彼氏が私に日傘を差してくれなかったので、別の人と結婚しました
ゴールデンウィークの七日間、湊人はずっと莉奈に日傘を差していた。私に差してくれたことは、一度もなかった。
旅行最終日には、帰りの便に二席しか空きがなかったから、自分と莉奈の分だけ先に取ったと言われた。私はキャンセル待ちに回ればいいらしい。
真昼の日差しの下で、一本の日傘に入りながらふざけ合う二人を見ていたら、七年続いたこの関係も、もういいと思えた。
ホテルに戻ると、ちょうど悠真からメッセージが届いた。
【どうせ帰りの便、取れなかっただろ。明日の午後便、一席押さえてある】
しばらく画面を見つめ、そのまま電話をかけた。
「悠真」
「ん?」
「前に言ってたよね。私が結婚したくなったら、自分のことも考えてって。あれ、まだ覚えてる?」
電話の向こうが数秒、静かになった。
「覚えてる」
スマホを握り直した。
「じゃあ、帰ったら婚姻届を出そう」
1
私は一人で先に霞ノ宮市へ戻った。
湊人と莉奈は、せっかく南凪島まで来たのだからと、さらに何日か滞在することにしたらしい。もう二人の予定を気にするつもりはなく、湊人と暮らしていたマンションへ戻ると、まず引っ越し業者へ連絡した。
私は湊人が立ち上げた会社で営業を担当していた。付き合い始めた頃は別々の会社に勤めていたが、数年前に「人手が足りないから手伝ってほしい」と頼まれて転職し、それ以来、仕事でも私生活でもほとんど毎日顔を合わせていた。
その日の夜、莉奈からビデオ通話がかかってきた。画面がつながると、ホテルの部屋にはベッドが二つ並び、その前で湊人がスーツケースを開けていた。
「真帆、聞いてよ。近くのホテル全部埋まってるからって、湊人が一部屋でいいだろって言うの。湊人、私これからシャワーなんだけど。まだ何探してるの?」
「着替え。誰がお前なんか見るかよ」
「何それ。今、私に色気がないって言った?」
莉奈が湊人の服を奪おうと飛びつき、画面が大きく揺れた。やがて天井しか映らなくなったが、二人の笑い声だけはずっと聞こえていた。
「言ってない」
「じゃあ、こっち見てもう一回言ってみなよ」
その先を見る気にはなれず、通話を切った。
十分ほどして、莉奈からボイスメッセージが届いた。
「真帆、本気で怒ってないよね? 近くのホテル、本当に空いてなくてさ。それにお土産代もかかるし、少し節約しようって一部屋にしただけだから。変なふうに考えないでね」
少し離れたところから、湊人の声も入っていた。
「そんなに説明しなくていいだろ。昔から知ってる相手なんだから」
返信はしなかった。
翌朝、引っ越し業者が来る前に荷物を整理していると、玄関収納の下から湿布や消炎剤の入った袋が出てきた。南凪島へ出発する前、湊人のために買ったものだった。
ゴールデンウィーク前日、莉奈から泣きながら電話があり、最近しつこく付きまとってくる男がいると相談された。あの時、湊人は私を車で送っている途中だったが、話を聞くなり路肩へ車を寄せた。
「真帆、悪い。ここから電車で帰って。莉奈のところ行く。あいつ、一人でいるらしいから」
「今から?」
「うん。放っておけないだろ」
私が車を降りると、湊人はそのまま引き返した。あとで聞いたところでは、莉奈につきまとっていた男と揉め、警察署で事情を聞かれたらしい。足首もひねり、旅行へ出る日までサポーターを巻いていた。
私は旅行をやめたほうがいいと言った。
「歩くのもつらいんでしょ。今回はやめようよ」
けれど莉奈は、グループチャットですぐ反対した。
【せっかくのゴールデンウィークだよ? これくらいで中止なんてもったいないって】
結局、予定通り三人で出かけた。
その旅行先も、本来は南凪島ではなかった。私は一か月以上、営業で外回りが続き、肩や首のあたりをひどく日焼けしていたため、今回は日差しの強い場所を避けて、山か温泉地にしようと話していた。湊人も最初は了承していた。
それが莉奈がグループチャットに、
【せっかくなら海行きたくない?】
と書いた日の夜には、行き先が南凪島へ変わっていた。
「ホテルも飛行機もまだ変更できたから」
そう説明する湊人に何を言っても、予約は元に戻らなかった。
玄関に残っていた薬をゴミ袋へ入れた。続けて、一か月以上かけて作った旅行メモや、旅行中に血や薬がついてしまった服もまとめて処分した。
湊人と莉奈が戻ってきたのは、予定より一週間近くあとだった。その日の朝五時過ぎ、湊人からビデオ通話が入った。
「俺と莉奈、六時半に空港着くから迎えに来て。あと、家に置いてある莉奈のUVカットパーカーと帽子も持ってきて。こいつ遊びすぎて、肩の皮までむけてる」
莉奈がすぐ横から顔を出し、ピンク色のご当地キャラクターのぬいぐるみを画面いっぱいに映した。
「真帆、見て! これ探すの大変だったんだから。あなたの彼氏、本当に寝相悪いよ。昨日も布団全部持っていかれたし」
湊人が横から莉奈の腰をつついた。
「今朝、俺の腰に脚乗せてたのは誰だよ」
「それは湊人が布団取ったからでしょ!」
二人がまた笑い始めた。
「予定あるから行けない」
そう言って通話を切った。
午後、湊人が一人でマンションへ戻ってきた。玄関を開けた時から機嫌が悪く、寝室へ入るなり私の荷物が減っていることにも気づいたようだったが、理由を尋ねることはなかった。
「今日なんで迎えに来なかったんだよ。俺が莉奈を家まで送ったんだけど、ずっと自分のせいで真帆が怒ってるんじゃないかって気にしてたぞ。途中で泣きそうになってたし」
ジャケットを椅子へ放り、ネクタイを緩めながら続けた。
「それに、あいつ遊び始めると日焼け止め塗り直すのも忘れるんだから、少しくらい気にしてやればいいだろ。肌弱いの知ってるじゃん。今回なんて肩の皮までむけてるんだぞ」
私は手を止め、数秒湊人を見た。それから襟元をずらすと、肩から鎖骨にかけて旅行前からあった日焼け跡がまだ赤黒く残り、皮がむけた部分もあった。
「ここ、見える?」
湊人の視線は私の肩に落ちたが、数秒もしないうちに外れた。
「もう焼けたものは仕方ないだろ。今さらどうしろっていうんだよ。薬塗ればいいじゃん」
襟を戻し、再び荷物を箱へ詰めた。
2
数日後は、湊人と付き合って七年目の記念日だった。同じ日は、莉奈の誕生日でもある。
仕事を終えて会社を出ると、湊人の車が路肩に止まっていた。車の横に立つ彼の腕には、大きな赤いバラの花束が抱えられている。
思わず足を緩めた。七年間、花が好きだと何度も話してきたのに、湊人は「数日で枯れるものに金を使う意味がわからない」と、一度も自分から買ってくれたことがなかった。だから、その花束を見た時は少しだけ期待した。
けれど私が近づくと、湊人はそのまま横を通り過ぎ、後ろから出てきた莉奈に花束を渡した。
「誕生日おめでとう」
莉奈は目を丸くして花を受け取り、すぐに私と湊人を交互に見た。
「湊人、今日もう一個忘れてない? 真帆との記念日でもあるでしょ。彼女との記念日に、別の女にだけ花渡す彼氏ってどうなの?」
「ああ、忘れてた。真帆、次はちゃんと用意するから」
七年前、霞ノ宮市へ来たばかりの莉奈を一人で誕生日を過ごさせるのがかわいそうで、私から記念日の夕食に誘った。その頃の湊人は、あからさまに不満そうだった。
「俺と真帆の記念日だろ? なんで莉奈まで来るんだよ」
「誕生日なのに一人なんだって。今日だけいいじゃん」
「今日だけだからな」
その「今日だけ」が、いつの間にか毎年になった。店は莉奈が選び、ケーキも莉奈の好きな味になり、プレゼントまで二人分用意されるようになった。今では私と湊人の記念日より、莉奈の誕生日のほうが中心になっていた。
「行こう」
湊人が莉奈のために後部座席のドアを開けた。
その席は、もうずいぶん前から莉奈専用だった。幅広のクッション、アイマスク、小さなブランケット、アロマ用品、サンシェードまで揃い、ドリンクホルダーには彼女が好きな飴も常備されていた。
以前、雪代町から両親が遊びに来た時、三人でこの車に乗って食事へ行こうとしたことがあった。ところが湊人は後部座席を見て、悪びれもせずに言った。
「ここ莉奈がよく使うし、いろいろ置いてあるから動かしたくないんだよね。お父さんたち、悪いけど電車で来てもらえる?」
両親は気にしていないように笑っていた。
その日の車でも、莉奈は当然のように後部座席へ座った。車酔いしやすい私は助手席へ乗ったが、走り出してしばらくすると、シートベルトが胃のあたりに食い込んで気分が悪くなった。
「前にコンビニあったら止まって。水買いたい」
湊人と莉奈は夕食のメニューについて話し込んでいて、返事はなかった。二度目に声をかけて、ようやく湊人がこちらを見た。
「湊人、水買いたいんだけど」
「この辺、止めにくいから少し我慢して」
「わかった」
それから二分もしないうちに、後ろから莉奈が身を乗り出した。
「抹茶ラテ飲みたい」
湊人はすぐナビを操作した。
「いつものアイスで、甘さ控えめ?」
「覚えてるんだ」
「何回買ってると思ってるんだよ」
十分以上遠回りして、莉奈が指定したカフェの前に車を止めた。降りる直前になって、ようやくこちらを見る。
「真帆は?」
「水でいい」
「水ね」
十五分ほどして戻ってきた湊人の手には、抹茶ラテが二つだけあった。一本を私へ差し出したので、水はどうしたのかと聞くと、面倒そうに顎をしゃくった。
「コンビニ、ちょっと歩かないといけなかったから。これ飲めばいいだろ」
窓の外を見ると、コンビニはカフェの隣にあった。渡された抹茶ラテをドリンクホルダーへ置いたままにすると、湊人のほうが先に不機嫌になった。
「またその顔? 今日の店だって、莉奈が真帆のためにわざわざ探してくれたんだから、着いたらずっと不機嫌そうにするのやめてくれよ。周りも気を遣うだろ」
後部座席から手が伸び、莉奈が湊人の腕をつねった。
「真帆に何その言い方。今日は二人の記念日でもあるんでしょ。罰として今日は全部お肉焼いて」
「まだ食うの? 昨日太ったって言ってただろ」
「どこが太ったの?」
莉奈が前へ身を乗り出し、自分の身体を指さすような仕草をした。湊人の耳が目に見えて赤くなった。
「近いって」
「何照れてるの?」
「照れてない」
私は窓の外へ視線を向けた。
店の個室に入って最初に目に入ったのは、壁の飾りだった。
【HAPPY ANNIVERSARY 湊人&莉奈】
足が止まった。
莉奈も気づき、慌てて壁際へ走った。
「待って、これ違う! 予約する時に、誕生日と記念日が同じ日だって説明したから、店の人が勘違いしたんだと思う。ごめん、真帆。今外してもらうから」
飾りを取ろうとした莉奈の腕を、後ろから湊人がつかんだ。
「いいって。もう飾ってあるんだから、このままでいいだろ。わざわざ店の人呼んでやり直させなくていいって」
何も言わず、先に席へ座った。
その日は莉奈が会社の同僚や共通の友人も何人か呼んでいた。あとから来た入社間もない社員たちは、壁の文字を見て、本当に莉奈が湊人の恋人だと思ったらしい。
「三浦さん、おめでとうございます」
女性社員の一人がプレゼントを莉奈へ差し出した。
「え? 私?」
「だって記念日って……」
古株の社員が慌てて横から耳打ちすると、相手は顔を赤くして私へ向き直った。
「す、すみません! 佐伯さんですよね」
「大丈夫です」
近くにいた別の若い社員が、隣の人へ小さな声で話していた。
「私、ずっと黒川社長と三浦さんが付き合ってると思ってました。社長が迎えに来てるの何度も見たし、ランチもよく差し入れてましたよね」
「私も。佐伯さんが彼女だったんだ」
聞こえていないふりをした。
席につくと、莉奈が腕をさすりながら私のほうを見た。
「ここ、冷房直撃してない? ちょっと寒い。真帆のところ、寒くない?」
湊人がすぐこちらを向いた。
「真帆、莉奈と替わって。今日あいつ生理なんだよ。ずっと冷房当たるのきついだろ」
私は昨夜、湊人に自分も今日生理だと話したばかりだった。
「明日たぶん一番重い日だから、あんまり冷える店じゃないといいな」
「じゃあ上着持っていけば?」
確かにそう言われた。
湊人は覚えていないらしい。
「わかった」
席を替えると、冷たい風が首の後ろから服の中へ入り続け、しばらくして下腹部が重く痛み始めた。その時、テーブルの下でスマホが光った。
悠真からだった。
【婚姻届、準備できた。体調戻ったら、都合のいい日に出そう】
顔を上げると、湊人が自分のジャケットを脱ぎ、莉奈の肩へかけていた。
「これ着てろよ」
「湊人は寒くないの?」
「俺は平気」
画面へ視線を戻した。
【うん】
送信した。
3
食事の途中、店と近くのレジャー施設が合同で行っている記念イベントの案内が始まった。最初のゲームはポッキーゲームだった。
説明が終わる前から莉奈は身を乗り出し、そのまま湊人の手を取った。
「私たちやろう。真帆はこういうの嫌いでしょ?」
「やらない」
「ほら」
莉奈が笑い、湊人も「遊びだろ」と言って立ち上がった。
二人が前へ出ると、周囲からすぐ歓声が上がった。
「社長、頑張って!」
「三浦さん、負けないで!」
莉奈がポッキーの片端をくわえ、湊人が反対側から近づいた。最初は二人とも笑っていたが、残りが数センチになる頃には、鼻先が触れそうな距離まで近づいていた。
「もうちょっと!」
「そこまで行ったら最後まで!」
周りの声がさらに大きくなったが、二人とも顔を引かなかった。
次の瞬間、湊人が莉奈の後頭部に手を添え、そのまま唇を重ねた。
周囲から一斉に歓声と拍手が上がり、スマホを向ける人までいた。湊人が離れると、莉奈は少し赤くなった顔で笑った。
「本気で来ると思わなかった」
「そっちが避けなかったんだろ」
「湊人のせいじゃん」
二人の後ろには、さっきの間違った記念ボードがまだ飾られていた。私は席に座ったまま、その様子を見ていた。
イベントの最終賞品は、提携しているアクセサリーブランドのピンクゴールドのリングだった。莉奈がパンフレットを持って戻ってくると、写真を私の前へ差し出した。
「真帆、これ見て。こういうの欲しいって言ってなかった?」
「言ってない。この色、好きじゃないって何回か言ったよ」
莉奈は一瞬止まったあと、すぐに笑った。
「でも実物見たらかわいいかもしれないじゃん。このあと湖で三人一組のカヤックレースもあるんだって。三人で出ようよ。勝てばもらえるし」
「私、水怖い」
断ると、隣で湊人が立ち上がった。
「ライフジャケット着てカヤック乗るだけだろ。泳ぐわけじゃないって。今日莉奈の誕生日なんだから、最後くらい付き合ってやれよ」
「それでも嫌なんだけど」
「大丈夫だって」
付き合い始めた頃、湊人から泳ぎを教えてもらったことがある。プールで何度練習しても上手くできず、私は何度も水を飲んだ。
「真帆、もっと力抜けって」
「無理。沈む」
「俺いるんだから沈まないって」
一時間以上付き合っても、結局まともに泳げなかった。最後には湊人がプールサイドへ腰掛け、笑いながら濡れた私の頭をタオルで乱暴に拭いた。
「もういいよ。なんで謝るんだよ。俺がいる時は、泳げなくても困らないだろ」
その言葉は、ずっと覚えていた。
結局、三人でカヤックレースに参加することになった。
スタッフがライフジャケットを一人ずつ確認し、注意事項を説明した。最初のうちは問題なく進み、湖の中央付近までは他の参加者とほとんど同じ位置にいた。
「湊人、さっき簡単に勝たせすぎたから、今度は邪魔してあげる」
後ろから莉奈が湊人の腕に抱きついた。
「莉奈、やめろって」
止める口調なのに、湊人は笑っていた。
「ほら、漕げないでしょ」
「離せよ」
「嫌」
莉奈が今度はパドルへ手を伸ばし、カヤックが左右に揺れ始めた。私は両側をつかみ、本気でやめるよう声を上げた。
「ちょっと、本当にやめて。ひっくり返るから」
「大丈夫だって」
莉奈は笑ったまま湊人からパドルを奪おうとし、湊人も取り返そうと身体を傾けた。
「莉奈!」
莉奈が反対側へ逃げ、湊人も手を伸ばした。その瞬間、二人の重心が同じ側へ移り、カヤックが大きく傾いた。
身体が投げ出され、頭を船体の縁に強くぶつけた。次に気づいた時には、水の中だった。
冷たい水が鼻と口へ入った。ライフジャケットで身体は浮いていたはずなのに、頭を打ったせいか上下がわからず、何度顔を上げてもすぐ水がかぶさってきた。
必死に腕を動かした。
「湊人……!」
声になっていたかもわからない。
ぼやけた視界の向こうで、湊人が泳いでいるのが見えた。けれど向かっていたのは、私のほうではなかった。
莉奈もライフジャケットを着けて水面に浮いていた。それでも湊人は真っ先に莉奈のところへ行き、腕をつかんで身体を支えた。
「莉奈、大丈夫か!」
それだけは聞こえた気がした。
その後の記憶は途切れている。
あとで聞いた話では、近くにいた救助スタッフが私の様子がおかしいことに気づき、引き上げてくれたらしい。
次に目を覚ましたのは翌日の午後だった。息を吸うたびに胸が痛み、頭も重く、少し身体を動かすだけで吐き気がした。
頭部を打ったあと水を多く吸い込み、肺炎も起こしているため、しばらく入院が必要だと医師から説明された。
病室には湊人と莉奈がいた。
目を開けると、湊人はまず莉奈のほうを見た。
「やっと起きた。先生には命に別状はないって言われたけど、なかなか目を覚まさないから、莉奈が一晩中気にしてたんだぞ」
莉奈もすぐベッドのそばへ来た。
「真帆、大丈夫? もしかして、落ちた時に湊人が私を先に助けたこと、まだ怒ってる? あの時は本人もパニックだっただけだと思う。でも気になるなら、ちゃんと謝らせるから」
莉奈は足先で湊人を軽くつついた。
「ほら、謝って」
湊人はその脚をつかんで横へ押した。
「やめろって。わかったよ」
それからようやくこちらを見た。
「悪かったよ。あの時は周りも見えてなくて、近くにいた莉奈のところへ先に行った。次はちゃんと真帆を先に助けるから。それでいいだろ?」
言い終えると、すぐ莉奈へ向き直った。
「お前も帰って寝ろよ。一晩寝てないんだろ。もう起きたんだから大丈夫だって」
「でも真帆が――」
「帰るぞ」
二人が病室を出ようとしたところで呼び止めた。
「湊人」
「何?」
「別れよう」
湊人の眉間にすぐしわが寄った。
「今ここで別れるとか言ったら、莉奈が全部自分のせいだって思うだろ。真帆、こんな時まで意地張るのやめてくれない?」
呼吸するだけで胸が痛んだ。それでも声は普通に出た。
「意地じゃない。もう終わりにしたい」
「真帆――」
先にナースコールを押した。
「疲れた。もう帰って」
その後の二週間、湊人も莉奈も病院には来なかった。
代わりに悠真が数日休みを取り、そのあとはオンラインで済ませられる仕事を病院近くで片づけながら、一日一度は顔を見せた。医師から注意事項を説明された時には、私より先にスマホへメモしていた。
「そこまでしなくていいよ」
「どうせ真帆、帰ったら半分忘れるだろ」
「失礼」
「事実」
入院している間、会社では休職扱いになっていた。退院してからも湊人の会社へ戻るつもりはなく、総務担当に連絡して退職手続きを進めた。必要な書類は郵送でやり取りし、湊人個人には何も連絡しなかった。
退院後もしばらく自宅で療養していると、ある日、湊人から突然電話がかかってきた。
「だいぶ良くなったんだろ? 明日そっち行くよ。莉奈も近くに買い物行くらしいから、送るついでに寄る」
「いい。莉奈についていって」
電話の向こうが少し静かになった。そのあと、湊人が笑うような声を出した。
「一回溺れたくらいで、ずいぶん聞き分けよくなったな。そんなに効くなら、もっと早く少し痛い目見せとけばよかった」
スマホを握る指に力が入った。
「湊人」
「何?」
「もう連絡しないで」
通話を切った。
その日の午後、必要な書類を持ち、悠真と霞ノ宮市役所へ向かった。
4
婚姻届は事前に記入してあった。市役所では内容を確認してもらって提出し、しばらく待って受理されたことを確認した。
そのあと婚姻届受理証明書を一通申請し、戸籍窓口を出る頃には手元に証明書もあった。
「真帆?」
聞き慣れた声に足が止まった。
振り返ると、別の窓口のほうから湊人と莉奈が歩いてきた。
「二人とも何してるの?」
莉奈が持っていた書類ケースを軽く上げた。
「住民票取りに来ただけ。湊人がちょうど空いてたから付き合ってもらったの」
湊人は莉奈ではなく、私が持っている書類を見ていた。
「真帆は何しに来た?」
答える前に、後ろから悠真が戻ってきた。
「待たせた」
私のバッグを自然に受け取ると、莉奈の表情が変わった。
「真帆、どうして朝倉さんと一緒なの?」
莉奈の横に立っている湊人を見た。
「二人で市役所に来ることに問題があるなら、そっちはどうなの?」
「真帆、俺に腹立ってるなら俺に言えよ。莉奈に当たるな」
「当たってないよ」
「だったら何でそんな言い方するんだよ。あの時は真帆が感情的になってただけだろ。俺はまだ、これで終わったつもりなんてなかった」
湊人は悠真へ視線を移した。
「朝倉さんまで連れてきて、俺に見せつけるつもりだったのか?」
悠真が私の手元から受理証明書を取った。
「もう、その話をする必要はありません」
「何?」
差し出された書類には、私と悠真の名前が並んでいた。湊人は何秒も黙ったままそれを見つめた。
「何これ」
「婚姻届は受理されました。今日から真帆は、俺の妻です」
湊人の顔から少しずつ表情が消えた。やがて急に手を伸ばしたが、悠真は書類を引いた。
「見せて」
「触らないでください」
「偽物だろ。真帆、俺を怒らせるためにこんなのまで用意したのか? 急に他の男と結婚するわけないだろ」
「本物だよ」
「そんなわけない」
悠真が静かに答えた。
「信じられないなら、窓口で確認すればいい」
その言葉に、湊人の手が止まった。
莉奈もようやく口を開いた。
「真帆、怒ってるのはわかるよ。でも結婚は冗談じゃないでしょ? 朝倉さんのこと、本当にわかってるの? 勢いで結婚して、あとで後悔したらどうするの?」
悠真とは雪代町で一緒に育った。小学校から高校までほぼ毎日顔を合わせ、大学も同じ街だった。卒業後、悠真は地方勤務になり、私が湊人と付き合い始めてから連絡は少しずつ減った。
一年前に霞ノ宮市へ戻ってきてからは、また時々会うようになった。
「今日、近くにいるけど乗ってく?」
「残業?」
「終わったら連絡して」
そんなやり取りが増えていた。
悠真が私の肩に手を置くと、湊人の視線がそこへ落ちた。
「手、どけろ」
悠真は動かなかった。
「聞こえなかった?」
「聞こえました」
「じゃあどけろよ」
「真帆が嫌がってないので」
湊人が私を見た。
「真帆、そいつに手どけさせて。見てるの無理」
「夫が私に触って、何か問題でもある?」
言った瞬間、湊人の顔が大きく歪んだ。
「夫って言うなよ。真帆、そいつと離婚してくれよ。俺たち七年も一緒にいたんだぞ。こんな簡単に俺を置いて、他の男と結婚できるのかよ」
莉奈が横から湊人の袖をつかもうとしたが、湊人は腕を引いてその手を避けた。
「俺と莉奈は、真帆が考えてるような関係じゃない。あいつは昔からこういう冗談が通じるタイプだったし、俺も距離感を考えてなかった。それだけなんだ。真帆が本当にいなくなるなんて思ってなかった」
莉奈もすぐ口を挟んだ。
「そうだよ。私たちずっとふざけてただけだよ。真帆が考えすぎなんだって」
二人を見た。
「そう。全部、冗談だったんだね」
悠真が入口のドアを開けた。
「帰ろう。母さん、今日手続きするって知って、スープ作って待ってるから」
「うん」
市役所を出ようとすると、後ろから湊人の声が飛んできた。
「真帆! 本当にそれでいいのかよ!」
足は止めなかった。
車に乗り込み、ドアを閉めた。窓の外では、湊人がまだこちらを見ていた。
5
翌朝、インターホンが鳴った。
ドアを開けると、莉奈が果物の袋を提げて立っていた。目元が少し赤く、ほとんど眠っていないように見えた。
「少し話せる? 昨日のこと」
「いいよ」
部屋へ入ると、莉奈はダイニングテーブルでコーヒーを飲んでいた悠真に気づいた。
「朝倉さん、昨日はどうも。真帆のことで、少し話したくて来ました」
「何ですか?」
「昔から真帆の相談には乗ってきたので、今回のことも気になってて。本当に二人でちゃんと考えて決めたのかなって」
悠真はカップを置いた。
「結婚は俺たち二人で決めたことです。そこは心配しなくて大丈夫です」
「でも、真帆って勢いで決めちゃうところもあるから」
莉奈の笑みが一瞬止まったが、すぐにこちらを向き、私の手を取ろうとした。
「真帆、一回ちゃんと考えて。結婚って、腹を立てた勢いでするものじゃないよ。湊人と七年も付き合ってきたんだよ? 最近いろいろあったのはわかるけど、旅行のこととか、落ちたこととか、それだけで七年間全部否定しなくてもいいじゃん」
手を引いた。
「もう考えたよ。それに、“それだけ”じゃない」
莉奈は一瞬黙り、すぐ別の話を始めた。
「昨日だって、真帆たちが帰ったあと、湊人ずっと市役所の前に座ってたんだよ。私が何言っても動かなかった」
「ずいぶん心配してるんだね」
「そりゃ心配するよ。ついこの前まで真帆の彼氏だったんだし。放っておいて何かあったら、結局真帆だって気にするでしょ? 私はずっと湊人のこと弟みたいに思ってただけなのに、どうして私たちがそういう関係だって決めつけるの?」
その時、もう一度インターホンが鳴った。
ドアを開けると、湊人が立っていた。昨日と同じ服で、襟元は崩れ、顎にはうっすら無精ひげが生えている。
私の肩越しに部屋の奥を見ると、悠真の姿を見つけたところで喉がわずかに動いた。
「真帆、少し二人で話せない?」
「ここでいいよ」
後ろから莉奈も出てきた。
「湊人、ちゃんと話して。真帆も今はまだ怒ってるだけだから、全部説明したら――」
湊人は莉奈の言葉には答えず、ポケットから小さなベルベットの箱を取り出した。ふたを開けると、中にはダイヤのリングが入っていた。
「去年買った。本当はこれでプロポーズするつもりだった」
「だったら、どうしてしなかったの」
「タイミングが見つからなかった。仕事も忙しかったし、真帆もずっと外回りしてただろ。でも本気だった。遊びで買ったわけじゃない」
箱を持つ指に力が入った。
「真帆、俺と帰って。今まで俺が何を間違えたのか言ってくれたら、全部直すから。莉奈との距離が嫌だったなら、それも変える。だから結婚したなんて、もう言わないでくれ。聞くの、本当にきつい」
「帰らない」
話している間、肩口に服が擦れて少しひりつき、無意識に手を当てた。
それに気づいた悠真が立ち上がった。
「また痛む? 薬塗っとく?」
「少しだけ。あとでいいよ」
「今やっとこう。すぐ終わるから」
悠真がテーブルに置いてあった日焼け用の薬を取り、私は背中を向けた。襟元を少しずらすと、まだ赤黒い跡が薄く残っている。
薬を塗り終えた悠真が、ふたを閉めながら湊人を見た。
「この日焼け、いつできたか知ってますか」
湊人は答えなかった。
「南凪島へ行く前です。ここ一か月、あなたの会社の案件で外回りを続けてた。最近増えた契約の中にも、真帆が取ってきたものがいくつもあります」
湊人の目が私へ向いた。
「真帆、それ……」
「前にも見せたよ」
湊人の表情が止まった。
悠真は薬をテーブルへ戻した。
「おかゆ冷めるよ」
席へ戻り、器を持ち上げる前に二人を見た。
「そうだ。式は来月にしたから、もし来たかったら時間送るよ」
湊人は口を開いたが、言葉は出なかった。
代わりに莉奈が声を上げた。
「真帆、そこまでしなくてもよくない? 湊人だって今までいろいろしてくれたでしょ。それ全部忘れたの? こんな状態の人に、自分の結婚式に来てなんて言う?」
湊人が手を上げて制した。
「もういい。莉奈、もういいって」
リングケースを閉じてポケットへ戻し、そのまま玄関へ向かった。
「行こう」
莉奈は何か言いたそうに私を見たが、結局そのまま湊人を追った。
ドアが閉まったあと、冷めかけた朝食を続けた。
6
週末、両親が雪代町からやって来た。
地元のお菓子や漬物、それにご祝儀袋まで抱えていた。意外だったのは、その後ろに莉奈もいたことだった。
莉奈は早くに母親を亡くし、父親も再婚後は別の場所で暮らしていた。高校から大学にかけて金銭的に厳しかった時期には、両親もかなり助けていた。
大学の学費の一部や資格試験の費用、霞ノ宮市へ出てきたばかりの頃の家賃まで支援していた。今も、莉奈が通っている資格講座の費用を一部負担する約束になっている。
母は部屋へ入るなり、悠真の手を取ってしばらく顔を見ていた。
「小さい頃から一緒に遊んでた二人がねえ。結婚なんて大事なこと、決めてから知らせるんだから」
「ごめん」
「あなたは昔からそう。大事なことほど自分で決めてから言うんだから」
母はご祝儀袋を悠真へ差し出した。
「悠真くんも、急だったから大変だったでしょう。今度、悠真くんのお母さんにも改めてご挨拶しないとね」
悠真は両手で受け取った。
「俺のほうが急ぎすぎました。本当なら先に雪代町へ伺うべきでした」
「そんなにかしこまらなくていいの。昔と変わらないね」
母が笑うと、父も隣で笑った。
穏やかだった空気が変わったのは、莉奈がキッチンから果物を持って戻ってきた時だった。
「おばさん、真帆を責めないでください。今回のこと、私にも原因があるんです」
母が振り返った。
「何の話?」
莉奈は皿をテーブルへ置き、少し言葉を選ぶように視線を落とした。
「私も、湊人との距離感を間違えてたところはあります。二人はいずれ結婚すると思ってたし、湊人がどこまで私の冗談に乗るのか、確かめるみたいなことをしてしまって……。調子に乗ってたのは認めます。でも、本気で湊人を奪うつもりなんてなかったんです」
父はゆっくりカップを置いた。
「その結果、二人で旅行して同じ部屋に泊まったのか?」
莉奈の表情が少し硬くなった。
「あれは急に延泊したから、ホテルが本当に空いてなくて……」
悠真が窓際から口を挟んだ。
「店でキスしたことも、船の上でふざけたことも、その延長だったんですか」
「朝倉さんには関係ないです」
「船?」
母が勢いよくこちらを見た。
莉奈がすぐに答えた。
「それは本当に事故です。私だって水に落ちたんです!」
母の顔色が変わり、父もこちらを向いた。
「真帆。入院したの、それが原因なのか?」
少し迷ったあと、うなずいた。
「うん」
「どういう事故だったの?」
悠真が代わりに短く説明した。
「カヤックがひっくり返って、真帆は頭を打ちました。水もかなり吸って、肺炎を起こして二週間入院してます」
母の顔から血の気が引いた。
「二週間? そんな話、一言も聞いてない」
「もう大丈夫だよ。心配させたくなかったから」
母の手が震えた。
父はしばらく黙ってから、莉奈を見た。
「真帆が水を怖がるのは知ってたんだな」
莉奈は視線を落とした。
「……知ってました。でも、そこまで危ないと思ってなくて」
「事故のあと、病院には?」
「最初は行きました。そのあとも行こうとは思ってたんですけど、仕事もあって……」
父の表情が変わった。
「真帆が二週間入院してる間、一度も来なかったのか」
莉奈は答えなかった。
その沈黙を見て、父は低い声で続けた。
「莉奈。まず真帆に謝りなさい。俺たちがお前を助けてきたのは、真帆がお前を家族みたいに思っていたからだ。俺たちもそういうつもりで接してきた」
「でも――」
「真帆が水を怖がるのを知っていて船の上でふざけ、事故のあと病院にも来なかった。それでも全部、真帆のためだったって言えるのか」
莉奈が唇を噛んだ。
「私は……」
父はそれ以上待たなかった。
「もう、うちには来なくていい。今通ってる資格講座の費用も、残りは自分で出しなさい」
莉奈の目から涙が落ちた。
「こんなことで、今までのことまで全部なかったことにするんですか?」
「こんなこと?」
父の声が少しだけ強くなった。
「真帆は、その事故で二週間入院したんだ」
莉奈は何も言えなくなった。
しばらくその場に立ち尽くしたあと、バッグを取った。
「そこまで疑うなら、もういいです。私と湊人が付き合うことなんて絶対にありませんから。もう心配しなくていいです」
玄関のドアが強く閉まった。
部屋が静かになった。
母はしばらく動かなかったが、やがて私の隣へ座った。
「来月の式、二人の好きなようにやりなさい。ちゃんと見に行くから」
「うん」
7
結婚式は月末にした。
悠真が選んだのは、霞ノ宮市の郊外にある古い洋館だった。赤レンガの壁には蔦が這い、庭には何本か金木犀が植えられている。
ちょうど花の時期で、風が吹くたび淡い香りが庭を流れていった。招待したのは、双方の親族と親しい友人だけだった。
当日、悠真の母は早い時間から来ていた。黒留袖を着て、髪にはもう白いものが混じっている。悠真の父親は早くに亡くなり、それからずっと一人で暮らしてきた。
式が始まる少し前、控室へ呼ばれた。
「真帆ちゃん、ちょっといい?」
「はい」
悠真の母は小さなケースを開いた。中には真珠のネックレスが入っていた。
「これ、私が結婚した時に主人にもらったものなの。今日はこれ使って」
「大事なものじゃないですか」
「大事だから使ってほしいの。少し髪上げてくれる?」
「はい」
私の後ろへ回り、首にかけてくれた。留め具が小さく音を立て、鏡越しに目が合った。
「似合う。気に入ったなら、そのまま持っていてもいいからね」
「それはさすがに――」
「悠真には内緒」
そう言って、小さく笑った。
式が始まり、洋館に併設されたチャペルで悠真と指輪を交換した。私の指にリングを通す時、悠真の手はほとんど震えていなかった。
「緊張してないの?」
小声で聞くと、悠真も同じくらい声を落とした。
「してる。真帆のほうが平気そうだけど」
「私もしてる」
「全然見えない」
指輪をはめ終えると、悠真が軽く私の手を握った。
披露宴が始まる前、スタッフが悠真のところへ来た。
「朝倉さま。入口にお客様が一人いらっしゃるんですが、中には入らず、ずっと外にいらっしゃって」
悠真がこちらを見た。
「行く?」
「一緒に行く」
二人でエントランスへ向かった。
ガラス扉は少しだけ開いていた。その向こう、金木犀の木の下に濃い色のスーツを着た湊人が立っていた。
ネクタイは少し曲がり、入口の柱にもたれている。ポケットから煙草を一本取り出したものの、しばらく指先で弄んだあと、結局火をつけずに箱へ戻した。
私は扉の内側から見ていたが、外へ出ることはしなかった。
しばらくすると、一台のタクシーが止まった。
莉奈が降り、湊人を見つけるとすぐ近づいた。
「どうして入らないの? 真帆が呼んだんだから席もあるでしょ。行こうよ」
莉奈が袖へ手を伸ばすと、湊人は腕を引いた。行き場を失った手が、その場で止まった。
「何? 入ろうよ。もう真帆だって結婚したんだし、私たちのことなんて気にしてないって」
湊人は何も答えなかった。
莉奈がもう一度促すと、ようやく顔を向け、数秒黙ったまま彼女を見た。
「莉奈、帰って」
莉奈の表情が止まった。
「どういう意味? 私、一緒に入ろうと思って来たんだけど」
「帰って」
「湊人」
チャペルから流れてきた音楽が、エントランスまで聞こえた。
湊人はスーツの内ポケットからベルベットのリングケースを取り出した。あの日、私の部屋へ持ってきたものだった。
そのまま受付へ歩いていき、スタッフにリングケースを差し出した。
「これ、真帆に渡してください」
スタッフが戸惑いながら受け取ると、湊人はそれ以上何も言わずに背を向けた。
「湊人、待って!」
莉奈が数歩追いかけたが、湊人は止まらなかった。莉奈もやがて足を止め、少し離れた場所からその背中を見送った。
しばらくすると、彼女も一人で門の外へ歩いていった。
私はガラス扉を閉めた。
悠真が隣に立っていた。
「外、行く?」
「行かない」
「わかった。じゃあ戻ろう」
「うん」
披露宴会場から、誰かが私たちを呼ぶ声が聞こえた。
二人で中へ戻った。
8
結婚式から一週間ほど経った頃、以前の会社で仲のよかった同僚からメッセージが届いた。
【これ、真帆にも一応送っておくね】
添付されていたのは、社内に一斉送信されたメールのスクリーンショットだった。
湊人は手元の事業を共同経営者に引き継ぎ、代表取締役を退任したらしい。そのまま霞ノ宮市も離れたと書かれていたが、今後の行き先には触れられていなかった。
共通の知人がLINEを送っても返事はなく、以前使っていた電話番号もほどなく使われなくなった。
三か月後の深夜、登録していない番号から電話がかかってきた。
画面に表示された番号には見覚えがあった。
莉奈だ。
「真帆、湊人がいなくなった。会社の人も、辞めてから誰も会ってないって。電話番号も変えて、部屋も引き払ってる」
「そう」
「そう、じゃないよ。真帆のせいで出ていったんでしょ? どこにいるか知らないの?」
「知らない。本当に知らないよ」
「でも湊人、ずっと真帆のこと――」
ベランダへ出ると、遠くの高架を車の灯りが流れていた。
「一番仲がよかったの、莉奈でしょ。莉奈にも何も言ってないなら、どうして私に言うと思うの?」
電話の向こうが静かになった。
「それは……」
「もう寝るから」
「真帆、待って」
通話を切り、そのまま番号をブロックした。
寝室へ戻ると、悠真が目を覚ましていた。布団の端を少し持ち上げる。
「寒くない? 戻ってくれば」
「大丈夫。今戻る」
ベッドへ入ると、悠真が私のほうまで布団を掛け直した。
「電話?」
「うん。仕事じゃないよ」
「そっか」
それ以上は聞かなかった。しばらくすると、また規則正しい寝息が聞こえてきた。
その後も、以前の同僚や共通の知人から、時々湊人の噂を耳にした。
南の小さな海辺の街へ移り、自分で会社を経営するのはやめて、普通の会社で営業職として働いているらしい。接待の多い仕事らしく、胃を悪くして二度ほど入院したとも聞いた。
以前の同僚が、出張先の居酒屋で偶然会ったこともあった。
その人があとで話してくれた。
「かなり痩せてたよ。最初、黒川だってわからなかった。白髪も増えてて、店の奥で一人で飲んでた」
「そんなに?」
「うん。声かけたら、しばらくこっち見てからやっと気づいた」
同僚が近況を聞くと、湊人は「まあまあ」とだけ答えたらしい。仕事についても「普通」としか言わず、新しい恋人がいるのかと聞かれると、首を横に振った。
残っていた酒を飲み終えると、それ以上長居せず、会計をして店を出たという。
その後、湊人が誰かと付き合っているという話は聞かなかった。
莉奈は霞ノ宮市に残った。何度か転職し、何人かと付き合ったらしいが、どれも長くは続かなかった。
三十歳の誕生日には、SNSへ写真のない短い投稿をしていた。
【結局、今年もひとり。】
二日ほどで、その投稿も消えた。
そんな話を耳にした頃、私は庭で花に水をやっていた。
結婚してから、悠真と小さな庭付きの家を買った。庭の隅には悠真が金木犀を一本植え、その横には自分で簡単な棚まで作り、来年の春には葡萄も育ててみたいと言っている。
私は反対側にバラと紫陽花を植えた。
その年、最初に咲いたバラは、少し暖かみのあるオレンジ色だった。何枚かの花びらは日差しで少しだけ縁が丸まっていたが、次々につぼみが開いていた。
夕方、玄関の音がした。
仕事から帰ってきた悠真が、ジャケットを腕にかけたまま庭へ入ってきた。
「ただいま」
「おかえり」
悠真は私の手からじょうろを受け取った。
「今日どうだった?」
「普通」
「晩ごはん、何食べたい?」
「何でもいい。悠真が決めて」
そう答えると、悠真が少し困ったように笑った。
「昨日も俺が決めたんだけど」
「今日もお願い」
「はいはい」
遠くから花火の音が聞こえ、二人で空を見上げた。近くで夏祭りでもやっているのかもしれない。
最初の花火が上がった瞬間、庭が一度だけ明るくなった。壁際の金木犀はまだ花をつけていなかったが、新しく伸びた葉が夜風に揺れていた。
悠真がじょうろを地面へ置いた。
「中入ろう。ちょっと涼しくなってきた」
「うん」
二人で家の中へ戻った。
(完)




