ナイフ 8
昼休み。昨晩、どうにか生還できた俺は、環と屋上で昼食をとっていた。昨日の阿鼻叫喚が嘘みたいな、穏やかなランチタイムだ。
「イチロが無事でなによりですよ……」
俺の手を握りしめる環の手は、冷たかった。まるで寒いみたいに小刻みに身体を震わせている。
昨晩の話をしたとき、環は口元を押さえて、まさか、と小さく叫んだ。その後、俺が詳しく説明している間は、ほとんど呼吸を忘れてしまっているようだった。環は小さな顔を蒼白に染めて、俺の話が終わるまでに無言で頷き続けた。百戦錬磨であろう環にとっても、まったくの予想外だったのだろう。
昨日の放課後、俺は学ランの幽霊に襲いかかられて気絶した。
気が付いたときには夜の10時を回っていた。使用されていない校舎に明かりなど点いている訳もなく、当然ながら辺りは真っ暗だった。俺は上半身ゲロまみれで半狂乱になりながら転がるように家に帰った。通学バックを忘れなかったのは奇跡だと思う。
「どうにか、な。目が覚めたとき、失禁しかけたけど」
俺がちょっと笑いながら冗談を言うと、今にも泣きだしそうだった環は、少しだけ笑顔を返してくれた。ホッとした。
「それにしても、なんで誰も助けてくれなかったんだよ。よく考えれば、教師なり用務員なり、一度は見回りに来ていたはずだよな?」
憤る俺に、環は「気付かなかったのかもしれませんよ?」と言う。
普通の人間が常識を超えた出来事に遭遇すると、脳がそれをどう解釈してよいか解らず、結果スル―してしまうことがある、らしい。見えているのに認識できない。つまり、環の存在みたいなものだ。つまり今後も他人の助けは期待できないってことだな、畜生め。
「それにしても、いきなり襲いかかるような方とは思いませんでしたよ……」
環は眉根を寄せる。
「実際そうなんだから仕方ないだろ。突然あいつが俺の方に……」
思うにあいつはあの瞬間、俺の中に入ってきたんだと思う。
ぶっ倒れた直後から、俺の五感は狂ったようにフル回転させられた。
まず、溺れたと思った。死ぬほどの息苦しさ、塩素の臭い。生ぬるい水が一気に食道を通り、俺の胃袋に注ぎ込まれる。次に感じたのは甲虫を噛んだような、嫌な歯触りだ。苦々しいなんともいえない臭みが口いっぱいに広がる。そうかと思うと、真夏に生ゴミに頭から突っ込んだ。あまりの臭気に吐き気を催す。膝が痛かった。ガラスかなにかを踏みつけてしまったようだ。すると、けたたましい笑い声に包まれた。誰かが背中を蹴っていた。痛い。むかつく。怖い。やめて。
嫌なことだけではなかった。子どもの笑い声。晴天のような、どこまでも明るく朗らかな笑い声だ。手を引っ張る、温かい手。なにしてあそぶ? たかおにしようか? すごく幸せな気持ちだ。希望に満ちていた。今日は昨日みたいに楽しい一日になるに違いない。そして明日も明後日も、ずっとこの楽しい日々は続くのだ。
場面転換。
笑い声は再び嘲笑に変わる。そして怒号。怒号。怒号。男の罵声。女の金切り声。とてつもなく情けなく、心が引き裂けんばかりに痛い。生きている意味があるのだろうかとすら思う。
眩い光。思わず目を閉じると、地面が消えた。宙に放り出された身体は落ちて、落ちて――。激突。鼻の骨が砕けたようだ。衝撃に息が止まる。そして――。
時にはスローモーションで、時には10倍速で再生されたそれらは、フィルムを適当に繋がれた映画みたいに、めちゃくちゃで支離滅裂だったから、全てを理解できたわけではない。だが、あの学ランに何が起っていたのかを知るには十分だった。
「いじめられて、自殺……だろうな、たぶん」
過去のこととはいえ、自分の通う高校でそんなことが起きていたなんて、いい気持はしない。何もかも中途半端で退屈な彩国高校だが、それでも俺は一年以上この学校に通っているわけだから、それなりに愛着はあるのだ。新雪に足跡を付けられたときのような、大切にしていたものに傷が付いているのを発見したときのような、そんなやり場のない怒りを覚えていた。
午後の予鈴が鳴った。環と俺は同時に席を立つ。
「とにかく百聞は一見に如かず、ですよ。本日の放課後、ご一緒しましょう」
「いいのか? マスター、激オコになっちまうぞ?」
「緊急事態ですよ? そんなこと悠長なこと言っていられませんよ。私だって、せっかく得た僕をみすみす見殺しにはしたくないんです」
環はなんだかんだいって、頼りがいがあるやつみたいだ。こんなちっこくて可愛い女子に護られているってのがちょっと恥ずかしいが、心の底から温まるような感じがした。
放課後、旧校舎へ向かうと、既に環は渡り廊下の前で待っていた。
「早速ですが、参りましょうか」
俺の姿をみとめると、環はキッっと旧校舎を睨みつけ、早足で歩きだした。普段はアレだが、さすがは死神だ。
「旧校舎は構造が単純なんだ。渡り廊下で繋がっている側の端と逆側の端に階段がある。トイレは男女とも逆側の階段の横にある。各階、普通の教室が7部屋並んでいるんだが、それらは今はどっかの研究会の部室になっているか、もしくは全く使用されていないか。どちらも普段は施錠されているから入れない。幽霊がいた3階の教室は、昨日見た限りでは全く利用されていないみたいだった。まあ、俺もテンパってたからちゃんと確認したわけじゃないけどな」
「なるほど。全く変わっていないようですね。実は5年ほど前にも彩高生の僕がおりまして、こちらに何度かお邪魔したことがあるのですよ」
「なんだよ。じゃあ、そのときにあの学ランをどうにかしておいてくれればよかったのに……」
5年前は既に今の制服、紺色のブレザーに変更されていた。学ランを着用していたのは、俺の記憶では10年くらい前までのはず。だからあの学ランは少なくとも10年前には死んでいたと考えるのが正解だろう。まあ、他の学校の生徒とか、卒業後に学ラン姿で学校に侵入して自殺、なんていう特異な状況も可能性もなきにしもあらず、なのだが。
環はふるふると頭を横に振った。
「幽霊さんは何かのきっかけで表に出てきたり、引っ込んだりするものなんです。当時はそんな方がこの旧校舎にいらっしゃるなんて、気付きもしませんでしたよ」
ふーん、そういうものなのか。じゃあ、学ランを成仏させても、ここに他の幽霊が出てくる可能性はあるってことだよな。キリがない仕事だな。
「昨日は3階で見かけたとおっしゃいましたよね?」
環は軽快な足取りで階段を上っていく。さすがに慣れたものだ。
「……いらっしゃいましたね」
学生服の霊は昨日見たときとまったく同じように、3階の奥で佇んでいた。
一人じゃないというのはなんとも心強い。幽霊は相変わらず気持ち悪かったが、昨日よりはずっと落ち着いて見ることができた。
学ランは痩せこけていた。身長は高く180センチ近い。そのひょろひょろと伸びた背丈が嫌なのか、猫背を通りこして、ダンゴ虫みたいに丸めて縮こまっている。
まるでクリ―チャーだ、と思った。もともとそうなのか、いじめられた結果なのかは判断できない。ただ見ているだけで、なんとも物悲しい気持ちにさせられる、そんな背中だ。
環はためらいもせずスタスタと霊に近寄り、明るい口調で声をかけた。
「こんにちは! 死神の環と申します。あなたのお名前は?」
何の反応もない。
「昨日は私の僕が何かご無礼してしまいましたか? ちょっとトラブルがあったみたいですね?」
学ランは見向きもしない。
「ここはあなたには辛すぎる場所ですよ。あなたの望みを教えてください。私の僕がなんでも叶えてさしあげます、と言っています」
……おいおい。
環は10分近くも話しかけ続けていたが、学ランは俺達の存在なんてどこ吹く風とばかりに、ゆったりと揺れていた。
やがて環は、膝を抱えてしゃがみ込んでしまった。
「っくはぁ~! ごめんなさい、ギブです、ギブッ! イチロ!」
「ハッ……ハイッ!!!」
急に名前を呼ばれて、声が裏返ってしまった。
「乗り移ってもらってください」
「……は?」
何、言ってんの? そうなるのが嫌だから環についてきてもらったのに、そんなことしたら本末転倒だろうが!
「だって彼は私にはまったく反応してくれないんですよ。なぜかは分かりませんが、イチロには反応したのでしょう? 乗り移られて彼の過去がいろいろ分かったのでしょう? だったら望みも分かるかもしれませんよ?」
「イヤだよ! こいつの望みは分かっても、俺の命が危ないだろうが!」
「大丈夫ですよー。イチロさんのお話を聞いてどんな危険人物かと思って警戒しておりましたが、今直接お話してみて分かりました。大丈夫。彼は、人を傷付けようとしているわけじゃありません」
「いやいや、お話出来てねーだろうが。環が一方的に話しかけてただけだろ?」
「それでも長年の経験から分かるんです。その証拠に、ほら。昨日だって、結局、無傷だったでしょ?」
「……そりゃ、身体は……まあ、無傷、だったけどさ」
心は重傷だよ? ゲロまみれの俺のシャツはお陀仏よ? まあゲロは俺のせいなのだが……。
「それとも、他にいいアイデアでもあるんです?」
「………………ないよ。ないけどさ、でも、もう少し安全策を練ってからだな……」
「じゃあ、やっちゃいましょうー! イチロの命は私が保証しちゃいますよ! 迷っている時間がもったいないです。さささっ! いってらっしゃーい♪」
「ちょっ!!!!!」
環に背中を突き飛ばされ、俺は軽くふっ飛んだ。くそ、環め! 一瞬でも護ってもらえると信じた俺が馬鹿だった!
俺はなすすべもなく、学ランに頭から突っ込んだ。
ヒャアアアアア!!! スイマセンスイマセンスイマセンスイマセンスイマセンッッッ!!!!!
………………おや?
あの氷漬けになるような、あの嫌な感触はなかった。それどころか、感触といえるものは微塵もない。
恐る恐る目を開けると、学ランは俺の背後で何事もなかったかのように悠然と揺れている。
あらら?
「えー、全っ然、まったく、ダメじゃないですかー!」
学ラン越しに、不満そうに頬を膨らます環が見えた。
ダメで結構だよっ!!! もうやだ、お家、帰りたいー!!!