ナイフ 0
旧校舎が、取り壊されるかもしれない。
生徒指導室で数学の宿題を解いていた僕に、学年主任の田崎先生がそんな話をした。
なんでも、耐震設計上に問題がないか査察が入るらしい。その結果次第では、すぐにでも取り壊される可能性があるということだった。
実際、旧校舎はボロボロだ。この部屋だけみても、壁は薄汚れていてヒビが入っているし、塗装もあちらこちら剥げてようないる有様だ。
それに、ほとんど利用されていない。三学年分の教室はずいぶん前に新校舎へ移っていたし、特別教室棟も昨年完成していて、ほとんどの授業はそちらで賄えている。この校舎は、僕以外の人にとっては全然必要ないのだろう。
取り壊されるのはほぼ決まりだろうと、僕は確信した。
「来週ね、業者さんが来るんだよ。教頭先生は出張だから、俺が対応しなくちゃならないんだとさ――」
高熱でうなされているときみたいだ。頭がぼうっとして、身体が数センチ浮き上がったみたいな気分だ。すべての現実が僕とは別の世界のことのように思えた。田崎先生は何やら話し続けていたが、その言葉は全く意味を持たない音の束として、僕の鼓膜に反響した。
旧校舎が壊される。
その事実だけが、僕の周りの空間を液体みたいに充填してゆく。
旧校舎が壊される。
旧校舎が壊される。
旧校舎が壊される。
僕はどうすればいいんだろう?
彼らが言うように、死ぬべきなんだろうか?
僕が死んだら、あいつらはどうなるんだろう。
逮捕されることはないにしても、居場所くらいは失うかな? 退学になってニートになって暗い自室で縮こまってじっとして黴が生えたみたいになって歳だけとって何の楽しみも喜びもなく後悔に押しつぶされて人生を棒に振るのだろうか。
そうだったら、いいな。そうだったら、あいつらが言うみたいに、死んでもいい。
でも、そうでないとしたら。
大学に行き、就職し、のうのうと、人生を謳歌するとしたら。
僕の死は、きっと、あいつらの青春の勲章だ。
あいつらの哄笑が聞こえたような気がして、吐き気がした。
僕の汗ばんだ手は僕の意識の外で、机に隠していた小さなナイフの柄を握りしめていた。これは僕のお守りだ。お守りだが、人を刺し、殺すことも、できる。
僕は、決断しなくてはならない。最後の砦が壊される前に――。