リトル・ガール・ブルー 3
僕が彼女と初めて出会ったとき、僕は知らないうちに彼女の瞳をずっと見ていた。そこには僕を惹きつける妙な力があった。その間、僕は瞬きというものを完全に忘れていた。しばらく経ってから僕は瞬きをしていなかったことにやっと気付いて、意識的に瞬きをしたのを覚えている。そういう些細なことまで、僕はよく覚えている。僕の記憶力が格段に優れているとか、そういう事ではなくて、彼女の瞳にはそういう力があったのだ。事象や映像というものを脳の奥に焼き付けるような力任せの記憶ではない。つまりそれは感覚的記憶というもので、例えば僕は、人生で最も間隔の長かった瞬きという行為を、眼球に染み入った涙の感覚で覚えている。それは強引に押し込められた細胞の記憶ではなく、自然に馴染まされた、彼女の不思議な瞳の力によるものなのだ。
今日みたいな蒸暑い夏の日の夕方だった。今僕が座っているベンチに、その日も腰を下ろしていた。午前中とは違う、短い命のうちの一日が終わりを迎えることへの嘆きのような蝉の声を聞きながら、僕は夕飯の献立を考えていた。蝉の鳴き声は朝から夜にかけて、じっくりとその音色を変えていった。
(そろそろお前らに任せたぜ)蝉がそう言って地上の虫たちに合唱団の入れ替わりを告げ始めた頃に、彼女はやって来た。
彼女が公園の入口に足を踏み入れたとき、蝉たちの合唱は途絶え、涼しげな風が彼女を迎え入れるように優しく吹いた。
そこには一瞬の静寂というものがあった。コオロギや鈴虫といった地上の夏の虫たちが静寂を創りだした。そこには確かに彼らの鳴き声があった。しかしそれらはどこか遠くの世界で鳴っている意味のない呼び声のように空気と同化していた。
世界が変わったような気がした。風で帽子が飛ばされないように、左手で(賭けてもいい、間違いなく左手だった)帽子を抑えながらこちらに向かって来る彼女を、僕はずっと見ていた。瞬きひとつせずに。
僕の世界が音を取り戻したのは、彼女が僕に声を掛けたときだ。それと同時に、何か重要な線がプツンと切れてしまったように、虫たちの合唱が現実の世界の音となって僕の耳に入り込んできた。
「この辺りに本が置いてなかったかしら?大切な本なんだけど、どうも忘れちゃったみたいなの」
僕には彼女が何を言っているのかわからなかった。僕は彼女の声を確かに聞いたのだけれど、その意味が全く分かっていなかった。つまり僕はただ漠然と彼女の声を聞いただけなのだ。
(彼女が何かを言った)僕ははっとなってじっくりと瞬きをしてからやっと口に出した。彼女からみるとそれは不思議な光景だっただろう。
「ごめん、なんだって?」
彼女はおかしなものを見たようにクスリと笑ったが、それは僕に全く不快感というものを与えなかった。世の中にはそういう事ができる人間が存在するのだ。むしろそれは僕に好意的な何かを与えた。世の中にはそういう事ができる人間がいるのだ。
「ここで本を読んでて、忘れちゃったみたいなのよ。大切な本なの」
僕がここに座ったのは、夕方になってだいぶ気温が下がってからだった。だけど僕はそのベンチに置き去りにされた本を見たことがなかった。
「見てないな。夕方からここにいたけど、最初から何もなかったよ」
「そう、あなたは嘘をつくような人じゃないものね。だけど困ったわね」
(あなたは嘘をつくような人じゃないものね)彼女は昔から僕という人間を知っているかのような言い方をした。実際に僕は嘘というものがあまり好きではなかった。そして僕も彼女は昔から僕のことを知っているのだと思った。それは現実的ではなかったが、少なくともその時の僕にはそう感じられた。
「君は昼間からこんな所に座って本を読んでいたのかい?」
一日で肌が黒くなってしまいそうな日光と暑さの中で彼女は本を読んでいたのだろうか。何しろ彼女の肌は際限なく白く透き通っていた。それは水色のシャツの下で光り輝いて見えた。
「まさか、そんな事をしてたら日射病やら熱中症やらで倒れちゃうわよ。昨日の夜にここで本を読んでたのよ。月が綺麗だったから」