わにのような物語 1
「そろそろ行かなければ遅れる」
わかっている。男はそう言い返した。
「わかっていないようだ。行動にうつしていない」
時計の針が出勤時間に刻一刻と迫っているにもかかわらず、男は今までの規則的な生活に反し、未だベッドから立ち上がったその時の格好のままだった。
テーブルにはワニが座っている。白い運動靴にタキシード、出来上がったばかりのフランスパンよろしく、まさに理路整然として背筋を伸ばしている。
俺がひとり遅刻した程度で世界がどんな損をするんだ。と男は思った。
「世界が求めているのは君ではない。規律である」
知っているさ。男は心の中でつぶやき、言い返すことはしなかった。彼は知っているのだ、彼の行動で何が起きることもない。
「休む気かね」
大きなパフェを前にしてワニが言った。それも悪くないな。と男が言った。
「わかっているのだろう。君にも規律が必要である。君自身にも」
知っている。と、もういちど男は言った。そして思った。あのパフェはどうやって食べるのだろうか。ワニはいつも何かを食べている。俺の前に現れるときは。と。
「規律である。出勤は無意味だ。だが必要なのだ」
無意味じゃないだろう。と男は言った。腹立てたような様子ではない。金を稼いでる、それで生活してる。「一日の休み程度は生活に支障をきたさない」とワニも言い返した。
そんなことはない。と男も負けない。そこで男は少しく不思議に思った。何かが食い違っている。だから男は言った。俺に出勤して欲しいのか、そうじゃないのか、どっちなんだ。
「休んでも構わないと思っているのは君である。小生、どちらでも構わない。ただ、君はもうすぐ家を出る、どうせ行くのだ」
なぜそんなことがわかる。と男は訊ねた。
「小生にはわからない、君が決めたのである」
わかった。そろそろ着替えよう。と男が言おうとしたとき、ワニは姿を消していた。
空になったパフェの容器がテーブルの上にあった。