第八章「境界線」
森の奥は、異様な静けさに包まれていた。
風が止まっている。
音がない。
「……おかしい」
ルミナが小さく呟く。
カイゼルも、すでに気づいていた。
気配がある。
だが――
重すぎる。
まるで空間そのものが歪んでいるような圧。
「来る」
その瞬間。
地面が揺れた。
轟音。
木々が軋み、裂ける。
現れたのは――
異形。
低級魔物とは明らかに違う。
黒い体躯。
歪んだ四肢。
濁った魔力が、全身から溢れている。
「……強い」
ルミナの声が震える。
それは本能的な恐怖。
だが、カイゼルは一歩前に出る。
「下がってろ」
低く言う。
「でも――」
「いいから」
振り返らない。
ただ、前を見る。
その背中が――
あまりにも遠い。
魔物が咆哮する。
空気が震える。
次の瞬間。
突進。
速い。
だが――
カイゼルの方が速い。
踏み込む。
斬る。
――弾かれる。
「……っ」
手応えがない。
硬い。
それだけじゃない。
再生している。
傷が、瞬時に閉じる。
「……面倒だな」
感情のない声。
再び突進。
回避。
斬撃。
無効。
繰り返し。
「カイゼル!」
ルミナが叫ぶ。
「任せろ」
だがその声に――
温度がない。
ただの事実。
ただの処理。
(……違う)
ルミナの胸が締めつけられる。
(このままだと……)
魔物の攻撃が迫る。
カイゼルは受ける。
――踏みとどまる。
だが。
地面が割れる。
「……邪魔だ」
その一言。
次の瞬間。
空気が変わった。
魔力が膨れ上がる。
制御されていない。
溢れる。
「カイゼル……?」
ルミナの声が揺れる。
彼の背中。
そこから感じるものが――
違う。
人ではない。
「……足りない」
カイゼルが呟く。
「こんなものじゃ」
声が低い。
重い。
「足りない」
その瞬間。
彼の瞳が、変わる。
光が消える。
代わりに――
深い闇。
「……っ!」
ルミナが息を呑む。
魔物が突っ込む。
だが――
カイゼルは動かない。
ただ、立つ。
そして。
――消える。
次の瞬間。
魔物の背後。
拳。
叩き込む。
衝撃。
空間が歪む。
魔物の身体が吹き飛ぶ。
木々を薙ぎ倒しながら。
「……は?」
ルミナの声が漏れる。
だが終わらない。
カイゼルが追う。
速い。
見えない。
斬る。
殴る。
壊す。
完全な暴力。
「……違う」
ルミナが一歩踏み出す。
「それじゃ……ダメ」
だが届かない。
カイゼルは止まらない。
魔物はすでに動かない。
だが――
攻撃が止まらない。
「カイゼル!!」
叫ぶ。
届かない。
(……このままじゃ)
理解する。
これは覚醒じゃない。
暴走。
完全に“境界”を越えている。
「やめて……!」
走る。
怖い。
それでも止まらない。
「やめて!!」
背中に手を伸ばす。
触れる。
その瞬間。
――凍るような感覚。
冷たい。
深い。
底の見えない闇。
「……誰だ」
カイゼルの声。
振り返る。
その目。
別人。
「……カイゼル」
名前を呼ぶ。
震えながら。
「戻ってきて……」
その言葉。
一瞬だけ。
ほんのわずかに。
瞳が揺れる。
だが――
「……必要ない」
冷たい声。
「弱いものは、いらない」
その一言。
ルミナの胸が締めつけられる。
(……違う)
それは彼じゃない。
「違うよ」
一歩、近づく。
恐怖を押し殺して。
「それは、あなたじゃない」
「……」
沈黙。
だが、圧は消えない。
「あなたは――」
言葉を選ばない。
まっすぐに。
「優しい人だよ」
その瞬間。
空気が揺れる。
ほんの一瞬。
確かに。
「……違う」
だが否定する。
「俺は」
言葉が止まる。
続かない。
「……分からない」
初めて。
迷いが出る。
ルミナは、もう一歩踏み込む。
そして――
抱きしめた。
「っ……!」
驚き。
だが、離れない。
「大丈夫」
震えながらも、強く。
「私は、ここにいる」
その温もり。
確かな感触。
「ひとりじゃない」
その言葉。
何度も、何度も。
重ねる。
「……」
沈黙。
長い、長い時間。
そして。
ゆっくりと。
カイゼルの力が抜ける。
「……ルミナ」
名前が、戻る。
瞳に、わずかに光が戻る。
「……ああ」
小さく、息を吐く。
魔力が収まる。
静寂が戻る。
ルミナは、ゆっくりと離れる。
だが手は離さない。
「……戻ってきた?」
不安な声。
カイゼルは少しだけ目を伏せる。
「……分からない」
正直な答え。
だが。
「でも」
ルミナを見る。
「お前がいる」
それだけで。
「……戻れる気がする」
ルミナの目が揺れる。
そして、笑う。
「うん」
小さく、でも確かに。
その瞬間。
境界線は、越えなかった。
人であること。
異端であること。
その狭間で――
彼は、まだ“こちら側”にいる。




