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メモリーループ番外編 第一章 二神の舞姫

 舞を舞うのは好きだった


 最初はただ飛び跳ねたり体を好きに動かすだけで


 到底舞とも呼べないものだったけれど


 そのうち、両親がつけてくれた舞の師匠から習うようになって


 辛い事は沢山あったけれど


 時間を作っては習った舞を舞うのは本当に――


 でも――



 いつからか、嫌いになった


 あれほど好きだった舞が



 流石は妹君ですわね――


 それに比べて、姉君は――


 負けたくないが、いつしか憎らしさに変わった


 好手敵だったものが、憎い相手に変わった



 いつしか、踊ることを止めた


 なのに、そんな私が選ばれてしまった


 ただ、長姫だったというだけで……



 だからほら、見たことか



 分不相応な役目を貰った落ちこぼれの末路は




 場が静まり返る。

 ざわざわというざわめきすら、消えて久しい。


 カランと音を立てて床に転がった扇。

 それを持っていた相手は、その場に佇む。


 いつの間にか音楽が止まり、周囲で踊っていた者達すらも動きを止めていた。


 失敗だ――


 誰の頭にも、そんな言葉が浮かぶ。


 そう、失敗である。


 十二の演目のうち、第一演目、第三演目、第六演目、第十二演目の他、この第九演目が五大目玉と呼ばれる代物だった。


 選考が厳しい中でも、この五つだけは舞手や弾き手が高位の者達から選ばれる。

 それこそ、国の威信をかけての披露目の場。


 しかし今、その第九演目で主役となる巫女舞を踊る姫君の手から扇が離れ、床へと転がり落ちた。


 完璧に踊りきらなければならない舞台で、無様に転がり落ちた扇。

 まるでそれがその姫と国の姿を現すかのように惨めな姿を晒す。


 いや、最も惨めなのは舞手である姫君である。


 多くの者達がその役目を望み、そして破れていった。

 その中で幸運にも役目を得た姫君が今、失敗した。


 このような大舞台で。

 本来なら、その場で舌を噛んで果ててしまいたい程の恥辱と屈辱だろう。


 だが、彼女は卒倒するわけでもなく、ただその場に立ち尽くす。

 顔色は青を通り越して白くなり、微動だにせずにその扇を見つめている。


 弾き手も、他の舞手達もただ彼女を見守る。

 フォローに動く者も、場を繋ぐ者も居ない。


 観客達も固唾を呑んで見守る。


 どうする?どうしたらいい?どうするつもりだろう?


 誰かが、クスっと笑う。

 それにつられる様に、あちこちから細波の様に笑い声が増えていく。

 それは好意的なものでなく、明らかにその失敗を嘲笑するものだ。


 同情する者、好奇心を露わにする者、どうして良いか分からぬ者。


 張り詰めた緊張は更に研ぎ澄まされ、立ち尽くす姫君を貫いていく。



「まずいな」


 様子を見守っていた明睡が頭の中で素早く場を納める手段を考える。

 早くしなければ、細波は津波となってかの姫君を襲うだろう。

 そうなれば、かの姫君の祖国が黙って居ない。


 だが、弾き手も他の舞手も手を止めてしまった今、フォローにまわる者が居ない。

 せめて、姫君が動いてくれれば。


 一方――、それを会場の隅で見つめていた者達が居た。


「一体どうしたのかしら?」

「――どうやら、主役の舞姫が扇を落としたようです」


 つまり、失敗したという事だ。

 紫蘭の問いに素早く答えた来雅だったが、内心は慌てていた。

 騒ぎを聞き付けた紫蘭がさっさと中に入ってしまった為、来雅は止める間も無く後を追い掛ける羽目となった。


 というか、この会場には浩国の関係者達が居る。

 ここからは観客達で死角になっていて見えないだろうが、仮にも高い位置にある露台に座している。

 向きや場所を変えれば、見つかる恐れもあった。


 しかし戻ろうと促しても、紫蘭は動かない。


「紫蘭様、どうか」

「……」


 舞台で全く動かない姫君が紫蘭の所からでもよく見える。

 誰も動かない。

 誰も、フォローに走らない。


 駄目だ、あのままでは不味い。

 それに流れが、あの姫君を嘲笑うものへと変わりつつある。

 このまま場の空気が定まれば、交流を深めるなどという事態どころか国際問題になりかねない。


「ならば、強制的に変えるまで――」

「紫蘭様?」


 訝しげに声をかける来雅に、紫蘭は素早く質問した。


「あの演目で舞われていた舞の名前を教えて下さい」

「え?」


 突然の質問にキョトンとする来雅に、紫蘭は先程よりも強い口調で聞く。


「え、えっと、第九演目での舞は『豊楽の舞』ですっ」

「豊楽の舞――ああ、であれば大丈夫。失敗したのはどの部分か分かりますか?」

「そ、それは」

「……弾き手に聞くしかありませんね」

「っ?!紫蘭様っ?!」


 素早く走り出す紫蘭に、来雅が慌てて手を伸ばす。

 と、その手が紫蘭の髪に触れかけた所で前を行く少女が立ち止まった。


「流石に――素顔を晒すのはまずいか」


 ここでようやく紫蘭は自分の素性に思い至る。

 今の自分は下女として匿われている身。

 それが堂々と、他国の使者達の居る前で顔を出せば大騒ぎになるだろう。

 国の中には浩国王妃を知る者達も居るだろうし、何よりも浩国の関係者達も居る。


 だが、だからといって何もしないでいれば更に事は深刻になる。

 それに――だ。

 顔を出せば大騒ぎになるという事は、出さなければ良いという事でもある。

 紫蘭は覚悟を決めると、来雅の耳元で囁いた。


「――へ?」

「急いで、これ以上時間が経てばかの姫も、凪国も面倒な事になる」


 その言葉に、来雅はすぐさま自分の部下にある物を取ってこさせる。

 それは舞台裏に予備として置かれていた代物だった。


 素早く受け取った紫蘭に来雅は嫌な予感がした。


「あの、何を」

「あら?気づかないですか?」


 ふふっと楽しそうに微笑むと、紫蘭はあっという間に身支度を調えた。

 そして顔を隠すヴェールを手に、自分の荷物を持たせた来雅へと笑いかけた。


「淀みは動かないから出来るもの。だから、動かしてきますね」


 そして、紫蘭は走り出した――。




 体が動かない。

 頭がぼんやりする。


 クスクスという笑い声も、よく聞えなくなってきた。


 どうしたら良いのだろう?


 分からない、分からない、分からない。


 失敗してしまった。

 こんな大舞台で。

 国の威信をかけた、舞台で。


 大勢の前で、恥をかいた。

 いや、国の威信を貶めた。


 それを行なったのは、国の長姫たる自分。

 これで国は侮られる。


 祖国は大いに嘆く。


 やはり、妹姫様を出せば良かった――と


 自分だって好きで舞姫の役目を頂いたわけではない!!


 あれの婚約者だからと押付けられただけだ!!


 その婚約の話さえ、本来ならあり得ないのだ。


 自分があれの婚約者?


 小国の姫の自分が、大国の王の妃候補?


 それは妹の筈でしょう?


 落ちこぼれの姉にそんな話が来るわけがないでしょう?


 なのに、どうして、どうして……


 好きだった舞


 でも、それさえも妹に負けて以来、自分は舞う事を止めた


 けれど決まってしまったからには仕方が無くて、必死に練習して……


 なのに、失敗した


 国の面汚し


 国の誇りを穢した姫


 国に迷惑がかかる


 祖国に迷惑をかけてしまった――


 もう、消えてしまいたい――


 ああ、でもこれでやっぱり駄目だって事で……婚約話も無くなるかもしれない――


 自嘲の笑みを浮かべ、彼女の意識が急速に薄れかけた時だった。


 ビィィンッと琴の音が響く。

 それが、場の空気を切り裂いた。


 観客達が、露台に並ぶ使者達が、凪国上層部が、舞台裏の舞手や弾き手達が。


 そして、舞台上の舞手達、弾き手達が。


 鳴らされた琴の弾き手を見る。

 その隣に立つ一神の存在に気づいた。


 あれは誰?


 頭からヴェールを被ったその存在は、舞手の衣装を身に纏っていた。

 といっても、煌びやかさも華麗さもなく、無地の地味な代物だ。


 確か第二演目で、女の民役の舞手が身に纏っていた服と同じ物。


 それは、この華やかさと豊かさを示す舞には似つかわしくないばかりか、華麗なる衣装を身に纏う舞手達の中では酷く霞んでしまうといってもいい。


 しかし――何故だろう?


 誰もが、目を離せなかった。


 静寂の中で、圧倒的な存在感でもって場を支配する。


 一歩足を踏み出す。

 足首を飾る鈴の付いた足環が涼やかな音を鳴らす。

 更に一歩、一歩と進む。


 気づけば、すぐ傍に立っていた。

 みっともなく立ち尽くす、自分の前に。


 優雅な所作でもって傅き、その手が床に転がった扇を掬い上げる。


 かと思えば、そっと、捧げるように彼女の前に差し出された。


 固唾を呑み見守る観客達。

 差し出された扇を前に、彼女は微動だに出来ない。


 しかし差し出された扇は、更に上前へと押し上げられる。


 手を――


 ヴェールの向こうで、そう唇が動いたのが見えた気がした。

 手を伸ばし、扇を持つ。


 そしてゆっくりとそれを、掲げた。


 何故――。

 まるで、操られるように、それをしなければ――という気持ちにかられて。


 そっと扇で顔を隠す。


 それを合図に、再び琴の音が響く。


 扇を捧げたその存在が立ち上がり、強く地面を踏み鳴らした。



 かき鳴らされる琴の音。

 それにあわせて靡く領巾。

 裾が華麗に踊り、袖が宙を撫でる。


 月下に照らされた海国後宮の中庭で、一神の舞手が思うままに舞っていた。


 誰に見せるわけでもなく、ただ信頼おける侍女の琴の音にあわせて。

 彼女の琴の音は好きだ。

 優しくて、温かくて。

 

 気持ちよく舞わせてくれる。


 そうして最後の音が消えた頃、月華の舞姫は静かに腕を降ろした。

 と同時に、わぁっと場が湧き上がる。

 あちこちから拍手が響き、感嘆の溜め息が漏らされた。


「……楓々」

「王妃様、分かりきっていた事です」


 海国王妃付きの侍女ーー楓々はとっくに気づいていた。

 舞に夢中になり一種のトランス状態に入っていた海国王妃ーー紅玉は気づかなかったが、彼らは少しずつ周囲を囲むように近づいてきた。


 まるで蜜に引き寄せられる蝶のようにーー。


 後宮の花々ーー男妃達の中でも、四妃とその側近達が夢見るような眼差しを紅玉へと向けている事に楓々は溜め息をついた。


 まあ、そうなっても仕方が無いが。


 一方、紅玉は恥ずかしさの余り顔を赤らめ俯いた。


 たいして上手くもない舞を、それも思いつきの赴くままに踊っていた滅茶苦茶な舞とも呼べないものを見られてしまった。

 それも、自分よりも遙かに素晴らしい舞を舞う男妃達に。


 特に四妃ーーといっても、現在藍銅は凪国に行っているのでここに居るのは貴妃、徳妃、賢妃の三神だがーーと、その側近達は舞を始め歌舞音曲、芸事にも広く優れている。

 その舞は黄金の山と引き替えにしても一目見たいと切望される程のものだ。


 そんな優れた舞手でもある彼らに、見られた。

 とんでもなく稚拙な、舞とも言えないそれを。


 あわあわと内心恐慌状態に陥る主の考えが何となく読めた楓々は、とりあえず何も言わなかった。


「わ、笑いたければ笑えばいいわ」


 と、何も言わなかったら王妃様がそう言ってその場に蹲った。

 どうやら走って逃げるという考えも浮かばなかったらしい。


 そんな姿に、男妃達の庇護欲は激しくかき立てられた。

 抱き締めたいーー。


 けれど、主である貴妃、徳妃、賢妃の黒い笑顔に他の側近達はそそくさと距離を取った。


「王妃様、とても素敵な舞でした」

「下手な気遣いはいらないわ」


 後宮一の舞手が何を言うのか。


「気遣いなんかじゃないよ王妃様!あ、楓々の琴の音もすっごく素敵だったよ!流石はボクの恋神!」

「……」


 以前のように「なわけないです」と言わないだけマシなのか。

 徳妃はあえて否定の言葉を口にしない楓々に飛びついた。


「徳妃の言うとおりですよ、王妃様。ああ、あのような素晴らしい舞を直接目に出来た私達はなんと幸運なことでしょう」

「そうそう!もう最高!」


 と、後宮内の中でもとりわけ秀でた舞手三神に褒め称えられた紅玉は、ジト目で彼らを見た。

 しかし彼らは優美な笑みを絶やさなかった。


「……まあ、琴に比べたらマシって事かしら」


 飛ぶ鳥を落とす音色ーーつまり下手と遠回しに言われる程に上達しなかった琴。

 海王の言葉に何度琴で頭を殴ったことか。


「まあ王妃様、琴もきっと上手になりますよ」

「前より上達したじゃん」

「いいの、琴は諦めたから。それに、楓々が代わりに弾いてくれるもの」


 紅玉と共に練習し、いつの間にか主を軽く越えてしまった楓々の腕前は後宮内でも有名だった。


 元奴隷として学など殆ど無かった楓々は努力した。

 文武に励み、教養を嗜み、侍女としての仕事を血の滲むような努力で覚え続けた。


 そうして蓋を開けてみれば、琴の才能があったらしい。

 あっという間に紅玉は追い抜かれてしまった。


 でも、それでも構わない。

 楓々の琴の音はとても柔らかく、紅玉を気持ち良く舞わせてくれた。


 何の音もない状態で舞うのも楽しいが、やはり音楽があるのと無いのとでは違う。


「王妃様、今度は是非とも私の琴で舞って下さいませ」

「では、ボクは琵琶を」

「私は二胡を奏でたいと思います」


 おおっと離れていた側近達がそれを聞き付け、再びワッと場が沸き立つ。

 三妃の奏でる音色にあわせて舞う王妃様の光景を思い浮かべただけで歓喜に溢れる。


 ただ、一神を除いては――。


「じゃあ、そういう事で」

「王妃様、どちらに?」


 逃げようとした紅玉を貴妃達が捕まえる。

 逃がしてなるものかと、目がマジだ。


「本気でやる気?!」

「当たり前です。むしろ冗談などあり得ません」

「冗談で良いわよ!ってか無理!貴妃達の演奏に合わせて踊るなんて、無理!」

「これはこれは我らが敬愛する海国王妃様のお言葉とは思えません。為せば成る、為さねば成らぬ何事も。何事も挑戦ですよ」

「頑張ったって出来ない事もあるのよ!それこそ貴妃達の演奏なんて、気持ち良く踊るどころかガッチガチで踊れなくなるわ!」


 言い放つ紅玉に、にっこりと微笑んだ貴妃。

 その次の瞬間、彼はその場に頽れた。

 そしてよよよよと袖で口元を覆って涙を流す。


「酷いです、王妃様」

「へ?」

「こんなにもお慕い申し上げているというのに、私の演奏では踊れないなどと――いえ、確かに私如きの至らぬ未熟な楽では足りないのでしょう。ですが」


 庇護欲をかき立てる姿に、紅玉は戸惑う。

 反対に、側近達や徳妃達の側近達は大いに心を痛めた。


「き、貴妃様!その様な事はありませんっ」

「貴妃様の楽はどんな弾き手も敵わぬ天上の調べ!」

「王妃様は恥ずかしがっておられるだけです!」


 貴妃を慰める声が次々と上がる中、当の本神が縋る様に紅玉を見つめる。


「ああ王妃様!どうか、その温情を私に与えてくださいませ」

「いや、温情とかそういう問題じゃ」


 ただ踊りたくないと言っただけでなんでこんな事に――。


「あ、じゃあ、もう少し私が上手くなってから」

「まあ!王妃様の舞は完璧です!」

「そうだよ、すぐに合わせたいぐらいだもんっ」

「徳妃の言うとおりです」


 そうして口々に褒め称える彼らに紅玉は脱力した。


 色眼鏡、いや、目が曇りまくっている。

 というか、いつもは一を見て百を知るぐらい先見の明にも溢れているというのに、何故紅玉に関する事に関してはこうも曇りきった眼となるのだろうか。


 どう考えても、紅玉の舞では貴妃達の奏でる音楽の魅力を引き出せない。

 むしろヤジが飛び、落胆の溜め息で埋め尽くされるだろう。


 それに紅玉の舞は舞とも言えないものである。

 好き勝手に気の赴くままに体を動かしているだけで、一流の弾き手達にも認められた貴妃達の音楽で舞えば資源の無駄遣いとなる事は目に見えていた。


 ああ、なんだってこんな事でここまで悩まなければならないのか。


 ただ気分転換に、気持ち良く舞っていただけなのに。


 では、どんな条件の中で舞うのが紅玉にとって一番楽しいのかと言われると――


「……」


 脳裏に蘇る一つの思い出。


 紅玉に海国に嫁ぐ前に、それは起きた。


 美しい歌声。


 かき鳴らされる琴と琵琶。

 流れる二胡の音。

 空高く響く笛の音色。


 しなやかに動く手足。


 ああ、あの時が一番楽しかった。


 満足に踊ることすら出来なくとも、好き勝手に踊ったあの日。

 

「それにしても我が国は本当に幸せですよ。これほど楽しく舞を舞われる王妃様は他の国には滅多に居ないでしょうから」


 見ているだけで多くを惹き付ける舞を舞った王妃への賛辞としては当然のもの。

 しかし、満足げに微笑む貴妃とは裏腹に紅玉は静かに頭を横に振った。


「王妃様?」

「買いかぶりすぎてるわ」

「そんな事は」

「いえ、私より舞が上手い方なんて沢山いるもの。それに、あの方が」


 ふと遠くを見る様な紅玉に、貴妃達が心配そうに声をかけた。


「王妃様」

「……そう、あの方の舞はとても素晴らしかったわ」

「あの方?」


 賢妃の問いに、紅玉は微笑む。


「そう――あの日も楽しげに舞ってらしたわ、凪国後宮で」


 思い出を懐かしむように紅玉は胸の前で手を組んだ。


「それはどなたですか?」


 貴妃の問いかけに、紅玉は力強く告げた。


「もちろん、浩国王妃――紫蘭様よ」



 ダンッと踏みならされる床。

 優雅に動く手足、靡くヴェールと服の裾。

 動く度にシャンシャンと鈴がなる手環と足環。


 何度目かになるか分からない背中合わせで、姫君は共に踊る相手の声を聞いた。


『そうです、その調子ですよ』


 自分にだけ聞える小さな声。

 柔かなそれに、縋りたくなる。


『そのまま本来踊るべき舞を舞って下さい』


 本来踊るべき舞。

 主役となる彼女が本来舞う舞に合わせて、背中に居るこの飛び入りの存在は軽やかに踊る。


 それは見事に息の合ったものであった。

 ただし、この舞は確かに群舞に属するものだが、主役である彼女は他の者達とは違う舞を一神舞う。


 そう、主役は一神で舞うのだ。

 他の者達はその周囲で、囲むように違う舞を舞う。


 だからこうして、共に同じ舞を舞う相手が居る筈が無かった。


 ――いや、違う。

 正確には、いつの間にか同じ様に舞うようになったのだ。


 そう……なぜなら、相手が自分に扇を捧げた後、しばらくは自分が見たことのない舞を舞っていたから。


 緩やかに激しく。

 軽やかに機敏に。

 流れる様にしなやかに。

 華麗に優雅に。


 思わず動きを止めて魅入りかけたほどの舞は、観客達の誰もが息をする事すら忘れるものだった。


 その舞が、いつしか自分の知る物に変わり始め、そして今、同じ舞を左右対称で舞っている。


 そして心はともかく、まるでそれが当然と言う様に共に舞う自分。

 

 ただそれでも、あの時渡された扇の裏を見た時には思わず扇を取り落としかけた。


 その顔を隠す部分に張られたメモに気づいたのはすぐの事だった。


 書かれていたのは、自分の指示通りに動いて欲しい、指示は体を接近させた時にと走り書きされていた。


 そうしてもう何度目になるか分からない指示を受ける。


 本来であれば、突然の乱入者の指示など普通は聞くべきでは無いというのに、彼女は何故か言うとおりにしていた。

 まるで、それが必要と言わんばかりに。


『もっと笑って』

『え?』

『これは喜びを表す舞。溢れんばかりの喜びを称えて舞手は踊る舞なんです』


 それは彼女も知っていた。

 けれど、喜びを表す事は難しい。

 今は何とか自分を律してはいるけれど、少し気を抜いただけで扇を落とした失敗が蘇る。


 そして、また体が硬くなる。

 体が震える。


『姫様』

『な、何?』

『ここは稲穂垂れ下がる広大な土地です』

『え?』

『ここに居るのは、私達だけ。苦労の末に実った、どこまでも広がる稲穂の海に降り注ぐ夕日を想像してみてください』

『え、え、え?』

『豊楽の舞は、本来は豊作の舞と呼ばれているもの。そう、実りに感謝し、その美しさに感動し喜びに溢れるのを表現する――それが、この舞の意味』


 優しく囁かれ、彼女は相手を見る。


『夕日に彩られ、金色に輝く稲穂の海。風に吹かれ、波打つ金色の海』

『稲穂の……』

『その中で舞うのです。そう、豊かに実ってくれた稲穂に、稲穂を育ててくれた全ての自然に感謝する』


 ただ、自分の思いと感謝を伝える為に。


『もう、分かりますよね?』


 観客達に見せる為ではなく、豊かな実りに感謝を示す。


 相手が微笑むのが分かった。

 すっと、それまで体に入っていた力が抜ける。


 体が動く。

 体が軽い。


 風に吹かれ、夕日の光に照らされた金色の海の中で、自分は舞い続ける。

 

 感謝しよう――この実りに


 感謝しよう――実りを育んでくれた全ての者達に


 どうかこの感動を伝えよう


 溢れるこの喜びを


 もう、彼女は迷わなかった。

 ただ聞えてくる音楽に合わせ体を動かす。

 思いのままに、腕を伸ばし床を踏みならす。


 優雅に、時に激しく舞う領布。


 音楽が近い。

 体から溢れる拍動も心地よい。


 楽しい、楽しい、楽しい――


 なんて心地よい


 体が浮かんでいく様な感覚を覚える


 何処までも高く登り、そして見下ろす金色の海


 ああ、素晴らしい、愛しい


 この実りに、全ての命に感謝しよう――



 ジャン――


 最後の音が鳴り響き、それと同時に中央で踊る二神、そして周囲で舞っていた者達が動きを止めた。


 その最後の音が消えた後、再び訪れた静寂。

 しかしそれはすぐに破られた。

 

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