交わらない天使と悪魔
悪魔の弱点は――聖なる光。
毒を糧とする悪魔は聖なるものに弱く、信仰心のあるものに付け入ることができない。
天使の弱点は――強い瘴気。
強い信仰心と聖なる光に包まれた天使も魂を毒されると堕ち、信仰が途絶えてしまえば死に絶えてしまう。
私、神座美里は、教会で生まれた。
ううん、違う。教会で生まれたのではなく、教会に捨てられたというのが、私の境遇をもっとも端的に言い表している。
教会で捨てられた私は、悪魔なのだろうか、それとも天使なのだろうか?
あれは10歳ぐらいの頃だと思う。当時、幼い私は育ての親である神父様にそう質問したことがある。そのときの神父の顔を、私は今でもハッキリと覚えていた。
それはとても悲しそうな顔だった。神父様は私の頬に触れるとそのまま私を抱きしめてくれた。どうして私は抱きしめてもらえたのだろう?悪魔ではないから?天使だから?
結局、神父様は私の疑問に明確な答えを示してくれなかった。私は天使ではないかもしれない。けれど、私は神父様のことは好きだったので、同じ質問はもうしないことにした。
それでも、疑問はいつまで経っても消えなかった。子羊はいつまでも迷い続ける。誰も私に答えを教えてくれない。
主は、私を何者だとみなしているのだろう?
罰すべき存在なのか、それとも愛すべき存在なの――
聖書にはあらゆる疑問に対する答えがつまっている。けれど、私のような矮小な存在に対して主は明確な回答を用意してくれなかったようだ。
私が天使なら、どうして捨てられたのだろう?
私が悪魔なら、どうして拾われたのだろう?
わからなかった。大人は誰も私の疑問に応えてくれない。一つのことが気になると夜も眠れず、時間の許す限り私は教会にある様々な書物を漁るようになった。
教会には本が沢山あった。なかには外国語で書かれた本もあったけれど、神父様に外国語を教えてもらったので私に読めない本はなかった。
教会にある本は、とても深淵で謎めいていた。どうしてこんなものが書かれているのだろう?かつての英知は一冊の本に編纂され、大事に保管、今ではただ埃をかぶっているに過ぎない。
私が読まなかったら、この先一生この本たちは読まれなかっただろう。そう考えると少しだけこの出会いに意味があるように思えた。
その本に出会えたのは、ある夜の晩。月が青白く輝く、とても静かなときであった。
私はそのときもまだ読んでいない本はないか、本棚を隅々まで探していた。そして見つけた。死者の書を。
外国語で書かれたその本は、死者を蘇生するための方法が書かれていた。
死者を蘇らせる。それは神をも恐れぬ冒涜だ。なのになぜこのような本が教会にあるのか、私にはまったくわからなかった。けれど、その薄い背表紙に触れた途端、私にはこれが出会うべくして出会った一冊の本のように思えてならなかった。
私はそれを手にとるとすぐに自室に戻り、夢中で読みあさった。一語一語丁寧に読み、すべて読み終わればまた最初の一ページから読み直す。
そのようなことを毎日毎晩続けていた。悪魔に憑かれるときっと、このように周囲に目がいかず、一つのことしかできなくなるのだろう。
だからきっと、私は悪魔なのだ。
けれど、悪魔の時間はそれほど長くは続かなかった。死者の書はそれほど厚い本ではない。今では一言一句すべて頭の中に入っていた。
――要するに、飽きてしまったのだ。
悪魔は、とても簡単に滅んでしまった。
それから何年か経ち、死者の書の存在をほとんど忘れかけたときに、私は彼と出会った。
彼の名前は藤堂雄輔といった。たまたま同じ高校の、たまたま同じクラスの、たまたま同じ文芸部に所属する男子高校生だ。
最初はただのクラスメイトで、部活仲間だった。朝になれば「おはよう」と言い、下校時間になれば「またね」といいあうだけの、ただの知り合いだった。
けれど、その関係も夏になったら変わっていた。
夏になると彼は「おはよう、美里」と名前を一緒に呼ぶようになった。だから私も「おはよう、雄輔」と名前で呼ぶようになった。
下校時間になれば、「またな、美里」と呼ぶから、「またね、雄輔」と私は言い返す。
呼ばれたから呼び返す。言われたから言う。とても、とても当たり前のような関係で、特別なことはなかったのだけれど、私は今のこの時間が好きだった。
秋になった。雄輔と私はいつの間にか休日も一緒に過ごすようになっていた。
最初はただ、中間テストを一緒にやろうという話だったから。それだけだった。
私たちは休日に図書館に集まって、一緒に数学の問題を解いたり、英語の翻訳をしてあげたり、科学について講義を受けたり、一緒に悩んで苦しんで、励まし合って勉強をしていた。
とても疲れる日々だった。でも、苦痛ではなかった。「早くテスト終わらないかなあ」と雄輔はぼやいたが、私は終わって欲しくないな、とどこかで思っていた。
――なんでだろう?そのときはわからなかった。
なんでだろう?という疑問が、そんなことだったんだと確信に変わったのは、テストが終わった後のことだった。私たちは部室に集まって、テストについて話し合っていた。
赤い夕日が部室に差し込んでいた。彼の顔はそのせいで真っ赤に染まっていて、私もきっと真っ赤に染まっているだろうなと思った。
「帰ろうか」
夕日が沈みかけ、外が暗くなると雄輔はそういった。しんみりとした彼の口調に、私は「もう少しいようよ」となぜか彼をとめてしまった。
「うん、いいよ」
意外そうな顔を浮かべた後、照れくさそうに笑う彼の顔を見て、もっと一緒にいたいと思った。
彼も、雄輔も同じ気持ちだったと思う。口に出してはいないけど、なんとなくそれが伝わった。
それ以来、私たちは休日もよく一緒に出かけるようになった。秋が終わりに近づくと外の景色は寂しくなる。
かつては緑が生い茂っていた木々も、今ではただの枯れた木になっている。時間の経過とともに生命の灯火は少しずつ削がれていく。
秋が終わった。でも、私は雄輔と一緒にいられて幸せだった。そして冬になり――雄輔は死んでしまった。
交通事故だった。12月24日。冬休み。私たちは駅前で待ち合わせていた。その日は大事な日になるはずだった。けれど、待ち合わせの時刻になっても彼は現れず、翌日に訃報が届いた。彼は家を出た後に、車に撥ねられた。
私は、悪魔かもしれない。大事な人が死んだのに、涙が一つも零れなかった。
なんで悲しくならないのだろう?
ただ自室にこもり、時間が過ぎるのを待っていた。
誰とも口をきかず、部屋の隅でうずくまり、じっとしていた。
何も感じなかった。ただ身体がひどく冷えてしまって、なにかを抱きしめていないとそのまま死んでしまいそうだった。
冷たくて、痛くて、会いたくて……頭が張り裂けそうだった。
私は部屋から出ると、彼の自宅へ向かった。深夜過ぎであったため、彼の家は寝静まっていた。
私は以前、雄輔の家に行ったことがある。ご両親とも話したことがあった。とても気さくで、人当たりの良い方だった。
でも、私はまったく罪悪感を覚えずに窓ガラスを割って、家の中に侵入した。私は木製の棺にいる雄輔を見つけると、彼を抱きかかえ、そのまま教会の自室に戻った。
私は、死者の書の内容をすべて覚えている。ベッドの上に彼を寝かせると、私は記憶だけを頼りに死者を蘇らせるための作業を始めた。
一体何をどうやったのか、ほとんど記憶がなかった。ただ手首を見ると何度もリストカットをした痕跡があるため、どうやら相当量の血を抜いたらしい。
なんだかひどく疲れてしまった。雄輔を盗んでから既に三日ほど経過していた。雄輔はいまだベッドの上で眠ったままだった。
彼は眠っている。そう信じたかった。けれど、彼は死んだままだった。そのことを悟ったとき、ようやく涙が一滴でた。
けれど、疲れのせいでそれ以上は涙は出なかった。せっかく悲しいって感情がわかったのに、今度はそれを吐き出すこともできない。
どうしようもないな、私は。意識が朦朧として、そのまま床の上に倒れそうになった。
だけど、倒れなかった。誰かが私を抱きとめてくれた。それは――雄輔だった。
雄輔は蘇っていた。だけど、爛々としたその目を見る限り、そこにいるのは雄輔に似ているだけの、もっと違う何かのようにも思えた。
――ああ、失敗しちゃったな。
彼は鋭い牙を口からむき出しにし、私の首に食いついた。どくどくと血が出る音と、ごくごくと血を美味しそうに飲む音が綯交ぜになっている。
どれくらい時間が経ったのだろう。私は目を覚ました。いつもと同じ天井で、同じ部屋。違うのはベッドの上で、そこには雄輔がいた。
「おはよう、雄輔」
私はかつてと同じように挨拶をした。けれど、雄輔はただベッドの上で座っているだけで返事をしない。ただ黙って私の方を見ていた。
「どうしたの?」
「ごめん」
「なんで謝るの?」
雄輔は何も言わなかった。
彼は立ち上がると、カーテンをあけた。遮光カーテンが開くにつれて、外から強い太陽の光が燦々と降り注いだ。
私は、叫んだ。「やめてッ!」
死者の書に書いてあった。太陽の光を亡者に浴びせてはならないと。
太陽の光は、悪魔にとっての天敵だから。太陽の光を浴びると、亡者に宿った悪魔が死んでしまう。
――雄輔が死んでしまう。
太陽の光が雄輔の身体を照らした途端に、彼の皮膚が焼け始めた。ひどい悪臭が部屋の中にたちこめる。
「いいんだ」
じゅうじゅうと焼けただれる彼の顔がゆがむ。それでも雄輔はカーテンを締めない。私は夢中で彼に近づこうとしたが、身体に力が入らず、ただ黙って彼が陽の光で消えていくのを見守るだけだった。
太陽の光は、悪魔を照らし、やがて消滅させてしまった。
雄輔は悪魔だった。だから蘇った。
窓から差し込む光が私を照らす。それはとても暖かく、冷たくなった私の体を温めてくれた。けれど、私の心はいつまでも冷たいままで、暖まらなかった。
私は、天使だった。ようやくそれに気づけた。けれど、そんなことは知らなくてもよかった。