日差し
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八月半ばの昼過ぎでも日差しは絶えず照り付けてくる。あたしもグラスに注いでいた、氷が数個浮かんでいるアイスコーヒーを飲んだ。深呼吸して肺の中にある酸素を入れ替える。ゆっくりとパソコンやプリンターなどが設置された書斎に佇んでいた。フリーライターであるあたしにとってパトロンはいる。その手の人間たちは常に電話やメールなどで情報を送ってくるのだ。それを元手に原稿を書く。フリーなので専属契約している出版社は一社としてなく、書き上げたものを随時持ち込んでいる。その繰り返しだった。以前は出版社に勤めていたのだが、大学卒業後、新卒で入ってきてずっと仕事らしい仕事はほとんど任されていなかった。単にお茶汲みやコピー取りばかりで、これと言って目立つ仕事はしてない。だけど少ない給料から一部を貯金し、念願の脱OLをしてから、溜め込んできたお金を使ってライター生活を送り始めた。デビューに向け、ひた走っていたのである。確かにあたしもパソコンのキーを叩くのに慣れていた。ずっと上役たちが会議で使う資料や、社の概要が書かれた書類等を打ち、上司のアドレス宛にメールで送ることを続けていた。苦労はあったのだ。一定の。ただ書き手となった以上、もうそういったことをする必要はない。ずっと自宅の書斎でパソコンのキーを叩き続けていた。フリーになったのは三十代に入ってからで、それまではずっと下積みだったのである。でも下積み時代の労苦があったからこそ、今があるのだ。ライターとして一日中原稿を書き続けることが、である。
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交友関係は極めて少ない。やはりフィクションであれ、ノンフィクションであれ、作家というのは人間関係が希薄である。あたしも例外なしにその一人だった。仕事は絶えず回ってくるのだが、別に気に掛ける必要はない。書き手にオファーを送ってくるのは分かる。ただ、かと言って、全ての仕事を引き受けるわけにはいかない。一部はお断りしていた。潤沢に資金があるので特に困らないのだ。あたしも週刊誌や月刊誌などに連載を持っていた。小説家じゃないのだが、コラムやエッセーなどを連載している。連載が滞りなく続いているので別に構わない。単にキーを叩き、何度も繰り返し推敲してから出版社に送っていた。その日も暑い日差しが室内に差し込む中、書斎でゆっくりとキーを叩き続ける。ベッドも書斎に一つ設置していて、眠気が差してエスプレッソコーヒーを飲んでもダメなときは休んでいた。疲れた体をゆっくりとベッドに横たえる。ライターも一日中仕事をしているわけじゃない。キーを叩きながら、合間に休めるときは休んでいた。疲れるのである。仕事の間でも。努めてゆっくりしているのだった。疲れたときは心身両面を休めるため、ベッドに横になっている。キーを叩くことに変わりはない。ただ、あまりにも単純作業が続くと疲れるのだ。だから横になれるときは横たわってゆっくりと休んでいた。メル友などはいたのだが、あまりそういった人間たちとメールのやり取りをしない。キーを叩くのは原稿を作るときだ。あたしも休めるときはなるだけ体を休めている。今のように日差しが強いと疲れるからだ。夏バテというが、まさにその通りだろう。あたしも気を付けていた。この季節は蒸されるように暑い。ずっと仕事をしながら、体を壊さないようにしていた。グラスに注いでいたアイスコーヒーは全部飲んでしまっている。カフェインを含むと眠気が吹き飛んでしまう。あたしも気にしているのだった。回ってくる仕事が最近異常に多くなったのを。以前よりも着実に増えている。だけど、あたしもそういったことには慣れているのだった。今までも仕事が多かったから、断る分は断りながら、こなせる分だけこなしている。ゆっくりと。夏の時間を楽しんだ。今年二〇一二年の夏も盛りを過ぎて、幾分涼しくなりつつある。書斎にいて昼寝が済んでしまったら、またコーヒーを一杯エスプレッソで淹れて気付けにしていた。濃い目のコーヒーは神経を覚醒させる。あたしも気を遣っていた。健康には十分に。気持ちをフル回転させるにはコーヒーが一番いい。以前紅茶を飲んでいたのだが、今はお茶の方はルイボスティーに切り替えている。体をリラックスさせるのに効果があるからだ。夜寝付けないときがある。特に夏の夜は眠り辛い。こういった蒸し暑い季節ほど。でもいいのだ。あたし自身、眠れないときは起きている。睡眠導入剤を飲んでいるのだが、頓服なので眠れるときは飲んでない。気に掛ける必要など何もないのだった。多少眠れなくても平気だ。出版社の女性社員時代ほど体力はなかったのだが、それなりに昼間仮眠を取ったりすることもあった。ずっと仕事が続く。自宅マンションは最近セキュリティー対策などを強化していて、変な人間が入ってこないようにしていた。それだけいろんな面で気を遣っているのである。もちろん一階には管理人がちゃんといて、七階にいるあたしのことなど、さほど気に留めてないようだったが……。
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夏の日差しがとても強い。あたしも参りそうになっていたのだし、正直なところ参っているのだった。だけどこういった夏バテの症状も一時的なものである。気に掛けていなかった。ゆっくりと歩き続ける。週に二日ほど近くの量販店に行き、買い物などをしてから、夕方は料理を作っていた。大抵作るのに簡単なチャーハンや卵スープなどが多かったのだが、それでも十分だ。別に気にしていない。単に作るのに簡単なものばかり手掛けていたのである。食べられれば十分だとぐらいにしか考えていなかったので、それで済ませていた。ずっとこの蒸し暑さが続くかといえばそうでもなかったのだが、あたしもちゃんと毎朝起き出し、朝食に食パンを一枚焼いて、トーストにしてから飲み物にコーヒーを一杯欠かさず飲む。そして洗顔とメイクをし、パソコンを開いてキーを叩き始めた。単調な毎日だったが、これがあたしの日常である。別に気にしていなかった。あたしも書き物をしているだけでそれが収入源だったから、続けているだけだ。これと言って変化はない。だけどそれでもよかった。変化がないのを好むのもライターだ。少なくともあたしのような書き手にとっては。そして体が疲れているにしても、キーを叩きながら作品を作り続ける。連載原稿を書くのは相変わらず忙しかった。だけど別にいいのである。あたしも仕事をしているときが一番気が紛れるのだ。そう思ってやっているのだった。キーを叩き、原稿を打つ。出版社にはメールで入稿していたのだし、ゲラのやり取りもメールやスカイプを使ってやっていた。その繰り返しである。今はペーパーレス社会なので、特にプリンターで紙に印字することはない。印刷されるのは製本時だけだった。キーを叩くのが仕事で手書きすることはほとんどない。昔、勤務先でワープロを使っていた頃は一々紙に印字していたのだけれど……。キーを叩きながら一作ずつ作っていく。一種の職人芸だった。あたしもこの暑さに蒸されながら、ずっと原稿を執筆し続けていた。特に違和感など何もなく。そしてずっとパソコンに向かいながら、頭の中にあることを原稿に反映させる。締め切りに間に合うよう、余裕を持って書き続けていた。入稿日直前になると、夜まで作業することもあったのだが、徹夜することはない。昔から執筆するときは余裕を持っていたからである。そういったことの繰り返しで日々が過ぎ去っていく。そして何もかもをひっくるめ、人生だと思っていた。家で仕事をする人間は退屈さから逃れられないのだし、比較的ゆっくりとしている。自由業の人間は時間の使い方を上手く考えるのだ。あたしも日々一人で仕事をこなしながら……。
(了)