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ナイフ 7

 その後、せめて今日の放課後だけでもついてきてくださいと、ほとんど土下座しながら頼み込んでみたのだが、断固拒否された。

 「申し訳ございませんが、マスターが……マジ、激オコ的な、あれなのですよ……」

 そう言う環の目はどこか遠くを見つめていて、口元は薄ら笑っていた。それほどまでに逆鱗に触れられたマスターはヤバい、ということだろう。

 これ以上お願いしては、環が可哀想だ。さすがに引かざるを得なかった。



 放課後、俺はストレスからくる胃痛をどうにかやりすごしつつ、一人、重い足取りで旧校舎へ向かっていた。

 昼休みは環の刀剣を見て一瞬浮かれてしまったが、やはり平穏な日常が一番だ。朝起きて、親にやいやい言われるのも面倒だからとりあえず学校に行き、役に立つのかどうかもわからない授業を受け、いつもと同じ面子でいつもと同じような放課後を楽しむ。そんな退屈で刺激のない日々が、今はひどく恋しかった。

 あまりにも心細かったから、リョースケを連行することも考えてみたのだが――。

 「死神に頼まれてさー、渡り廊下にいる幽霊と仲良くしなくちゃなんないんだよね。悪いけど、ちょっとついてきてくんね?」

 ………………だめだ。頭おかしくなったと思われる。友情に支障をきたしてしまう。かといって、他の言い訳も思いつかなかったしなー。

 環は必要ないと言っていたが、一人で立ち向かうからには、やはり武器が欲しかった。戦うわけではないってことは理解しているが、丸腰という事実=負け確定、みたいな気分になる。まあ、武器を持っていたところで勝てる気はしないけどな。


 後ろ向きな思考に捉われながらうだうだと歩いているうちに、問題の渡り廊下に到着してしまったのだが、肝心の学ランが見当たらない。

 「隠れているのかー? このシャイボーイめー」

 独り言をいいつつ、恐る恐る腰壁の後ろを探してみたが……いない。人目を気にしながらも、軽く紫陽花をかきわけてみたが、やはりいない。そりゃそうか。猫じゃないんだからな。

 なるほど。幽霊は移動するらしい。これは誤算だった。

 一体どこに行ったのかと新校舎や校庭、中庭にも目を向けて、しばらくきょろきょろと見回していると、ふと、目の端に黒いものが入った。

 そこは、旧校舎の3階。窓から見える異様な黒い影――。学ランの後ろ姿だ。彼は廊下の端でジッとしている。

 ……よりによって、そこ、行っちゃいますか?

 旧校舎には人がいない。なんとか研究会みたいなマイナーな部活動に入っている一部の生徒以外には、まったく用事がない場所なのだ。ただでさえ薄気味悪いのに幽霊がいるなんて、もう絶対に近寄りたくない。近寄りたくないが………………行くしかないか……。

 旧校舎の手前で立ち止まり、環のアドバイスを反芻する。

 「いきなり距離を詰めてしまうとびっくりして襲ってきちゃうかもしれません。今日のところは、学ランさんをよぉく見て、どうして欲しいんだろうなぁっと想像してみるだけにとどめましょう。人間関係とおんなじです。大切なのは思いやり、ですよ☆」

 畜生、環のやつ。お気軽に言ってくれやがって……。

 思いやり、か。果たして、俺にあの気持ち悪い黒い影を思いやるだけの器があるのだろうか。ゴキブリだって殺せないチキン野郎なのに。

 視界が揺れる。一瞬、地震かと思ったが、俺の膝が笑っていただけだった。情けないなー。旧校舎なんか、今までだって何度か来たことがあるだろう。ただ今まで見えなかったものが、見えるようになってしまっただけだ。

 終わり次第、即行帰れるように持ってきた通学バックを、ぬいぐるみにしがみつく子どものように抱きしめて、深呼吸を1回、2回――。

 覚悟を、決めた。

 俺はゆっくりと、旧校舎へ足を踏み入れた。


 人気(ひとけ)がない、というだけでこんなにも空気が違うものなのだろうか。旧校舎は薄暗くて埃っぽく、建物全体に古臭い独特の臭いが立ち込めている。ここを使っている研究会の連中が交代で掃除しているらしいから汚れてはいないはずなのだが、廊下の端にところどころ落ちている埃の塊や虫の死骸、天井の片隅に張られた大きなクモの巣を見れば、清掃活動とやらが名ばかりなのは容易に想像できた。

 時刻は午後4時半。よし。さっさと終わらせて明るいうちに帰るぞ。よりによって3階というのがやっかいなんだよなー。旧校舎と新校舎の接続は1階の渡り廊下だけだし、出入り口も当然1階しかない。3階は一番逃げにくい場所なのだ。

 階段に足をかけた瞬間、古い木材が嫌な音を立てて軋み、思わずビクリと飛びのいた。

 「バカか、自分の足音だろ」

 自分を元気づけようと笑った声が震えていた。

 グギィ、グギィ。古びた木材を軋ませて、一歩一歩、上に登っていく。

 せめて踊り場に窓がついていたらマシだったのに。まだ外は明るいはずなのだが、旧校舎は窓が少なく、全体的に薄暗い。特にこの階段は、昼間でも電気が必要なくらいだ。


 3階に到着して校舎の向こう端を見ると、学ランはさっき見たままの場所に佇んでいた。

 改めて見ると、その姿は完全に異形だった。

 解像度の低い立体ホログラム、と言えば分かりやすいだろうか。輪郭がぼやけた半透明の男が、ひどく不安定な回線で送られているように、濃くなり薄くなり、荒くなり滑らかになり――。背中を丸めて両手をだらりと垂らしたまま、ゆらゆらと揺らめいている。俺の方に背中を向けているから顔は分からない。どうかそのまま、こちらを見ないでくれと心から願う。

 

 俺の心臓は今にも破裂しそうな勢いでバクバクと伸縮していた。血管だけでは収まらず、筋肉や脂肪までもが脈打っているように感じられる。

 大丈夫だ。無理さえしなければ、危険はないのだ。

 俺は環に言われた通りに、息を潜めて少しずつ距離を詰めていき、学ランの10メートルほど手前で足を止めた、そのとき――。

 学ランがビクリと大きく揺れたと思うと、ものすごい速さでこちらに向き返った。

 俺は声にならない叫びを上げる。――彼の顔は、めちゃくちゃに潰れていた。

 眼下は深く窪み、眼球があるべきところは、真っ暗な洞になっていた。額の右側はえぐれていて、こぼれた白い脳漿と黒い血液が髪の毛にべっとりと付着していた。鼻筋はおかしな方向に曲がり、途中で千切れてしまっていた。唇は腫れあがってパックリと切れているし、頬の一部は欠落していた。

 俺の口の中に酸っぱいものが充満し、思わずそれを飲み込んでしまった。胃液の味に吐き気を催す。俺はその場にしゃがみ込んで、本格的に嘔吐しそうになるのを必死で堪えていた。

 「……ア゛ァッ……ア゛?……」

 学ランが小さい呻き声を上げた。俺に話しかけているのだろうか? どうしよう? どうすればいいんだ? 俺の頭は真っ白になり、身体は動かし方を忘れてしまったかのように硬直した。

 学ランはしばらくア゛ーア゛ーと呻いていたが、やがてもどかしくなったのか、ふらふらと手を伸ばし、俺に向かってゆっくりと進み始めた。

 ヤバイ、と立ちあがり、身体を翻して走り出した瞬間。足がもつれて顔から床に突っ込んだ。その拍子に胃の内容物が鼻と口から勢いよく噴射して、俺はその中で溺れた。

 「ウ゛ア゛……――チ゛ャ……?」

 咳き込んではいずりながら逃げる俺を、学ランは首を傾げて不思議そうに見ていた。


 ――――――キィィィイン。

 強烈な耳鳴りと共に、3D映画よろしく、学ランの顔が急速に巨大化した。違う。巨大化しているんじゃない。こちらに向かってきているのだ。

 状況を把握したときには、既に遅し。

 氷水の水槽にぶち込まれたみたいに、身体が急速に冷却されて、息もできない。

 そして、俺は卒倒した。

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