは、所謂……。
「怪しげな宗教への誘いではないですよ?」
美少女は、俺の思考を先読みして弁明した。
「あと、拉致も誘拐もしてないです。あなたがご自身でここまで着いてきたんですからね。説明会の間だけ、ちょっぴり監禁させていただきますが、こればかりはどうしようもありません。ご容赦くださいね。それでは、お渡しした資料の1ページ目をご覧ください」
……どうしよう。突然の展開に全くついていけない。
「1ページ目をご覧ください、ですよー」
美少女は俺が話を聞いていないと思ったようで、大きな声で繰り返した。美少女よ、そういうことではなくてだな……。
「ちょ、ちょっ……待っ……! 何が、いや、何で……」
あまりのことに言葉が出てこなかった。美少女は気を利かせたつもりなのか、自分の水を俺に差し出した。薄々気が付いていたが、彼女はどこかズレている。
「あ、あのね、俺は、君が誰かも知らないんだけど?」
美少女は不当な抗議を受けたというように、目を丸くし、声を荒げる。
「しっ、しっ、知ってますよー! 昨晩のご契約時に、ちゃあんと、この街の死神、環ですって……」
環っていうのか。初耳だよ。……ってそんなことより、契約って何?
「環ちゃん。また、一方的に連れて来ちまったのか?」
絶句している俺の様子を見て、腕を組んでいた見ていたマスターが、呆れたように口を挟んできた。
「そっそんなことしてないですよぉ! 昨晩、ちゃんと、まるっと、すべて、合意いただきましたし?」
「前にも言ったけれど、死にかけているところに、立て板に水みたいに契約条項を並べたてられて、理解できる人間はいないからね」
「こっ今回は大丈夫なんです! 死にかけてましたけど、ちゃんとご説明して、ご納得いただいて、契約いたしましたから! ね!」と、俺を懇願するように見つめる。
俺は溜息した。なんなんだ、この茶番は……。もういい。美少女とか、どうでもいい。
俺は、理解してしまった。この環とかいう美少女、ズレているどころか、完全に頭がおかしい。ついでに、常識人っぽく振舞っているこのマスターだって、頭がおかしい。
恥ずかしながら、環とどうにかなれるのではないかという下心でここまでついてきてしまったが、度重なる奇行と妄言で、俺の百年の恋もすっかり冷めきってしまった。……もはや、ここに、用はない。
俺は、早々にこの場を立ち去ることにした。
敵は二人。一人はテーブルを挟んで、向かい側にいる華奢な女子。こいつは余裕。問題はもう一人。俺の背後の、屈強そうな大男だ。とはいえ、ご高齢だ。俺が急に走り出してやれば、まずついては来れまい。
出入り口は店内に一つだけ。しかも、背後の男の数メートル先にある。そういや、施錠してたな、クソ。……頑丈そうに見えるが、所詮は喫茶店特有のガラス扉。体当たりで、ガシャーンといけるんじゃなかろうか!?
よし、いけるぞ! 色々と計算が甘い気がするが、男なら愚図愚図せずに、堂々と戦うべきだろうが!
よっしゃ! いくぜっ! デュエル!!!!!
俺は突然立ち上がり、風のごとく出口を目指す! が、あっという間に背後で待機していたマスターに羽交い締めに捕えられ、床に引き倒されてしまった。畜生、こいつ慣れてやがるっ!!!
さらに環が加勢してきた。床でもがいている俺の上に馬乗りになり、無茶苦茶にげんこつを振り下ろす。
「ダメですよー! こっここで逃げたらドロボーですよ! どうしても逃げるというのでしたら、下部さんの命と! 特製カレー大盛り代金2580円! 耳をそろえてお支払いいただきますからー!!!」
命を支払う!? ずいぶん物騒な脅迫じゃないか。もう警察が動いてくれるレベル。ていうか、カレー、高いな! 奢りじゃなかったのかよ!
ドゥワワワワアァァァァーン!!!!!
大音量で金属音が鳴り響き、組んず解れつ、もみ合っていた俺と環は一瞬、固まる。音の鳴る方を見ると、マスターが馬鹿デカイ中華鍋とお玉、何が入っているのかスーパーのビニール袋を持ち、仁王立ちしている。なんて早い動きなんだ。マジで外人部隊出身なんじゃないか!?
ふと見ると、環はゼイゼイと息を切らせて、床に転がっていた。
チャンス到来! 俺は華麗に身を翻して、扉に向かう!
「逃がしませんよぉぉおおおー!!! うりぁぁああああ!!!」
あと少しというところで、環が俺の腰を捕えた。再び床に転げる俺と環。なんなんだよ、この女! 根性有りすぎだろ!
マスターは呆れて果てたような調子で、はいはいもう終わり終わりーと、中華鍋を連打して俺達を諌めた。まるで子供の喧嘩を止めるような気楽さだ。なんかすごくイラッとする。
こちとら、命がかかってるってのに終わりであってたまるか! 少なくとも俺の方は、ここを脱出するまで終われないんだよっ!
なおも逃げようと画策していると、マスターは、俺の前にしゃがみ込んだ。そして、おもむろに、持っていたビニール袋の包みを開け出す。
中身は、ぐしゃぐしゃに丸められた、衣類だった。
衣服は粘性のある茶褐色の液体を、ぐっしょりと吸い込んでいた。くっついた布地を広げるマスターの手が汚れていく。鉄のような、生臭いような、嫌な臭いが立ち込める。
「こいつがなんなのか。君なら、分かるな?」
薄い黄色のTシャツに、紺色のジャージのパンツ。
どこにでも売っているような、ありふれた、――俺の服だった。