死神僕 1
何気なく職員室の窓から見える紫陽花を眺めていた。
雨後の太陽に照らされた花々は鮮やかで、特に花が好きというわけではない俺でも、なんとなく目が行ってしまう。
瞬間、違和感を覚えた。
人……通った……よな?
ウチの学校はメインになる二つの新校舎と、取り壊し寸前のまま放置され続けて十数年の旧校舎で構成されている。今いるところが北棟。一階は職員室や指導室、二階から四階には視聴覚室や化学室、図書室や音楽室のような、いわゆる特別教室が集められている。真向かいにあるのが一年から三年までの教室がある南棟で、その東側の端から、日曜大工で作ったような簡易な渡り廊下で繋がってるのが、旧校舎だ。
紫陽花はその南棟と旧校舎の渡り廊下に沿って植えられている。
旧校舎には帰宅部とほぼ同意語になっている一部の文化部の部室くらいしかないから、渡り廊下を利用する人間はほとんどいない。必然、ちょっと陰気くさい。少なくとも七不思議的な話が生まれるくらいにはどよんとしている。
そんなわけで放課後ならともかく、真昼間から渡り廊下を利用するとちょっと目立つ。まあ、どうせ不真面目な生徒が旧校舎でサボってたとか、そんなところなんだろうな。
たださっきの人、なんというか、フッと消えたような……。
「へぐっ!」
左頬に走る強烈な衝撃が、俺を一気に現実に引き戻す。
俺の左の頬に張り手を食らわせたのは、担任の高野美鈴。35歳。まったく余計なお世話だが、独身だ。
彼女は顔の造作こそ整っている方なのだろうが、いつもよれたジャージ姿で、なお且つ巨漢である。
巨漢って女の人には使わないんだっけ。でも彼女には”ふくよか”より”巨漢”という言葉が似合う。 入学式で彼女を初めて見たとき、俺は真っ先に戦車に似ていると思った。以降、俺は彼女に”タンク美鈴”というリングネームを付け、心の中でそう呼んでいる。
「お前、なんでここにいるか理解してんのか、あ?」
タンクはよく響く男らしい低い声で恫喝した。
そうだ。今日俺は、寝坊して、派手に遅刻した。
運の悪いことに父は出張、母は朝から会議とかなんとか。家には誰もおらず、結局、今朝起こしてくれたのはタンクのモーニングコールだった。なんと目覚めの悪い……。
それというのも昨日の奇妙な夢のせいだ。思い返してもゾッとする。なんとなく夢の中で刺されたところが痛むような感じがしないでもない。本当にただの夢だったのか……?
「ひゃん!!!」
タンクは俺の左耳を掴んで容赦なく引っ張り回しだした。言っておくがこれは任侠映画のワンシーンではない。埼玉県立彩国第三高等学校職員室でわりとよく見られる日常風景である。
「ひああああ! ちょ、マジでやめてくだ……、くはぁぁん!」
俺のあられもない喘ぎ声が職員室に響き、居合わせた教師達からドッと笑いがおこる。
「こ、こんな暴力行為、あ、あれっすよ、訴えられますよ!」
「フン。訴えられるもんなら、訴えてみろ。あ?」
俺のささやかな抗議をタンクは鼻であしらい、あろうことか今度は俺の右耳を掴もうと手を伸ばしてきやがったので華麗に後ろに飛びのいたら、今度は背後の椅子に腰を強打した。堪らず場外乱闘に巻き込まれるアナウンサーのようなリアクションで床にへたり込む。
非情なタンクは容赦なく俺の髪をむんずと掴んで顔を上げさせ、もう片方の手で壁に掛けてある時計を差した。
「はーい、何時ですかぁ? 読めるかなぁ?」
「じゅ……11時35分、です」
「で、学校は何時に始まるのかなぁ?」
「8時半です」
「下部一路、遅刻した理由を述べよ!」
「あの、寝坊……グッ!」
言い切る前にタンクの鉄槌(拳)が俺の頭頂部に下された。まったく、舌でも噛んだらどうするんだ。こっちは質問されたから答えているというのに、教師というものはしばしば酷く理不尽なことをする。
「どうせ夜中までゲームでもしてたんだろう。あ?」
タンクは男子生徒=ゲーマーと決めつけているようだが、あいにく俺はゲームは付き合い程度しかやらない。
だからといって反論する気はない。そんなことをしても説教が長引くだけだし、夢見が悪くて遅刻しましたなんて言ってもふざけていると思われるだけだし。
タンクの説教はその後もしばし続き、昼休みを告げるチャイムが鳴ってから20分後にようやく終了した。
解放された俺は、まっすぐに購買を目指した。
昼休みが始まって既に30分経過。昼飯を食べ終えた生徒がわらわらと教室を出てきている。
畜生。タンクは話長いんだよなー。ちゃんと要点をまとめて話してくれよ、まったく。
今日は朝から何も口にしていない。どうせ遅刻するなら優雅に朝飯食ってくればよかった、なんて今となっては思うが、朝の時点ではそんなこと考える余裕すらなかった。仕方がないことだ。寝ぼけながら電話に出てみたら、いきなりタンクの声が聞こえてくるなんて、真面目に生きた心地しなかったもんな。
購買に着いて後悔した。
残っていたのは食パンに砂糖のクリームを塗ったやつとコッペパンにジャム挟んだやつとジャムパン。見事に甘いのしかない。しょっぱくなければご飯じゃないと信じている俺には辛すぎる選択肢だが、背に腹はかえられない。俺は食パンとコッペパン、パックの牛乳を手に取りレジへ向かう。
「はい、280円」
レジのおばちゃんから商品を受け取り、パンツの後ろの右ポケットに有るはずの財布に手をやった。
ない。
絶対に入っていないことは感触で分かっていたけれど、一縷の望みをかけて他のポケットも探ってみる。やはりなかった。
おばちゃんはすべてを察したようだ。遠慮がちに笑いつつ、無慈悲にも俺のパンを奪い返そうと手を伸ばしたそのとき。
俺の財布が、目の前に現れた。
「忘れ物、ですよ?」
息を飲んだ。
振り返った俺の視線の先にいたのは、人形とも見まがうような、完璧な美少女。俺の財布を扇のようにヒラヒラと振りながらにっこりと微笑んでいた。