メモリーループ番外編 第一章 変態被害者の会
凪国上層部、元寵姫達は頭を痛めていた。
その議題が、いや、その単語が口の端に上るのももう何度目か。
もちろんその話題は
『紫蘭による被害について』
①日々絡みつく様な視線に見詰められる。
→色々と体に影響がある。
おもに、う――って、色々と間違ってるだろ俺らあぁぁぁぁっ!
②自分達をモデルにして、脳内で素敵な展開のぼーいずらぶを想像される。
→時々無意識で口にしているから始末が悪い。
③自分達をモデルにした同神誌を売りさばく。
→このおかげで、上層部と元寵姫達の同神誌市場は一気に拡大された。
あらゆるシュチュエーション、カップリングが出し尽くされ、この前はキャラの受け攻め認定で暴動が繰り広げられたという――会場で。
④自分達の着衣を売りさばく。
→しかも、侍女長と女官長公認。
略奪された着衣は数知れず、しかも仕事用のばかり。
そんな紫蘭の二つ名は『腐女帝』。
世界に腐女子は多いが、あの凪国の上層部に正面切ってケンカを売る腐女子は中々居ない。
いや、別に正面切ってはケンカなど売ってないが、どう考えても特攻宜しく下着を略奪している様はもはや山賊顔負けの所行だった。
「ふふ、この前なんて仕事用で使っていた服をごっそり持っていかれたよ」
「俺なんて、脳内で何度妄想された事か」
「私など、奥方に同神誌売り場に行かれかけて」
「その時点でアウトじゃん」
泣き崩れる元寵姫組。
その傍では、上層部男性陣が疲れ果てた顔をしていた。
例えその場におらずとも、悪寒を感じた時点で周囲の気配を探れば必ずや半径五十メートル以内に奴は居る。
そして絡みつくが如き視線をこちらに向け、手に持ったノートに書きためる新しい同神誌のアイデア。
しかも背中のリュックには、略奪した服がごっそりと入っている。
どこのド変態だお前――と言ってやりたい。
奴の視界に入った時点で脳内で穢されていく自分達。
一度頭をかち割って中身を見てやりたいが、見たが最後きっと自分のあ~んな姿やこ~んな姿をくまなく見てしまうだろう。
絶対に規制がかかる様な光景に違いない。
むしろ見たくない光景しかきっと無い。
「でも紫蘭に聞いたら、そこまでに行く課程が大事だって言ってたぞ」
そう暴露したのは、明睡。
「課程って何だよ」
突っ込むのは、もちろん朱詩。
その横で、茨戯も何かを思いだしたように口を開いた。
「あ~、あれよあれ。恋に落ちるまでの課程よ。因みにその時に創作されていたのは、アタシと朱詩のカップリング話だったわね~。あ、もちろん朱詩は誘い受けよ」
「ああ、お前やっぱり紫蘭の中ではそういうキャラなのか」
「むしろ公式って言ってたわね」
「ちょっ!純情なボクになんて事をっ!」
え?純情?
どの口でそんな事言っちゃってくれてんの?
たぶん、その場に居た全員がそう思った。
「ってか陛下!ちょっと紫蘭をどうにかしてよ!」
実はここには萩波も居た。
凪国最強の男――見た目は炎水界でも五指に入る男の娘だが、そんな事は関係ない。
見た目は清楚で神秘的な美女だが、その中身は真っ黒。
ロリコン大魔王の称号が贈られているが、そんな不名誉な称号なんてなんのその。
どこまでもゴーイングマイウェイの彼はにこやかに言った。
「別に気にしません」
「陛下の同神誌も書かれてんだよ!」
「しかも小説と漫画どちらでもっ」
「受けバージョンと攻めバージョンどっちも!」
「ってか、俺が陛下を攻めって無理だろっ」
「やったら百億倍返しだっつの!」
他の上層部も混じっての猛烈なトークが始まる。
しかし、陛下はどこまでも冷静だった。
「大丈夫です。同神誌一つにつき、私と果竪の愛溢れる同人誌を十冊書いてもらってますから」
なんですと?
「そちらの市場も拡大して頂いてますからね。むしろ拡大出来なければ潰します。ふっ、ギブアンドテイクですよ」
自分と果竪の同神誌と引き替えに自分を丸ごと売り渡した男――萩波。
愛する妻以外は基本的にどうでも良い男だが、まさかここまでとは。
いや、そんな事は上層部はイタイほど知っているし、元寵姫組も以下同文。
名君なのに、賢君なのに、覇王とも言うべきお方なのに。
ひたすらにそんな萩波に目を付けられた果竪に同情の思いが募る。
「という事ですから、あなた方も書いて貰えばいいんではないでしょうか?愛しい奥方、婚約者、恋神とのラブラブでうふふふふふな展開の同神誌を」
それですむ問題だろうか?
というか、よく書いてくれたな――とは、誰も思わない。
普通なら、自分の押しているカップリング以外の同神誌を書くのは嫌ではないか?
しかも、ぼーいずらぶ作家にノーマルを書かせるなんて――と思うだろう。
だが、彼らは知っていた。
紫蘭、そして紫蘭と仲の良いぼーいずらぶ作家達の決め事を。
それは今からかなり前の話になる。
上層部や元寵姫組をモデルにしたぼーいずらぶ作品を書いていた腐女子達の中に、自分達の愛するモデル達の生活について口出ししてくる者達が居た。
すなわち、同性の伴侶や婚約者、恋神が居るのが許せない、自分達の脳内イメージ通りにしてくれないとダメだ――という、身勝手過ぎる考えの持ち主達だった。
そうして始まった、彼らの愛する者達への嫌がらせ。
それは他の腐女子達も眉を顰める所行だった。
そして彼女達はやってきた。
『ざけんなっ!!この腐女子の風上にも置けない愚物どもがぁぁぁぁぁぁっ!』
彼女は嫌がらせをする腐女子達を平手打ちにし、そうのたまった。
隣では、紫蘭が愚物と称された者達へと淡々と説教をする。
『良いですか?あなた達。いくらモデルに限りない愛を注ぎ、ぼーいずらぶを愛しているといっても、やって良い事と悪い事があります。っていうか、モデルのプライバシーを侵害するな』
その言葉から始まり、紫蘭は毒舌を発揮した。
『モデルのプライバシーを侵害するな。モデルに自分達のイメージを押し付けるな。モデルの大切な神達を傷つけるな、言葉でも行動でも全部ダメ。ってかあんた達のやってる事はあの最悪極まり無い煉国の馬鹿達がやってる事となんら変わりない。神権侵害だ、あたし達はモデルの限りなく広い心のお情けを頂いて活動してるの』
いや、お情けなんてかけた事はありませんから――とその場に居た男性陣はツッコミたかったが、とりあえず黙っていた。
『ってか自分達がこう思っているからこうやれ?この神とくっつけ?同じ行動しろ?それ以外の行動は認めない?ってか、女を愛するなんてダメだ、別れろ?別れさせてやる?何様のつもりよあんた達は』
反論しようとした腐女子達も、紫蘭の怒りの前には言葉も出なかった。
そんな彼女達を囲む紫蘭派と呼ばれる腐女子達も同様だった。
『いい?脳内で考えるのは自由よ?でもね、それをその気もない他神に強要するのは間違ってるの。ってか、やるな。想像は自由だけど実際に行動に移すのはアウト。しかもあたし達がモデルにしてるのは、漫画とかの空想上の相手じゃないの?ううん、空想上の相手だって作者という生みの親が居るの。生みの親に嫌な思いをさせたらダメなの。よって、実在する相手をモデルにするなら余計にあたし達は気をつけなければならないのよ』
すなわち
①相手に迷惑をかけない
②相手のプライバシーを侵害しない
③相手に自分の考えを強要しない
④相手の大切な者達を傷つけない
⑤節度ある妄想や同神誌活動をする
⑥というか、男の娘達に危害を加えようとする者達と絶対に結託するな、近づくな!!
すでに①の時点で色々とまずいが、やはり男性陣は誰も突っ込めない。
『ってか、そこのあんたも!モデルをストーカーするって何?!ふざけんじゃないわよ!あたし達の中ではモデルでも、その相手には相手の生活とプライバシーがあんのよ!ってかあんたもし自分がおんなじ事されたらどうすんのよ!ってかあんたの縁談全て潰すわよ!!』
胸倉を掴み、振り回し。
『しかもあんたは、男の娘達に悪事を働こうと企んでいるのが丸わかりな男達にお金で情報を売るって何?!相手の大切な神達を始末してもらおうとするって何?!』
そんな事までしていたのか。
『あんた達みたいのが居るから!清く正しく、相手の迷惑にならないように注意しながら脳内の中で妄想をする腐女子達が馬鹿にされんのよ!世界の腐女子達に謝れ!そして迷惑をかけた神達全てに謝れえぇぇぇぇぇっ!』
その後、紫蘭の説教は数時間に渡って続き、その件は多くの腐女子達に恐怖と共に語り継がれる事となった。
因みに――。
紫蘭派と呼ばれる者達、いわば凪国の腐女子の大半を占める者達の男の娘達とその関係者への対応はというと。
『結婚おめでとうございます!』
『ってか、いつになったら恋神に告白するんですか?』
『ふっ!ここは私が背中を押しましょう!』
と、それはそれは男の娘達の愛する者達(女)に対して好意的だった。
『え?なんでって?そりゃあモデルの神達には幸せになってもらいたいですからね。え?ぼーいずらぶ?男×男?ああ、あれはあれです。だからといって、実際は違いますからね。ただ、私達はそれを妄想して楽しんでいるだけです』
『そうですそうです。だから、実際にあなた達が誰を好きになろうが結婚しようが構わないんです。って言うとなんかあれですけど、ようは私達の大好きなモデルの方が幸せならそれでいいんです』
『相手が男だろうと女だろうと老女だろうと、ね!ってか、モデルに元気が無いと私達も困っちゃいますよ~!』
『流石に同神誌全部ダメというのは受け入れられませんけど、でもでも迷惑をかけないようにやりますからぁ』
そうして造り上げられた、モデルに対して迷惑行為をかけた場合の罰則というのが新たに凪国腐女子達に制定された。
そしてそれは、他の国々の腐女子達にも広まっていったという。
まあ、そのおかげで愛する者達への被害は格段に減ったといってもいい。
それまでは、男の娘達を狙う愚か者達と結託する腐女子達も多かったのだから。
むしろ自分達の望む世界が展開されるなら、悪魔に魂を売る事すら厭わないダメ腐女子達も居た。
そんな腐女子達に頭を悩ませ、どうにかして正しい道に戻す事を願っていた他の腐女子達の努力の成果。
まあ、全部が全部そういう腐女子達を駆逐したわけではないが、それでもかなりマシになったのは言うまでも無い。
しかも、紫蘭派と呼ばれる者達は男の娘達を強引に我が物にしようとする、ようは煉国の馬鹿達と同類の者達に対してかなり厳しい対応をとっていた。
時には、実力行使で
潰す。
二度と出来ない様に、ツブす事すらある。
『てめぇら、やって良い事と悪い事があるって分かってるのか?あぁ?!』
と、ある馬鹿男をシメた紫蘭派筆頭――そう、最初に紫蘭と共に男の娘達の大切な者を傷つけようとした馬鹿娘を平手打ちにしたその女性の勇ましさには、凪国上層部すらキュンとした。
そんな彼女は、そのおかげもあって元寵姫の一神に目を付けられ――いや、恋されたが、本神は全く気づいていない。
彼女の口癖は
『モデルとその関係者に迷惑はかけるな』
なので、紫蘭の着衣売りさばき事業も行き過ぎれば注意する。
『確かに売り上げは孤児院に寄付してる。でもね、本気で本気で相手が嫌だ、死にたいぐらい嫌ってなったら止めるのよ!!』
と、その注意に、紫蘭も狙う下着をそれまでの無差別から「こいつは狙っても精神的にタフだから大丈夫だろう」という相手に切り替えたという。
良かった良かった――とは言えないが、まあ、はっきりいってルールも秩序もない、自分達の信じたい事しか信じず自分達のイメージ通りにならなければヒステリーを起こすダメ腐女子達に比べれば、断然マシ。
同じく脳内で穢されるにしろ、最低最悪極まり無い者達に比べれば、話の分かる品行方正な腐女子と言える。
それらのいきさつを思い出した男の娘達は思う。
「そう、マシ、だな」
「ああ、前に比べて断然、な」
「けど……なんていうんだろうな?」
「紫蘭の前に立つと、全てをはぎ取られる様な気分になるのはなんでだ!」
「っか目が脱げって言ってんだよ!」
「口で言うより始末が悪いぞ!」
脳内の妄想が目に色濃く表れている。
しかもその目力は、上層部と元寵姫達の精神を酷く消耗させるものだった。
最終兵器、紫蘭。
きっとどこかの国に投入すれば、ぼーいずらぶ市場を足がかりとしてその国を潰すだろう。
たぶん、武器一つ使わずに精神的に上層部を追い詰めてくれるはず。
まあ、使う気はさらさらないが。
ってか、でなくとも紫蘭は――だし。
そう、彼女は凪国の民だが、ただの民ではない。
一般市民でもないし、かといって貴族というものでもない。
それは上層部の他には信頼おける者達にしか知らされていない真実。
「はは、あれが、浩国の元王妃なんてな」
疲れ果てた凪国宰相――明睡の言葉に全てが集約されている。
紫蘭は凪国王宮に勤める下女。
しかしそれは仮の姿。
本来の立場は、水の列強五カ国の一つ――浩国の王妃。
が、炎水界でも名高い大国の一つたる王妃は。
なんでか凪国王宮の下女として働いている。
その事実にまず驚くものだが、実際にはそんなのは些細なこと。
なぜなら、その元王妃たる紫蘭の腐女子、そしてその枠を越えたイタタっぷりに比べれば浩国王妃という素性すらも些細な事としてしまえる。
ほど、紫蘭のイタタっぷりは凄まじかったからである。
だから、彼らは予想すらしない。
そんな彼らの、紫蘭に対する常識が覆される時が、すぐそこまで迫っている事など――。
★
紫蘭は混乱していた。
昨日はいつも通りの一日だった筈。
いつも通りに公務をこなし、空いている時間は勉学に励んだ。
あ、公務といっても別に大した事はしていない。
殆どは夫や上層部が完璧にこなていて、紫蘭はオマケのような存在だった。
そもそも、夫は紫蘭に王妃としての仕事は望んでいない。
望むのは、隠れ蓑としての立場。
そう――夫が真実愛する、茜音を守る為の盾として。
それが、紫蘭が王妃となった理由、真実。
何処までも冷たい残酷なそれに傷ついた事もあった、泣いた事もあった。
でも、今はもう諦めていた。
これで夫を愛していないならば、まだただの契約として納得出来ただろう。
よりにもよって、夫を愛したと気づいた今の紫蘭にとってはとんだ喜劇でしかない。
しかし、紫蘭はそれを受け入れた。
そして紫蘭がそれを続ける事を提案した。
夫だけが悪いのでは無い。
紫蘭もまた、この残酷たる関係の継続を望んだのだ。
だから、同罪。
でもその罪をおかしてでも、紫蘭は、紫蘭は……。
「……そうだ、あのまま寝ちゃったんだ」
苦しい現実に。
夫が彼女を見つめ、優しく接するのを間近で見せられながらも彼の協力者として振る舞った紫蘭は、一神部屋に戻って泣いた。
昨日は夫も徹夜で仕事だったから、思う存分涙を流すことが出来た。
誰にも言えない、こんな事。
誰にも、相談出来ない、こんな事。
だから紫蘭は一神で泣いた。
声を押し殺し、涙で枕を濡らした。
いつ寝たのかも気づかなかったが、起きた時にはいつもどおりの光景が広がっているのだけは分かっていた。
いつもと変わらぬ日常が続く。
紫蘭が偽りの笑顔を浮かべ、偽りの王妃として過ごす日々が。
カーテンコールと共に、舞台を降りる日まで続く筈だった。
「……ここ、どこ?」
なのに、今起きた紫蘭の目に映るのは、眠る前に居た部屋ではない。
あの広く品の良い部屋だが、どこか冷たさを感じる部屋ではない。
狭く、質素な部屋。
いや、質素といっても生活に必要な道具は全て揃っているし、清潔感と生活感溢れる室内だった。
「……えっと」
室内をキョロキョロと見回す。
やはり、紫蘭の知っている部屋ではない。
ってか、ここはどこだろう?
よろよろと寝台から降り、場所を確認しようと窓へと近づく。
その際、壁に掛かった姿見に映る姿に気づいた。
身につけている服も、違う。
極上の絹の寝間着は、庶民が身につける様な質素な寝間着に替わっている。
ただ、その感触はとても心地よく、そして懐かしかった。
まだ王妃となる前の紫蘭が時々贅沢をした時に、この感触を味わっていたのだから。
豪華だが、絢爛だが、どこか冷たい。
冷え冷えとした空気が漂っていた部屋。
身につける服装は、公費で用意されたものばかり。
夫が妻に贈り物をする事は殆どなかったし、あったとしても、愛する女性を守る同志として、そのお礼としてくれた物ばかり。
上層部もどこか余所余所しかった。
王妃になる前はそうではなかったが、王妃となった後は。
王妃となった事を祝福してくれた。
でも、その日からそれは始まっていたといってもいい。
嫌がらせされたわけではないが、彼らの完璧な姿に尻込みし、そして気づけば紫蘭の方からも距離を置くようになっていった。
彼らだけが悪いのでは無い。
紫蘭もまた、彼らの前から自ら遠ざかった。
彼らだけが悪いのではない。
夫だけが悪いのではない。
紫蘭も、沢山の嘘をつき、そして逃げた。
でも、それが分かっていても紫蘭は動けなかった。
その勇気がないから。
姑息で弱虫で脆弱な紫蘭。
だから、せめて王妃として……王妃として恥じぬように生きたかった。
しかし、それも完璧すぎる夫と上層部を目の当たりにすれば、美しく教養高い貴族の女性達を目の当たりにすれば……紫蘭は自分の不甲斐なさに項垂れるしかなかった。
昔は良かったな
飢える事もなく、着る物に困る事もなく、住む場所に苦辛する事も無くなった現在。
それでも、昔を思い出してはそちらに心が傾いてしまう。
身分も地位もなく、まだ夫とも普通に接する事が出来ていた。
上層部とも、普通に接する事が出来ていた。
今は身代わり。
契約の仲。
仮初めの王妃。
舞台の上で踊る哀れなピエロ。
いつか鳴るカーテンコールに怯え、日々を無為に過ごしていく。
このまま自分は腐り果ててしまうのだろうか。
夫に懸想し、悋気のあまり自分を害そうとした女性達のように。
自分もいつか、夫の愛する者を害そうとするのだろうか。
そうなれば、夫は自分を切り捨てるだろう。
首を切り落とされ、罪神として打ち捨てられる。
でも、そうなれば見ないで済むかも知れない。
愛する夫が、別の女性と幸せになる、姿を。
いや――。
紫蘭は自分を叱咤した。
悋気の末に愚かな行動をする者達を知っているならば、そうならないようにすれば良いだけの事。
相手を愛しているなら、その相手の幸せを願った行動をすれば良いだけの事。
紫蘭は夫を困らせたいわけではない、苦しめたいわけではない。
やっている事は残酷でも、それでも愛しているのだ。
色々と表ではどつきあったり罵りあったりもしているし、酷い事だって言う。
でも――愛して、いるのだ。
初めて出会い、夫が軍を引き、大戦時代をくぐり抜けて……。
ずっと一緒に居た。
それがいつ恋に変わったのかも忘れてしまうほどに。
紫蘭は、夫を愛している。
けれど、夫を幸せに出来るのは紫蘭ではない。
夫が愛しているのも、紫蘭ではない。
だから……。
紫蘭はそっと窓から外を見た。
知らない、場所。
ここは何処だろう?
王妃の部屋で一神休んでいた自分が、どうして見知らぬ場所に居るのか分からない。
ただ、窓が開くという事は監禁されているわけではないだろう。
何せ、ここは一階。
監禁されていたとすれば、窓から容易に出入り出来る場所などは選ばないだろうから。
その証拠に、扉の方に行ってノブを回せばあっけなく開いた。
やはり、監禁ではない。
最初、王妃を疎ましく思う誰かが紫蘭を連れ去ったのかとも思ったが、その可能性は低そうだ。
廊下を歩き出そうとして、紫蘭はまだ自分が寝間着姿である事に気づいた。
「さ、流石に、この格好で彷徨くのは……問題ですよね」
紅葉辺りに見つかれば、凄まじい説教を喰らってしまう。
そうなれば余計に王妃としての資質を問われてしまうだろう。
「え~と……ま、まずは着替えないと」
部屋に戻り、紫蘭は衣装棚から服を引っ張り出す。
と同時に、その服の種類を確認した。
あるのは、どれも庶民の女性が着るような服。
ただ、その中に下女が着るような服があった。
気づけば、それを手に取っていた紫蘭。
何故それを手にしたのかは分からないが、一番質素なその服を慣れた手つきで身に纏う。
そしてもう一度、姿見の前でおかしな所が無いかを確認する。
「……あれ?」
よくよく見れば、紫蘭は自分の異変に気づいた。
髪が短い。
寝る前までは膝裏まであった髪は、背中の中央より少し長いぐらいしかない。
自分で切った覚えはない。
とすれば、自分を此処に連れて来た誰かが切ったのだろうか?
何故?
全く分からない。
周囲に浩国王妃だと気づかせないにしては、方法が生ぬるい。
では、単純に髪の毛が欲しかった?
というか何に使う気だ?
考えれば考えるほど分からなくなる。
「とにかく、誰かを見付けて此処がどこかを聞かないと」
ってか、今になって紫蘭は焦りだした。
というのも、王妃の部屋で眠っていた筈の自分が知らない所に居る。
つまり、王妃の部屋に居る筈の王妃が不在という事。
王妃が不在。
居場所も分からない。
となれば、今頃向こうは大騒ぎになっているだろう。
いや、向こうが分かっていて、というか向こうが公認の上ならば良いのだが、その可能性はあまり高くない気がする。
むしろ王妃に何も言わずに場所を移動させる時点で。
それも目覚めた時にその場に誰も説明相手が以内時点で。
色々と問題があるだろうし。
まあ、とにかく此処が何処なのかを誰かに聞く必要がある。
今度こそ紫蘭は部屋を出ると、そのまま廊下を進んでいく。
自然と忍び足になるのはご愛敬。
玄関となる場所から外に出た紫蘭は、自分が居た建物を改めて見つめた。
「……やっぱり、見た事はないわ」
似たような建物は見た事があるが、たぶんそれとは違う。
といっても、王宮内の全ての建物を紫蘭が知っているわけではない。
しかし、浩国王宮にこんな場所は無かったと思われる。
「……とにかく、誰かを探そう」
そこでふと紫蘭は気づいた。
そういえば、外に出るまでに紫蘭の居た部屋と同じ様な扉が沢山あった。
そこに誰かが居たのではないか?
「……」
慌てて戻り、扉を叩く。
しかし誰も出てこなかった。
そんな二度手間を行い再び外に出てきた紫蘭の耳に、それは聞こえてきた。
荘厳なる鐘の音。
カーン、カーンと打ち鳴らされた音に、紫蘭は耳を澄ませる。
バタバタと建物近くの森から一斉に鳥がはばたく音が聞こえた。
遠くで、神の気配がする。
それも、一神ではなく、数神の。
「……向こうに、居るみたい」
紫蘭は歩き出す。
此処が、何処なのかを知る為に。