電気の生き物
線香花火のように輝いて、瞬きながら進んでいる。はじけろ、はじけろ。輝け。
真上から覗いてみる。それはミミズのよう。にょろにょろと、ぐるぐると回っている。
それはひとつの円の中。あるいは、ギザギザな足の上。何かしらの導線の上をその光が、輝きが進む。
あるときは、後ろに進んでいるかもしれない。同じ場所にたどり着くかもしれない。でもその光は進んでいる。全く同じ場所を、導線に沿って。
内側から除いてみよう。左右には堀。登るのも、何もないところを進むのも一苦労。自分が登った先に、更に壁があることなんて、全く同じところに戻ってしまうなんて、不思議じゃない。
じゃあ、突きつけられるように前に進んでいくしかないだろう。幸い、自分以外の人はいない。誰かが追ってくることもない。ただ一人で、道を進み続けるのだ。
どうして、進まなければいけないのか。同じことを繰り返していると、同じ道がやって来ると、どうしても現状を変えたくなってくる。理不尽な気持ちを持って、非日常に進むことさえ厭わないのかもしれない。非日常に憧れ、下らない毎日を嫌がる。そのために変な行動をする。
一人で走るっていうのはそういうこと。じゃあ、他に人が居たらどうなるんだろう。
上から眺めよう。道は交差する。あるいは頭が見えている。干渉しあう。弾けて、ぶつかって、痛い思いをする。それでも上から眺める限りにおいては、輝きが多くなったというだけだ。
内側から見てみよう。全力で走ると、他の人とぶつかってしまう。押し退けられて、とぼとぼ歩く。他の人は自分とどう違うのだろう?同じ導線を進んでいるのかも?と考えてしまう。そのようなことはありはしない。
無数の交錯が光るなかで、自分の導線を踏み外すことは何も不思議ではない。ぶつかる回数は、人と関わる回数の度に増えていく。前を向いてるのか、後ろを進んでいるのか、全くわからない代わりに、今までと違った道に行くのが容易になっていく。それが間違ったものだとしても。
だから、もしかしたら皆と同じ導線を繰り返そうとして嫌になる孤独な人も現れる。同じ道を進んでいる人なんていないのに。だれもが孤独であるのに。だから安心して周りと一緒に進め、という訳ではない。
孤独であることの意味は、繰り返しの自分を変えようとする負の動機にある。複数の意味は、人と衝突する、前を進めなくなる負の可能性にある。
繰り返しを受け入れねばならない。人とぶつかっても、前に進まなければならない。後退しても、迷子になっても、前を見つけて進むべきである。
そうすると、前のめりになった過激な光に生まれ変わるだろう。
他の人から見たら、どう映るだろう。
強くぶつかってくる困る人、周りに注意が向かない人、たまに都合のいい方向を見つけてくれる人。
その距離は一定の空欄があるのだろう。
人と衝突するのが嫌かもしれない。どれが正しい道か考えるのが億劫かもしれない。けれど、一人で道を踏み外すよりはぶつかりにいった方がいいのか。
自分の導線はなんだろう。誤った導線は何が恐ろしいのだろう。丸くてギザギザして、常に周りに怯え、光が小さくなっていくものかもしれない。




