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贖罪のアヴァロン

作者: 有理数

 目を覚ますと、頬がざらざらとした感覚に張り付いていた。

 急激な明るさに目が眩む。

 手を地面に付けて体を起こそうとすると、やはり手の平がざらざらとした表面に触れる。体を起こしてみると、どうやら私が倒れていたのは砂浜のようだった。手の平には、水分によって張り付いた砂が無数に散らばっている。

 後ろを振り返ると、水平線が遠くに映える真っ青な海が広がっていた。私の体や髪はそれとなく濡れていることから推測するに、どうやら流されてきたようだ。髪や服が肌にべたついて気持ちが悪い。

 どこだろう、ここは。

 上は晴れ晴れとした青空で、太陽が降り注いでいる。先ほども言ったように、後ろは大海。そして私が座っているのは砂浜。そして目の前には、鬱蒼と生い茂る森があった。

「……」

 私はとりあえず立ちあがって、砂浜が何処まで続いているかを試しに見てみた。普通、海に面する砂浜というのはずっと先まで伸びていて、その端が見えるほどまで遠くに伸びているはずだが、この砂浜は私から見て右側に途中から曲がってしまっている。ということは、もしかしたらここは島なのかもしれない。それとも飛び出したような海岸なのだろうか。

 濡れた体を手で擦りながら、とりあえず歩いてみることにした。

 自分の座っていた場所に震える手でバツ印を書く。もしここが本当に島なら、砂浜を歩いているうちにこの場所に戻ってくる。逆にもしこの印に戻って来れなければ、ここは島ではないという証明にもなるはず。さらに印をしておけば戻って来た時、ここが最初にいた位置だとすぐにわかるだろう。

 ゆっくりと足を踏み出した。

 歩く度に、体が崩れ落ちてしまいそうなほど気だるかった。体が重い。足も重い。頭が痛い。腕が痛い……歩きながら、体中の痛みに奥歯を噛み締めた。砂浜だから足を取られてさらに歩き辛い。何より、左手がどの体の部位よりも激痛を帯びていた。私は不思議に思って、左手首に視線を下ろす。

 左手首は、無数の傷で埋め尽くされていた。

 太い動脈を赤い線が切り裂いている。血は出ていなかった。だが、『明らかに切り裂いた跡』が確かにそこにあった。一本や二本じゃない。何本。数え切れない。まるでナイフで何度もそこを叩いたみたいに。血液が凝固しているようにも見える。痛くはなかった。しかし、なぜか切なくなった。誰がこんな傷を残したか、私にはわからなかった。

 私は何にも覚えていないのだ。

 砂浜を歩き続けると、やはりここは島だとわかった。あまり広くはない、円形の島。何と一分ぐらいで戻ってこれてしまった。自分の足跡が確かに伸びているし、きちんとバツ印も残っている。推測するに、ここは何処かの小さな、本当に小さな島で、島の中央には森が広がっているだけの島だ。まあ島の大きさからしても、その森自体もあまり広くはなさそうだった。

 先ほどは島国かどうか考えながら歩いていたが、今度は少し余裕を持ってもう一度砂浜を歩いてみることにした。誰かいないか、どうやって私がここに来たのかを確かめる何かがあることに期待する。もしかしたら何か手掛かりがあるかもしれない。足取りは先ほどよりも軽かったが、いつまで体中の痛みは引かず、傷だらけの左手首が痛み出していた。



 もう一周して戻ってくると、不可解なことが起こった。

 私がつけたバツ印が消えていたのだ。

 波がさらって行ったのだと思った。しかし、バツ印の周りの、私の倒れていた跡や足跡はそのまま残っている。もし波がさらって行ったのならどうしてバツ印だけ器用に消えているのだ。私は手首を押さえながら、明らかに不可思議な現象に戸惑った。

 何か推測を立てようと思ったが、頭がうまく働かなかった。とりあえず、もう一度島を一周してみようと思った。一周するのにそれほど時間はかからない。じっと立ち止まっていても何もならないし、どうしようもない。それならば動いていた方が当然希望はあるだろう。そんな気持ちで、もう一度私は歩き出した。

 もう一周して戻ってくると、今度は私の倒れていた跡が完全に消えていて、さらに一周目の足跡も消えていた。だが、二周目の足跡は残っている。さっきと同じだ。やはり波がさらったわけじゃない。ならばなぜ消えているのだろうか。私が一周する間に、何かが起こっているのだろうか。

 今度は近くに座って、自分の二周目の足跡をじっと見つめてみた。

 だが、何も起こらない。

 左手首を右手で押さえながら、もう一周に踏み切る。

 戻ってくると、二周目の足跡は消えていた。

 そして。

『ようこそ、アヴァロンへ』

 三周目の足跡のすぐ傍の砂に、そう書かれてあった。




 ■




『アヴァロンって、この島のことですか』

 私は、先ほどの砂浜の文字の横にそう書き、もう一度島を一周してみた。すると、先ほどの『ようこそ』から始まる文字、私の先ほど書いた質問の文字、そして三周目の足跡は綺麗に消えており、新たに文字が追加されていた。

『そうです。この島はアヴァロンといいます』

 私はこの文字の答えに、二つの驚きを感じた。この島には、私以外の人がいる。一周して戻ってくる間に、誰かがこの砂浜の足跡や文字を消して、文字を書いているのだ。その事実に私は安堵した。私は一人じゃない。姿は見えないが誰かいるのだ。

 もう一つは、この島の名前がわかったこと。まあ、島の名前など何でも良かったのだが、名前で一体どこの国の島かわかると思ったからだ。しかし、アヴァロン……少なくとも私の住んでいる国にある島ではなさそうだ。そんな島の名前は聞いたことがない。それとも私が知らなかっただけなのか。しかしこんなにも綺麗な海や空、そして森を一度に感じれるこんな島が、観光地として名を馳せていないはずがないと思うのだが。

 それにしても、誰が書いているんだろう。私が一周して戻ってくるのには、約一分ほどしかかからないはず。その間に足跡や文字を消すにしては早すぎる。私が歩き出してからすぐに消し、急いで文字を書かないと間に合わないだろう。そこの森に隠れているのだろうか。だったら出てきてほしいのに。

「あの、誰かいるんですか」

 私は森に向かって声を掛けてみた。

 返事はなく、潮風が茂みや木々を揺らす囁きだけに留まる。

 わざわざ砂に文字を書くということは、喋れないのだろうか。

「いたら、その、出てきてほしいんですけど」

 喋れなくてもいいから姿を見せて欲しかった。今の私は、平静を保てていると自分で強がっているだけ。そして何処ともしれない島に流されて、全身の痛みに耐えているだけのか弱い女でしかなかった。やはり誰かの存在だけで救われる面もあるはずだから。

 しかし、それでも返事がない。物音は、風の音と、草の音だけ。

『あなたは誰なのですか』

 先ほどの文字の隣に、そう書き置いた。

 私は唇を舐めて文字を一瞥してから、もう一度島を一周した。その間に様々なことを考えてみようとするが、考えはまとまらなかった。例えば、どうして私はこの島――アヴァロンに流されてきたのか。流される前は何をしていたのか。そして、文字を書いた誰かのことを。体の痛みも伴って、頭の痛みも増えていくし、考えも巡るだけ巡って消える。結局何か結論に辿り着くことはなかった。逆に疑問は深まって行くばかりである。

 戻ってくると、私の文字はやはり消えており、新たな文字が書かれてあった。

『それは言えません。姿も見せることができません』

 私はその答えに気落ちした。なぜ、どうして。この文字を書く相手への苛立ちが募った。どうして何も、あなたのことを教えてくれないのか。私は知りたいのに。文字だから、その私の気持ちを正確に伝えられない。それでも、私はあなたを知りたいのだった。だから私は、この苛立ちや失望が少しでも伝わるように乱暴に文字を書き殴った。

『どうしてです。なぜ見せてくれないのですか』

 今度は、最初だけゆっくり歩いて、途中から駆け足で元の場所まで戻ってみた。少しだけ私が今までとは別のペースで戻ってみれば、文字を書いている途中のその人の姿を見ることができるかもしれないと考えたからだ。姿を見るだけでもいい。それだけで、ひとりぼっちは緩和される。そう考えた。

 会いたい。

 その一心で戻ってみたが、結局誰もいなかった。見る影もない。

 そういえば、もし誰かがその森かどこかに隠れていて、私が歩き出したと同時に文字を書いたとするならば……その『誰か』の足跡が残っているはずではないか。なのにその痕跡がまったく残っていない。いや、私の足跡が消せるのだから自分の足跡だって……でも、私の足跡+私の文字+自分の文字を消し、そして新たに文字を書く……あんな短時間にそれらを一気に行うことなどできるのだろうか。

 新しく追加されていた文字は。

『私には姿などありません。強いて言うのなら、私はこの島そのものなのです』




 ■




 アヴァロン。

 この島の名前であり、そこに内在する人格の名前だという。砂浜に文字を書くことで、ここに辿り着いた人と意思疎通をすることが可能らしい。彼女自身がこの島そのものであるため、足跡を消したりも自由にできる。ただ唯一の欠点が、その砂浜の文字を書くところを誰にも見られてはいけない。むしろ、見られていたら書けないとのことだった。だから、私が島を回っている間にこっそり書いていたのだという。

 もう私は、この島を何周もして、先ほど語ったようなアヴァロンについての情報を何度も交わした。それぐらい何度も島を回り、彼女と砂でやり取りをしたのだ。もう何周したかわからない。それでも、彼女のことを知るために何度だって周回したのだった。

 『彼女』というのは当然アヴァロンのことで、性別は不明なのだが、砂浜の文字列から感じられる言葉遣いや雰囲気、その静かに紡がれる感覚がなんだか女性らしい気がしたのだった。一人称が『私』なのもその理由だろう。安易すぎるかもしれないが女性だと考えた方が私も気が楽だった。いつだって異性は苦手である。

『ここはどこなのですか』

 たくさん会話したが、私はそろそろ核心に触れ出した。

 文字をなぞり、私はまた歩きだす。左手首が痛い。汗の所為で、その赤い線がとうとう溶け始めた。固まっていたはずの血が溶けて、指に伝う。痛くはなかった。しかしここにきて、『痛かった』記憶だけが甦った。それでも、流される以前のことは覚えていない。

 戻ってくると、アヴァロンはこう返す。

『どこでもありません。少なくとも、人間の住んでいる地球ではありません』

 曖昧な答えばかりを返してくるアヴァロンは、確かに概念としては仕方のないことだった。島そのものに人格がある。それだけでなく、もっと包容力のあって、私のような『人間』には想像もできない、神のような存在だろうと私は踏んでいる。だからこそ、彼女のようにいつもいつも答えの定まらない、それでいて、「私がさらに質問を重ねざるを得ないような答え」ばかりを提示してくる。これでまた私は歩かなければいけない。

『私は、一体どうしてここにやってきたのですか』

 この答えを、アヴァロンは知っているのだろうか。神だったら、知ってるかもしれない。少なくともこの質問を彼女にぶつけたということは、彼女が知っていることを少しだけ期待してるということだ。私はそれが知りたい。

 砂浜を歩く。

 疲れが出てきたのか、砂浜に足を取られる。目が覚めた時からすでに体中は重かった。しかし今はさらに助長され、汗が出る。真上には太陽が降り注いでいるからか。潮風は頬を撫でて、髪を扇いでいるというのに、涼しくなる気配は微塵もない。それどころか熱さがさらに体を締めあげていた。左手首の流血はさらに激しくなる。最初は、凝固していた血が汗で溶けただけかと思っていた。しかし違った。これは明らかに切り傷が復活し、新たな鮮血を噴出していたのだった。体中の気だるさは痛みに変わり、ただ単にじんじんと痛むだけだった頭は、まるで頭の中を鈍器で連続的に殴られているような痛みにすり替っている。それでも、とにかく歩くだけ歩いた。戻ってくるまでの距離が長くなっている気がした。

 戻ってくると、文字が追加されている。

『ここは地球ではなく、もっと概念的で、観念的で、誰の手にも届かない場所にあります。それでお分かりになりませんか』

 私は曖昧でいつも遠まわしに返事をするアヴァロンに、この時ばかりは怒りが湧いた。すっぱりと言い切ってくれればよいのだ。私がどうやってここに来たのか。どうしてここに来たのか。これでお分かりになりませんか。この語り口は、間違いなく知っている。私がここに来た意味を、理由を。だったらなんで言わないのだ。言ってくれれば、私はそれでいいのに。

 私は正直に、言葉を書き連ねた。

『あなたのその遠まわしな言い方が先ほどからずっと気がかりです。ヒントなど要らない。これは問答などではありません。どうか率直に、私のここに来た意味と理由を教えてほしいのです』

 長々と書いて、私は歩きだした。

 ここは地球ではなく、もっと概念的で、観念的で、誰の手にも届かない。

 それは、この素晴らしく綺麗な海の向こうには、私の住んでいた大陸は存在しないということなのだろうか。先ほど地球ではないと言及したから、やはりそういうことなのだろう。流されたということは、この島と私の故郷は海でつながっている。そう考えていた。だが、それは違うのだ。ここはアヴァロンの言うように、概念的で観念的……つまり、意識だとか普遍だとか、そんな風に物理的には存在しなくて、実体のない。そして誰の手にも届かない場所にある。どこだろう。見当もつかない。

 痛い。

 痛い。

 頭が痛い、足が痛い。履いている靴の先端から赤い液体。歩いているうちに、爪が割れたのかもしれない。同じように、左手首から血が滴る。止まらない。右手で押さえてみても、指の間から血が滲み出てきた。左手の指は震えて、痙攣している。動悸が止まらない。息が荒いのが自分でもわかる。肩も痛い。腰も痛い。全身が痛い。痛くて痛くて溜まらない。

 しかし歩かなければ、私は知ることができない。

「……っ……はあ、はあ……」

 砂浜が、長い。

 一分程度で周回できるはずなのに、長い。今どれぐらい歩いた? 一分以上歩いた。痛みで足取りが重くなったか。だがずっと歩いている。痛くても痛くても、確かに私は歩いている。止まってなんていない。遅くなっても歩いている。なのに、まだ辿り着かないの。

 痛い。

 早く次を知りたい。

 意味と理由。

 私。

 私って誰。

 痛い。

 頭に光景がフラッシュバックする。

 私は。

 私は、手首を切った。

 痛かっただけの記憶と結びついた。

 寂れた部屋。

 小さな蝋燭の明かり。

 私はバケツに水を汲んだ。

 そして手を入れて。

 ナイフで。



『あなたは死にました。自殺です。さあ、これでここが何処なのかおわかりでしょう』

 戻ってきた時、私はまずその場に倒れた。痛かったのだ。

 立ち上がろうにも、左手はもはや完全に動かなかった。右手だけでも立ち上がれる。だが腰も脚も痛い。痛くて痺れる。倒れた時の衝撃で、顎が疼いた。目が霞んだ。

 私は、自殺した。

 貧しくてだろうか。さっき思い出した光景は酷く寂れた部屋だったから、きっと貧しかったのだ。明かりは蝋燭一本で、食べ物の見る影もない。水中で手首を切れば、血液は凝固せず血は流れ続け、死ぬことができる。だからバケツに水を汲んだ。

 私は、死んだ。

 ならば、ここは――……。

 私は倒れたまま、右手で、砂にゆっくりと文字を書いた。敬語は使えない。そんな余裕ない。できるだけ短く、簡潔に書かなければ腕が持たない。

『場所はわかった。けれど、なんでここに。なんのために。あなたはなんのために』

 最後だ。

 続けて書く。

 最後。

 これで最後の質問。



『私の名前。教えて』



 立ち上がれ、私。

 私は死んだ。

 惨めに死んだ。

 だが知らなければいけないのだ。

 私は生きていた。

 名前があったのだ。

 貧しくて死んだ? 誰か愛しい人を失くした? 

 どうして自殺に踏み切ったか、わからない。

 それでも私は、確かに『在った』のだ。

 だから立ち上がれ。

 知ることを知って死ぬんだ。

 納得いかない、自分で認めていない死など。

 右手だけに力を込めて、ゆっくりと膝を立てた。腰を起こして、まずは座ったような体制を取る。そこから、右手を駆使して少しずつ立ちあがった。私の座っていた砂には、血が水たまりを作っていた。どうやら左手首の傷は固まらないようだ。しかし別にどうでもよかった。

 あと一周だ。

 戻ってくるだけでいい。

 それだけで、確かにアヴァロンは答えを書いてくれるはずだ。

 ゆっくりと歩み出す。足を一歩踏み出すだけで、全身が痛みに嘆いた。また倒れそうになった。だが倒れてはいけないのだ。あと何歩? わからない。だが少しだけ歩けば答えはわかるのだ。私は死んだ。それは痛みが苦しかったから。怖かったから。何かが辛かったから。だからきっと、生きていた頃の方がきっと辛かったのだ。

 なら大丈夫。歩けるんだ。

 私は一歩一歩踏みしめるように進む。こんな一歩早く終わって駆け抜けたいはずなのに、まるでその一つ一つを噛み締めるように、大事にするように歩んだ。ゆっくりにすればゆっくりにするほど痛い。早く進んだ方が、到着までは短いし、痛みだって楽だ。しかしなぜか私は緩やかに歩むしかなかった。痛いから、早く動けないだけかもしれない。でも、そうじゃない気もした。歩いていると、いろいろ思い出してくるからだ。

 私には、家族もいたし、友人もいた。

 暖かかったはずだった。誰かといることも。

 学校に通ってた記憶もある。友人たちと一緒に授業を受けて、ご飯食べたり。家に帰ると家族と一緒にいた。ああ、ぼんやりだが確かにそうだった。思い出してきた。輪郭はまだ掴めない。家族の顔も友人の顔も思い出せない。なんで。思い出せば、もっと私は生きていた頃のことをアヴァロンに問いたくなるだろう。今でさえ、知りたくて知りたくて仕方ないのに。やっぱり私はいろんなことを知りたいのだ。

「……はあ……はっ、はあ……っ……」

 バランスを崩して、その場に倒れた。

 目と口、鼻の中に砂が入り込む。息が詰まって、咳き込む。目を擦りたくなるほどの熱が目元に集中した。しかし手は動かない。でも動かさなきゃいけない。目はこすらなくてもいい。もう何周したんだこの砂浜を。目を閉じたって、ちょっとだけ、薄眼で歩いたって全然簡単だろう。私はまだ歩ける。そう言い聞かせなきゃ、私は私を知ることはできない。

 目はこすらなかった。口の中はじゃりじゃりと砂が混じっている。吐きだすことに力を使いたくなかった。私は、今は歩くことだけに私の力を使わなければいけない。 

 わかってる。

 わかってるのに。

 動かないんだ。

 痛いんだ。

 もう、立てないのかもしれない。

 まだ全然、歩いていないのに。

 左手首が痛い。

 諦めてしまえば、ここで寝たままになれば、その方が楽なのに。

「……」

 倒れたままだと、頬に砂が当たって気持ちが悪かった。

 海が見えた。

 海の方に首を向けたまま、うつ伏せになっている。

 左手首が、目の前にあった。

 まだ血が出ていた。

 もう死んでるのに、なんでこんなに痛いんだろう。

 もう一度死ねそうな気がする。

 目に入った砂は、涙で流されていて、視界は澄み切った。

 瞬きした。

 文字が目の前の砂に書かれてあった。

『戻ってきてください』

 瞬き。

『名前を教えて差し上げます。道中、あなたの過去をお教えします』

 まだ、動く。

 私は左手で砂に力を込めた。震える。痛い。

 だが、敢えて痛みの迸る左手で立ちあがって見せた。

 意味も理由もどうでもいいかもしれない。

 なんで私は死んだのか。

 私の名前は何なのか。

 それぐらい教えて欲しい。

 アヴァロンはどうやら、瞬きした瞬間に文字が書けるようだ。

 私は砂浜を歩きながら、砂浜の表面を見た。



『あなたは幸せでした』

 ざく、ざく。

『幸せな家族に囲まれ、友人にも恵まれました』

 ざく、ざく。

『しかし、家族は亡くなって、友人たちとも疎遠になりました』

 歩いている時、ざくざくって音が鳴って。

 足元を見れば、文字が書かれている。

 私の話。

『一人暮らしをするも生活は貧しく、困窮する日々』

 薄らある記憶。

 明かりは蝋燭一本。

『それでもあなたは生きていた』

 机に独り。

 ざく、ざく。

『しかし残念ながら、あなたは耐えられなくなりました』

 お疲れ様だったね、私。

 歩みは止まらなかった。

 もう少しだった。




「ない」


 

 私は、戻ってきたはずだった。

 一番最初に私が倒れていた場所は、確かにここだ。すぐ目の前にある森の草木の形状も覚えている。確かにここのはずだった。私は戻ってきたのだ。痛みに耐えて。左手首の流血と痛みをなんとか抑えて、ここまでやっと歩んできたのだ。アヴァロンの返してくれる答えを知るために、頑張って戻ってきたのに。

 そこには、なんの文字も書かれていなかった。文字だけでない。前の周の足跡も。とにかく、そこが一番最初私が倒れていた場所で、周回のスタート地点だということを知らす印や痕跡がまるでそこに存在していなかった。

 どういうことだ。

 瞬きした。

『どうしたんですか。歩かないのですか』

 言葉が書かれていた。

 違う。

 私が求めているのは、それじゃない。

 私が求めている返答は、そんなのじゃない。

 膝を突いて、もはや感覚すらない指で砂の上をなぞる。

『早く教えて。私の名前を』

 瞬き。

『元いた位置に戻ってこられたら、教えて差し上げると申しました』

 私は愕然とした。何を言っているんだ。

 私が元いた位置は、ここだ。

 確実にここだ。

『ここだ。私がいたのは、ここ』

 瞬き。

『違いますよ。もう少し先です』

『違う。確かにここだった。すぐ傍の森の形状も覚えてる』

『あなたは私の答えが早く知りたくて、嘘を吐いているのでしょう』

 馬鹿な。

 私は唇を噛み締めた。アヴァロンの言葉が、砂上の文字が、辿り着いたという私の達成感と希望を粉々にした。こいつには何を言っても伝わらない。そんな絶望感を叩きつけられた気がしたのだ。私が嘘を吐いている? 意味がわからない。森の形状を覚えている、という程度で元いた位置を正確に測ることは確かにできない。頭はぼんやりしているから、もしかしたら本当にここではないのかもしれない。だが、ここだという確信も確かにあったのだ。

 左手首が痛い。

 流血は滞ることを知らない。

 しかし私は死ねないのだ。

 ここじゃない?

 嘘。

『さあ、歩いてください』

 でも、アヴァロンはそれを許してはくれない。

 なら、歩くしかない。

『もう少しです。頑張ってください』

 立ちあがったと同時に、そこに文字が書かれていた。

 人の気持ちも知らないで。

 私は歩き出した。




『もう少しです』

『もう少しです』

『もう少しですよ』



 歩く度に、足元に文字が書かれていた。

 だがいつまで経っても、もう少し、もう少しだと煽るだけだった。

 アヴァロンは、嘘を吐いている。

 私は歩みを止めて、右手で砂に文字を書いた。

『あなたの目的は、何』

『目的などありません』

『嘘』

『嘘ではありません』

『あなたは私を一生歩かせるつもりなのでしょう』

 アヴァロンは、嘘を吐いている。

 先ほど私は、確かに元いた位置に辿り着いたのだ。

『何の話でしょうか』

『曖昧な答えばかりなのも、いつまでも答えを返さないのも、元の位置を嘘吐くのも、全て私をただ歩かせるためだったのでしょう』

 瞬きを何度しても、答えが返ってこなかった。

 図星か。

 私は笑ってやった。砂に向かって嘲笑してやった。

 概念のくせに、ただの人間に意図を見破られてどうする。

『もう少しですよ』

『本当ですね』

『本当です。あと少しです』

 信じれるわけがないが、信じる以外に道がない。

 私はまたゆっくりと立ち上がった。

 立ち上がって瞬きすると、砂に文字があった。




『これは、贖罪です』




 歩くしかなかった。







 これは贖罪だ。

 私は、自分から命を絶った。

 生きることを否定すること。

 綺麗な海、綺麗な空、綺麗な森。

 そんな楽園みたいな島で、私はボロボロのまま、歩き続けるのだ。

 アヴァロンはこれからもずっと、私に嘘を吐き続け、歩かせ続ける。

『もう少しで、あなたの質問にお答えしましょう』

 砂の文字。

 体の痛みは、痛みを通り越して、まるで自分に体がないように思えた。

 それでも確かに歩いている。

 私はきっと、贖罪のために、いつまでも歩き続けるのだ。

 



『名前が知りたくはないのですか。もう少しです』




 もう少し。

 もう少し……。







(終)


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