メモリーループ番外編 第一章 浩国VS海国
あちこちから感嘆の溜息が漏れる。
なんと美しい女性だろうかーー
なんと可憐なお方だろうかーー
あの方はどこの姫君か?
きっと王族の姫君に違いないーー
藍銅の姿を見た者達は、一様にそう彼を賞賛した。
その後の紅藍の急降下する機嫌など考えもせず。
「雲仙様、隣の部屋で紅藍様と藍英様が乱闘です」
「とりあえず神目につかない場所だから黙殺しろ」
「御意ーーって、あ、紅藍様の投げた花瓶を藍英様が弾いて余計に怒らせました」
「ふっ……藍英殿もまだまだだな。こういう時は花瓶で額をかち割られるぐらいしなければ」
それに同意する部下達は居ない。
しかし雲仙はそれに気づかず、自分と槐とのケンカを思い出していた。
『雲仙の馬鹿馬鹿馬鹿あぁぁっ』
そう言ってぽこぽこと自分を叩く槐。
駄目だ、可愛すぎて興奮しそうだーー
一方、その頃紅藍と藍英の闘いは更にヒートアップしていた。
「藍英の馬鹿あぁぁぁっ」
「これが夫婦の営みっていうものか」
「ずれてるぞ、あれ」
「まあ元々後宮っていう世俗とは離れた場所で生活していたからな」
「その前も馬鹿達に囲われていた生活だったし」
しかも衣食住だけ見ると、それこそ貴族に匹敵するものを与えられていた海国後宮の男妃達。
ただし、その代償は自由と男としての尊厳と矜持、神権だが。
中には、愛する者にまでそれが及んでいた者達も居る。
そんな男妃達は文武に励み、政治や軍部、経済など多方面に明るい者達も多いが、その過去ゆえに色々とぶっ飛んだ世間知らずっぷりも多い。
与えられる物全て高級品という生活を強いられ、それが一般的な生活水準レベルと思い込んでいた猛者さえ居た。
まあーー物心つく前から囲われ生活を強いられてきた者達も多いから、仕方ないと言えば仕方が無い。
それに後宮に入ってからはかなりマシになっている。
衣食住は一般の民に比べれば確かに豪華だが、そこで常識や民達の生活についても叩き込まれるから。
ただし、それでもすぐに思考の改善までは行かないのも事実であり、こうして藍銅のように時折間違った方向で発揮される事がある。
「確かに夫婦はケンカもするがな」
「あれは殺す気だろ、マジで」
鉄パイプの椅子を藍英に投げつけた紅藍。
あれはプロレスの影響だろうか?
いや、たぶん王妃様の影響だろう。
海国王妃様はよく海王陛下に技をかけているから。
「あ、パイプ椅子叩き落とされた」
「余計に紅藍様が切れたぞ」
ああ、一国ごとに使者専用の部屋があって良かった。
しかも、小さいとはいえ宮殿一つを与えられている事もあり、他国にこの惨状を見られる事もない。
そんな争いが30分は続いた。
「仲裁しましょうか?」
そんな雲仙の申し出に、藍銅は首を横に振った。
「いや、二神っきりにしてくれ。夫婦の時間を邪魔するな」
大丈夫じゃないが、大丈夫そうだ。
雲仙は部下に後の事を任せると、そのまま宮殿を出て行った。
「さてと、一足先に挨拶をしてくるかな」
警備責任者である『左』が守るべき相手から離れて彷徨くのは本来あり得ない事。
しかし、逆にこの行動であぶり出される鼠を仕留めるのも一興。
それに凪国王宮内ならば、たとえ藍英を狙う者達が大挙して押し寄せてきてもその目的を果たすことは出来ない。
「まずは凪王陛下だが、そちらは後で良いだろう」
普通ならこの国の王に誰よりも先に挨拶をするものだが、海国を代表する使者を先置いてする気はない。
そして今ここに居るのは、海国大将軍が側近『左』ではなく、ただの雲仙である。
「久しぶりに手合わせするのも良いな」
凪国の有名な武官達の顔がよぎるが、中でも一番はあの薔薇姫だ。
彼には、影を一神貸し出してくれた恩もある。
先にあって礼を言うのも良いだろうーーなに、時間はたっぷりとある。
今日の夕方には、各国の使者達が一同に凪王の前に介して拝謁する事になっていた。
それまでは自由に旅の疲れを癒やすようにと言われている。
「しかし、こうして自由に彷徨けるとはな……これも一種の信頼感だな」
何度も言うが、普通は主を置いて出歩く事などあり得ない。
しかし、それをさせてしまえる程に、凪国王宮の警備は各国からも高い評価を得ている。
そしてそれを利用し、鼠をあぶり出す場としても。
「雲仙様」
後ろに密かに付いてきている部下が雲仙へと囁く。
「ああ、動いたかーー」
雲仙という存在が消えた事で、奴らも油断したのだろう。
ただでさえ功を焦っていた節があるから、これを絶好の機会と捉えたに違いない。
今頃、藍銅の元に向かっているだろう。
そこに仕掛けられた罠にも気づかずに。
「配置は?」
「手筈通り」
「では、そのまま進めろ。俺は予定通りこのまま行く」
是、という返事をした部下の気配が消える。
それを確認し、再び雲仙は歩き出した。
海国に与えられた離宮は、凪国王宮の外宮一画にある多くの迎賓館が集う場所でも北方に位置していた。
迎賓館区域から出る門は一つ。
そこを目指して歩き出す事数分。
「柚蔭様!お待ち下さいっ」
「なんで分かるの?!」
「おほほほほ、この私の柚蔭様への愛を舐めないで下さいませ!」
泉国王妃ーー柚蔭が女官達に追い掛けられている姿を目撃した。
いつの間にか、泉国エリアに来ていたらしい。
って、泉国は王妃が来たのか。
よく許可したものだ。
「せっかくの里帰りなんだから見逃してっ」
「いけません!お一神で出歩くなど何かあったらどうするのですかっ」
一際美しい女官が柚蔭に飛びかかる。
その様も麗しいが、自分の弟とか色々と美女を見てきた雲仙は猿の取っ組みあいにしか見えない。
むしろ、妻以外の女などみんな猿だ。
「あ、あれって海国の雲仙様?」
柚蔭にバレた。
その存在感の無さから、我が国の影として勧誘しようかと何度か顔を見せた事も要因の一つだろうが。
って、雲仙も気配を隠していたのに良く気づいたな。
その証拠に、柚蔭を追い掛けていた女官達が今初めて雲仙を認識したーーとばかりにこちらを見た。
そしてーー。
「きゃあぁぁぁああっ!」
「王妃様、男ですわ!男が居ますわっ」
「王妃様の姿が男の目に晒されるなどあってはならない事ですわっ」
「ここは口封じですか?」
「いえ、目封じよっ」
「何を馬鹿な事を言ってるのです!相手は海国の高官!我が泉国と海国で戦争を起こす気ですかっ」
一番美しい美貌の女官がそう叱咤すると、鋭い目で雲仙を見た。
「とにかく王妃様を宮殿にお連れするのよ!これ以上、陛下以外の殿方の目に触れさせてはなりませんっ」
その言葉に、柚蔭が宮殿へと引き摺られていった。
時間にしておよそ三分。
アッというまの出来事だった。
「……泉国王妃様も大変そうだな」
泉国国王の寵愛を一身に受ける柚蔭。
既に子もいる彼女は色々とあって国を出奔し凪国へと流れ着き、あの大事件に巻き込まれた。
その後は泉国国王とも仲直りしたらしいが、やはり泉国国王の恋着はそう簡単には制御できないという事か。
何度か泉国国王を見た事があるが、ある意味、いや時にはその執着は水の列強十ヵ国の王達の中でも一際厄介な物だった。
特に一度逃げられーーいや、実際には何度か逃げられているが、凪国の件では危うく命すら失いかけたほどの大事件。
その時の事を思えば、より過保護に加速がかかっても仕方無いと言える。
雲仙は再び歩き出す。
先程まで晴れていた空からちらほらと雪が降り始めていた。
「過保護、なんだろうなぁ」
それは雲仙にも言える事であり、たぶん各国の上層部の多くに言える事だ。
過保護。
過保護。
過保護。
とても素敵な言葉だな。
雲仙は過保護という自分を受け入れる事にした。
だから成長しないと言われる所以だが、そんな事を一々気にしていたらやってられない。
それに、雲仙達が敬愛する王妃様なら大丈夫だろう。
何せ、そんな雲仙達の造り出す囲いを蹴飛ばす程のお方なのだから。
『そんなに甘やかしたいなら、王妃ではなく妾にしてください』
そう言って陛下達に詰め寄り、物怖じするどころかまさに王妃の威厳を持って相対した王妃様。
今思い出しても、あの時の光景は雲仙の中に深く焼き付いていた。
あの一件にて、たぶん王妃様はとどめを刺してしまったのだ。
上層部の、心に。
そしてそれは、泉国王妃にも言える事。
潜入を統括する立場として、雲仙は泉国から得た情報を思い出す。
本当に、どうして、まあーー。
ただ、そのおかげで泉国王妃はそれまで王妹こそ王の妃に相応しいーーという風潮を吹き飛ばしてしまったのだが。
しかし雲仙から見れば、それを上手く利用すれば王妹に王妃を押し付けて王妃から逃げられたのにーーと思う。
え?近親相姦?
そこは考えない事にしよう。
そんな現在の泉国王妃がその立場から唯一逃げられる機会だったのに。
自分の手で潰してしまった彼女。
そんな彼女が泉国から逃げられる機会は、たぶん、もう無い。
ただーーそれでも、里帰りは別だろう。
普通の夫婦だけでなく、一国の王妃が実家に里帰りする事はそう珍しい事ではない。
泉国王妃にとって、凪国はある意味故郷同然。
少しぐらい、故郷たるこの場所を自由に出歩かせても……という同情が雲仙の心をよぎる。
「って言っても、もしこれが海国王妃様なら俺達でも止めるか」
泉国王妃を自国の王妃に置き換えた時点で「制止」が浮かんだ雲仙。
結局は、同じ穴の狢という事である。
「ん?」
雪が強まってきた中、遠くに神影が見える。
常神なら難しいが、軍部で鍛えた雲仙はしっかりと相手を確認した。
「あれは……」
どうやら、いつの間にかかの国の迎賓館まで来ていたらしい。
「確かに呼ばれていない方がおかしい、か」
そうして足を止めることなく近づく雲仙に、彼らは視線を向けてきた。
「これはこれは、浩国の使者の皆様。確か浩国西部統治者――レイオル様、浩国東部統治者――八雲様でございますね」
そして彼らの隣に居るもう一神は。
「浩国上層部、紅葉様もお久しゅうございます」
「あら、これは海国上層部の雲仙ではありませんの?ふふ、良く私達の前に顔を出せたもの」
紅葉の言葉に、雲仙は苦笑する。
美しいが、その花は毒花。
花びらも花粉も茎も葉も根も。
全てが、毒。
しかし美しいがゆえに手を伸ばさずにはいられない、口に含まずにはいられない。
そして触れた者全てを、殺す毒花。
紅葉ーー。
彼女がニタリと微笑む。
「このような場所までお一神で?海国の使者達の子守は宜しいですの?」
「俺よりもよほど強力な守りが居ますゆえ。それよりも、レイオル様と八雲様がわざわざ来られるとは、それほど今回の宴には力を入れた外交をーーという事でしょうか?」
各国の使者達が集まるという事は、いわばそこは一つの外交場となる。
ゆえに、外交に長けた者達も当然ながらそこに同行していた。
そうーー『左』がここに回されたのも、その一因である。
いわば、紅藍は『左』が自由に動く為に居ると言って良いだろう。
それは紅藍も良く理解している。
雲仙はレイオルと八雲を見た。
浩国国王に絶対的な忠誠を誓い、その御代を支える二大巨頭。
上層部の中でも秀でて美しく優秀であり、他の上層部達を纏める存在でもある。
凪国の三卿が明睡、茨戯、朱詩ならば。
浩国の三卿は間違いなくレイオル、八雲、そして浩国宰相の三神である。
紅葉から向けられる視線が鋭さを増す。
レイオルと八雲は表だって敵意を向けては来ないが、きっと心の中では腸が煮えくりかえっているだろう。
海国もそうだが、津国、泉国と他の列強十ヵ国が凪国に賛成した事も、紫蘭を凪国預かりとするのを加速させた。
浩国はそれに激しい怒りを覚えている。
お前達だって、奪われたくせにーー。
浩国国王の言葉が雲仙の脳裏に響く。
そう、確かに奪われた。
いや、逃げ込まれた。
列強十ヵ国では泉国の王妃ーー柚蔭は国を出奔した後に凪国に逃げ込んだ。
他の国も多かれ少なかれ、似たような状況の国が多い。
そして海国ーー。
王妃様こそ逃がさなかったが、紅藍と楓々は見事に凪国へと逃げられていった。
そして何度奪い返そうとも、失敗した。
凪国、いや、凪国王妃が居たから。
だがーー。
「海国上層部が一神ーー雲仙、か」
呟いたのは、八雲だった。
雲仙が八雲へと視線を向ける。
「お前も外交を担う者なら、此度の神選は当然と思うと思ったが」
「ええ、もちろんですよ。我らはそれぞれの国の威信をかけ、国の代表として此処にいるのですから」
「ふっーー狸め」
狸はお互い様だ。
ああ、早く自国に帰って愛しい妻に会いたい。
というか、紅藍と藍銅は今頃どうなっているだろうかーー新婚早々、かどうかは分からないが未亡神はさすがに困る。
しかしーー相変わらず浩国と関わると気持ちが荒む。
まだ紫蘭が王妃として居た頃は、ここまで酷くなかったというのに。
そうーー紫蘭が居た頃は、浩国上層部はもう少し神味があった。
もっともっと良かった。
今ではかなり泥に沈んでしまっている。
王として、上層部として、為政者としては素晴らしい者達である。
浩国を更に繁栄させ、強大な物としていくだろう。
だが、それだけだ。
個神としては、完全に駄目になる。
自分達もそうだった。
それを、寸での所で何とか踏みとどまったからこそ、今の自分達が居る。
雲仙は槐を思い出す。
槐、弟の妻である伊緒。
紅藍、楓々、そして王妃様。
そして彼女達を守ろうとした、凪国王妃。
と、女性しか居ないという感じだが、もちろん男も居たし子どもも老神も居た。
彼らは今、海国王宮で尽力してくれている。
そんな彼らに報いる為にも、そして自分達の為にも。
もう二度と、『あっち側』には堕ちない。
凪国もそう。
そして、他の幾つかの国もそう。
何とか踏みとどまれた。
踏みとどまり、再起を図ることが出来た。
浩国はまだ踏みとどまれていない。
それこそ、自分達のように堕ち続け、そしていつしかーー。
「それで、私達に何か用か?」
「いえ、お見かけしたのでご挨拶をと思いまして」
レイオルにそう返した雲仙に、紅葉が口を開く。
「それにしてもどうして雲仙殿がこの様な所に?ここは浩国の迎賓館です。それを他国の者が不用意にズカズカと入るのは、礼を欠く行為ではありませんか?」
確かに紅葉の言うとおりだ。
交通用の道はきちんと存在する。
「これは失礼いたしました」
「問答無用で切り捨てられてもおかしくはありませんが」
これも紅葉の言うとおりだ。
「申し訳ありません。ですが、浩国の使者殿もこちらに入られたとの話を聞いておりましたので、是非ともご挨拶にと伺った次第です」
「心にも無い事を」
凪国国王への挨拶を前に別の国の使者に挨拶をする愚か者がどこに居るのか。
「まあ良いですわ。でも、わざわざ来て頂いて申し訳ありませんが、早急にお引き取り願いたいですね。まだこちらについて間も無いゆえに、色々とする事がありますので」
「確かにレイオル様と八雲様はそうですね」
言外に、お前は違うだろうという旨を含ませれば、紅葉がふっと不敵な笑みを浮かべた。
これぐらいで怒ってくれる様な相手ならばやりやすい。
まあ最初は怒りを覚えてはいたが、すぐに冷静さを取り戻したのだろう。
「私は浩国の民でもありますので、この度は浩国使者の滞在の期間はこちらでお世話をする任を頂いていますの。ですから、仕事が詰まっているんです」
「分かりました、ではまた後ほど」
そう言って雲仙は優雅に一礼すると、踵を返して歩き出した。
そうしてある程度の距離まで来た所で、一度だけ振り返った。
「本当に、このままではマズイな」
浩国上層部も馬鹿ではない。
馬鹿ではないが……だからといって止められるかどうかは別だ。
紫蘭というブレーキを失った浩国の迷走は思いの外進んでいるようだった。
「だからこそ、次第に手段を選ばなくなっていく」
自分達がそうだったように。
彼らは、どんな手を使ってでも奪い返そうとするだろう。
たとえそれが炎水家に刃向かう事となろうとも。
刃向かって殺される事は分かりきっていても、突き進んでしまう。
「それに凪国はどう対処していくのかーー」
ただ出来るならば、いや、最後まで海国はそれを選びたくない。
自分達がそうだったから。
だからこそ、浩国の迷走がこれ以上進まない事を祈る。
そしてその為には、動かなければならない。
凪国を変態国家呼ばわりした?事で朱詩の説教を受けていた紫蘭は、ようやく正座から解放された。
というか、一時間にわたる正座はかなりきつく、紫蘭はしばらく動く事すら無理だった。
そんな紫蘭を抱き抱えて椅子に座らせてくれたのは茨戯だった。
「ありがとうございます、茨戯さん」
「別に構わないわよ。あんたには果竪のお守りでいつもお世話になっていたものね」
大戦時代に何度か浩王率いる軍と萩波率いる軍が行軍を共にした事もあり、その間は紫蘭がいつも果竪を始めとした幼少組の面倒を見ていた。
特に、戦闘が始まると紫蘭や紫蘭の他、非戦闘組の纏め役が小さな子ども達を守っていた。
「いえ、お守りなんて……」
「してくれてたわよ。まあ、果竪は日が経つに連れて戦闘にも首を突っ込むようになったけど、まだ軍に入って間も無い頃とかもアンタは面倒を見てくれたでしょう?凄く助かってたわ」
片目を瞑りウインクする茨戯に紫蘭は「そんな事もあったな~」と小さく呟いた。
「アンタが浩国王妃にならなければ、是非ともウチに来てって思ったもの」
まあ、そんなのあの浩王や上層部が赦さないだろうな~とは茨戯も分かっていた。
と、視界に紫蘭が俯いたのが見え、茨戯はギョッとした。
「ちょっ、どうしたの?」
「え……そ、その」
それは、浩国王妃という言葉が茨戯の口から出たのを聞いた瞬間、紫蘭の中にあった「王妃だった自分は夢」という選択肢が消えてしまったからだ。
今の紫蘭が最も夢見ていた、そうであって欲しいと願った現実が遠のいていく。
そう、か……。
やはり、紫蘭は浩国王妃であるのだ。
そこから逃げる事は赦されない。
それを嘘だと反論する事も出来たが、紫蘭は茨戯がそういう事で嘘をつく相手でない事を知っていた。
それに、今は怒りが去って壁によりかかりこちらを見る朱詩が何の反論もしないという事は、やはりそうなのだろう。
「王妃、か」
そう呟いた時だった。
あれ?と、紫蘭は疑問を覚えた。
ここに連れて来られる前に、洗濯場であった女性達。
彼女達は紫蘭を下女だと言った。
下女頭が上司で、ここで自分達と一緒に働いている一員だと。
というか、あれほど親しくしてくれていたと言う事は、それなりに交流があると言う事に他ならない。
これはどういう事だろうか?
そして、修羅や初めて見る男の娘達が、そして凪国上層部が騒いでいた言葉。
これが紫蘭?
紫蘭の偽物じゃないか?
いつもの紫蘭じゃない!!
と、他にも色々と言われたが、大きく分けると全て同じ。
いつもの紫蘭とは違うという事。
「あの、茨戯さん、朱詩さん」
紫蘭はその件について彼らに質問した。
目覚める前、浩国王宮の王妃の部屋で寝ていた自分こそが真実と言うならば。
何故自分は下女として凪国王宮で目覚めたのだろう?
そして前の自分とは違うと言うのは?
分からない事ばかりだった。
「紫蘭、それは……」
茨戯と朱詩は何かを言いよどむように言葉を止めた。
けれど、ついに何かを決心する様に茨戯が口を開いた。
「まず、あんたが浩国王妃である事は現実よ」
「そう、みたいですね」
それはもはや疑いようのない真実。
しかし、そうなるとどうして自分は此処に居るのだろう。
「浩国で寝ていた筈なのに、どうして自分は此処に居るのか?だったわね」
「は、はい。あと、下女として働いていたみたいなのと、前の私と違うっていう部分が」
「ーーまず、此処に居るのはね、まあ下女として働いていたのもそうなんだけど」
そして教えてくれたのは、こんな内容だった。
それは今から一月前の事だ。
凪国に浩国からの使者として私は訪問したらしい。
けれど、そこで浩国王妃を快く思わない者達に襲われたという。
応戦したが彼らは逃げだし、私は襲撃されたショックで一時的に記憶が飛んでしまったという。
しかし襲撃者達が何時また舞い戻ってくるかもしれない。
凪国は私を隠す事にした。
浩国王妃として影武者を立て、私を下女として。
普通なら王妃を下女とするなんて考えられないが、その心理をつく事で目をそらせようとしたらしい。
そうして先日、襲撃者は捕まったが、私の記憶は戻らなかったという。
それが今回、ようやく私が記憶を取り戻したという事だった。
ただし、完全には戻ってないのは明らかだった。
何せ私はこちらに訪問した事自体を忘れているのだから。
「大丈夫よ、そのぐらいは」
「だ、大丈夫なんですか?」
「そうそう、前のアンタは自分が誰だか全く分からない生まれたてのヒヨコ状態だったんだから。それが浩国王妃である事や夫や国の事を思い出してるんだから素晴らしい改善よ」
「そ、そうでしょうか?」
まあ確かに全く分からない状態と比べれば、かなり記憶が戻ってきているだろう。
このままだと、此処に訪問した時の記憶や襲われた時の記憶も戻るだろうか。
「あの、それで、襲撃者が捕まったならもう私は隠れていなくて良いんですか?」
「え、あ、そうね」
では、浩国にも戻れるのだろうか?
ただし、帰りを待っている相手が居るかどうかではあるが。
このまま襲撃者に始末されてしまっていた方が、夫や上層部にとっては良かったかもしれない。
そんな呟きが口に出ていたのだろう。
顔色を変えた朱詩に両肩を掴まれた。
「ちょっと!何言ってるのさっ」
「しゅ、朱詩さ、ん」
「殺された方が良かった?!ふざけた事言わないでよ!殺されたら二度と大切な神達に会えないんだよ?!ってかボク、紫蘭と二度と会えないなんてヤダからね!!」
「っ……」
「アタシも同感。全く、な~んだってそんな事を考えちゃうのかしらねぇ?明燐に聞かれたらアタシ達以上に怒られるわよ?」
頬を熱いものが伝った。
「良い?!二度とそんな事言っちゃ駄目だからねっ!それとも何?そういう馬鹿な事を言うのが浩国には居るの?!」
居るのか?ーーそう聞かれ、紫蘭は首を横にふろうとして、失敗した。
夫と上層部は言わない。
しかし、彼らに心酔し、自分の縁者の娘を王妃にと願う者達はしっかりと口にしていた。
死んでしまえばいいのにーーと。
邪魔な王妃。
厄介物の王妃。
これで夫に愛されているならばまだしも、紫蘭は仮初めの、契約上の王妃だ。
元々、夫が愛する女性を守る為に王妃に迎えられた存在であり、一度はこれ以上迷惑はかけられないからといって簡単に放り出される所だった。
いや、夫からすればその時に放り出してしまいたかっただろう。
それを無理矢理引き延ばしたのは、紫蘭だ。
「ああもう!泣かないのっ」
「馬鹿ね、朱詩。こういう時は泣いていいのよって言うのよ。誰だって泣きたい時はあるんだから」
「それって果竪の受け売り?」
「まあね」
夫も上層部も何も言わない。
でも、言わなくても腫れ物でも扱う様に扱われ、余所余所しくて。
まるで必要ないと言われているようで……。
いや、それは紫蘭の被害妄想だろう。
というか、紫蘭が強引に王妃として居座っているのだ。
だから、全ては紫蘭が自分で引き起こした事なのだ。
自由になる機会も何もかも、自分で棒に振ってしまったのだから。
でも……。
「あったかい……」
「紫蘭?」
「こうやって抱き締められたの、どのぐらい久しぶりかな」
身代わりとして夫の夜の相手をする事はある。
でも、キスもしないし、こうして抱き締める事もない。
ただ体を慰める為の行為。
苦しい、苦しい、苦しい。
苦しくて、哀しくて、辛くて。
それを相談出来ていたフィーナも、花央ももう居ない。
誰も、もう居ない。
こんな風に神妻、しかも他国の王妃である自分が他の男に抱きつくなど非常識極まり無い行為で、見つかれば大事になる事だって分かっている。
けれど、紫蘭は朱詩にしがみつく手を外すことは出来なかった。
「紫蘭……」
朱詩は紫蘭を抱き締める。
自分達が気づいた時には、もう遅かった。
でも、あの時、もっと早くに気づいてこうして誰かが抱き締めていれば。
自分達が抱き締めていれば。
紫蘭は記憶を無くす事も、メモリーループという現象に襲われる事も無かったのかもしれない。
いや、あんな、あんな酷い仕打ちを受ける事など無かった筈。
夫の愛する女性を守る為に身代わりとして男達に陵辱される事など、きっと無かった、させなかった。
「紫蘭……ごめんね」
知らぬ仲ではない。
むしろ、大戦中にはあれほど言葉を交わし寝食を共にした自分達。
凪国上層部も皆が知っていた。
果竪も懐いていたし、行く所が無いなら自分達の所に誘おうかとも思った。
そんな彼女は浩国王妃になってから、一度だって自分の窮状を訴える事は無かった。
国の恥とか、そんなんじゃなくて。
何度か、浩国に行った上層部ですら気づかなかった。
昔の様な笑みではなく、儚い笑みを浮かべる紫蘭の心の傷に誰もが気づけなかった。
気づいたフィーナと花央という侍女はとっくに死んでしまった。
死んでしまった方が良いーー
居なくなった方が良いーー
凪国に保護されてきた紫蘭が目覚めるまで、彼女はずっとそう呟いていた。
生きている事を謝り、死ぬ事を望んでいた。
ああ、そうだ。
以前の紫蘭だ。
一神で全ての苦しみを抱え、誰にも相談出来ずに、それでも王妃として頑張っていたーー。
愛する男に、身代わりとされた。
それから一時間ほど紫蘭は泣き続け、そして力尽きたように眠ってしまった。
そんな紫蘭を朱詩は抱えて部下の女性に任せた後、朱詩と茨戯は部屋をそっと出た。
何かあった時に対処出来るように寝台がおかれている部屋だった事もあり、下手に動かす必要もない。
朱詩と茨戯はしばらく無言で歩いていた。
周囲に神気は無く、静まり返った空気が満ちる。
密談にはもってこいの場所だった。
「あの子が覚えているのは」
「話を聞いた所だと、フィーナと花央が死ぬ前だね」
「当然、追放される前って事ね。あとは」
「男達に陵辱される前」
「……そう」
陵辱は、花央が死んで少ししてから始まったという。
そして遠方の離宮に追放される少し前まで。
花央が死んでから、紫蘭が離宮に追放されるまで一年という時があった。
つまりその一年、ずっと、紫蘭は男達から獣にも劣る所行を強いられていたという事だ。
しかも何度も何度も紫蘭を穢したと、男達は笑いながら話していたという。
子どもを身籠もらなかったのが幸いーーという話ではない。
確かに子どもを身籠もっていたらその子をどうするかで王宮は揺れただろう。
けれど……もし子が出来たならば、紫蘭は間違いなく王宮を飛び出していた筈。
王妃が父親の分からない、しかも陵辱された末に身籠もった子を産むなど赦されないから。
もし産めたとしても、きっと奪われるか殺される。
実際に浩国がそれを実行したかは分からないが、紫蘭は間違いなく我が子を取っただろう。
たとえそれが望まぬ行為の末の子どもでも。
優しく穏やかで、子ども好きだった朱詩達の知る紫蘭であれば、子どもを殺す事なんて絶対に出来なかっただろうから。
しかし子どもは出来ず、紫蘭は追放された離宮で寂しく暮らし、そしてそこで起きた土砂災害に巻き込まれて記憶を失った。
真実を知った浩王が駆けつけた時には、もう何かもが遅かった。
そして始まった悲劇は今も続いている。
「それにしても、まさかあんな嘘をペラペラと言うとは思わなかったよ」
「あら?その片棒を担いだのは誰だったかしら?ふふ、素敵なアドリブだったわよ」
最初に茨戯が語った。
紫蘭が此処に居る説明を。
そしてそれを補足するように、朱詩が言葉を紡いだ。
「で、ああいう説明をしちゃって良かったの?」
「他に良い方法があるとでも?」
「けど、襲撃者が捕まったって事は、浩国に戻るって事だよね?まあ普通は浩国王妃である以上はいつかは戻らないと行けないけど」
それは紫蘭も気づいているだろう。
けれど、だからといって紫蘭を浩国に戻す事は出来ない。
紫蘭は記憶喪失になったのではない。
ある一定までの記憶しか無いのだ。
それも、自分が一番消したかった記憶がすっぽりと無い。
それは事情を知る者達からすれば最も素晴らしい状況だろう。
それが永遠に続けばーーの話だが。
「記憶、いつまでこの状況だと思う?」
「さあ?そちらの専門じゃないから分からないわね。でも、ちょっとした拍子で戻る事もあれば、永久に戻らない事もあるっていうのが記憶ですもの」
「それどころか、記憶の書き換えもあるしね」
記憶を失った相手に、偽りの記憶を吹き込む事で起きる書き換え。
それは記憶が不安定な相手であればあるほど、起きやすくなる。
それは記憶が戻るのど同じぐらい、恐ろしい事態だ。
特に、浩国がそれを知ったならば。
「ーーそこまで、あの国も馬鹿じゃないわよ」
「どうだろうね?ボク達も馬鹿だけど、あの国も中々だよ」
紫蘭を取り戻すのに手段を選ばなければ、絶対にやる。
自分達の事を覚えていて、恐ろしい記憶を覚えていないなんて奇跡と言える程の好都合なのだから。
「為政者としては素晴らしい。でも、紫蘭が関わると馬鹿揃いだから」
朱詩の言葉に茨戯が苦笑する。
「まあね……」
「ってかさ、何が原因なんだろうね?」
「え?」
「紫蘭がこうなった原因。それが分かれば、記憶を戻せるかもしれない」
それは可能性でしかないが。
しかし、ずっとこのままという事は無いだろう。
そういう可能性もあるかもしれないが、その可能性で動く事は出来ない。
「今のままの紫蘭の方が紫蘭にとって良いのかもしれない。でもさ、もし記憶を取り戻したら……まずいよね?」
「……そうね」
あのぶっ飛んだ紫蘭に戻るならまだ良い。
しかし、下手な取り戻し方をして、もっと酷い事にならないとも限らない。
特に、浩国が下手にしゃしゃり出てきたら、その可能性はグッと高くなる。
「対策を考えるわ。というか、アンタは嫌そうね」
「当たり前。確かに今の状態の紫蘭はそりゃあ言いくるめやすいよ?自分達の都合の良いように記憶を書き換えてさ。でも、それって根本的な解決にはならないよね?もし記憶を取り戻したら?騙されていたってもっと酷い事になるよ?まあ、さっきの説明の時点ですでに騙してはいるけどさ……でも、浩国に必要なのは、そして紫蘭に必要なのは、あの過去を乗り越える事だよ」
浩国だけではない。
紫蘭もまた、乗り越えなければならない。
そうした先に待っているのが、どんな未来であっても。
それは、浩国だけでなく朱詩達、この凪国上層部にも言える事だった。