19 社訓は出来ていたら掲げてない【ハウ】
ズキズキと頭が痛む。
鉛のような体は、なかなか言うことを聞いてくれずにただ時間が経つのを待っている。
今が何時なのかはわからないが、日が落ちる前に目が覚めて、食事を運ぶ騎士と目があった。
「そう、何人もかけて拘束しなくとも何もしない」
「……ですが、規則ですし、それに……」
騎士たちの瞳に、小さな恐怖が顔を覗かせている。揺らいだ瞳は、数人がかりで捕らえている私を見ているのではなく、過去の私を見ているのだとすぐにわかった。
瞳はあちらこちらと彷徨い、正しい言葉を、と言うよりも私が激昂しないような言葉を探しているように右往左往している。
そうか、やはり私の記憶は願望が見せた夢なんかではなく、現実のものだったのか。
脳裏に、聖女トキ様に口汚い言葉を浴びせていた自分がよぎった。そうか、現実だったのか。ユナを守らなければ、ユナを貶したもの、害をなす者は消さなくてはならないと強く頭の中で脳を揺さぶられた感覚。激情。カッと一瞬で頭に血が昇って、すぐに口から飛び出す快楽にも似た満足感は恐ろしく私の中に残っている。
「とにかく食事をとってください……トキ様が用意されたものです」
「トキ……聖女様か」
「はい、それでは、私達はこれで」
拘束されていた腕が解放されて、ブラン、と腕が揺れる。
去っていく配膳に来た騎士たちと目が合う。
私を憐れんでいるのだろうか。それとも落ちぶれたと嘲笑っているのだろうか。
どちらだとしても、記憶にある自分の断片を見れば当たり前だと思う他ない。
銀の皿に載ったパンと、スープ。
どちらも温かく清潔なプレートに載せられて、丁寧に手拭きまで添えられている。
裁きを受けるのを待つ身にはあまりにも過ぎた対応に、いささか不思議に思うが、鼻に届いた香ばしい香りに、思わず手が伸びた。
ふわりと、ほのかに甘い香りは今まで嗅いだことのないもので。
パンといえばザラザラとした表面が固く、ミルクや水に浸して柔らかくして食すもので、味や食感は二の次。腹が満たせればそれで問題ないようなもので、香りなどは気にもしたことがなかった。
。
それが温かく、さらに手に取れば柔らかく千切れ、パリパリと軽い音と共に茶色い表面が裂け真っ白な中身が現れた。それと同時に香りはさらに強さを増していく。
彼女が用意した、と騎士たちは言っていた。私は記憶の中でどれほど聖女トキが役立たずかと罵ったが、見たことのないパンまで開発していたのか。
経験した事のない、口の中で広がるまろやかな甘みと、サクリと歯触りの良い食感に、どれほどの月日が流れていたのか頭が痛くなってくる。
ユナが、自分の世界の事を話すたびに哀れで不幸な少女だと、守らなくてはいけないのだと強く感じていた。その気持ちは今は何故だかカケラも感じる事ができない。
いや、憐れだとは思っている。
孤独な少女だから、助けなくてはならないという気持ちは嘘ではない。
しかし、どうにも不可解なのは、今までのように感情が激しく昂るような激情は感じなくなっていた事だ。彼女が傷つけられるような事はなんとしてでも、何をしてでも阻止するという強い衝動は今は、無い。
ユナに求められる事が、触れる事が、見つめてもらう事が何よりも優先順位が高く、頭がおかしくなってしまった様な感覚は初めてだった。
操られていた。
誰に。
ユナに。
しっくりくる答え合わせに、胸が苦しくなる。私の中にあった彼女への想いは、偽物だったのか。しかし、これは、何かに似ている。
夢中になり、恥を晒し、外聞も捨てて求めずにはいられない、思い。行動……。はっとした。キュッと息が止まる。自分も魔道士の端くれだというのに、なんと情けない。これは『魅了』の魔法じゃないか。
そう思えば、うまく脳内が整理されていく。曖昧でハギレのように散り散りな記憶。コントロールできない言動、求めるものだけが明確な認識。
とんでもない事だ。
随分と長い間かかっていたとは。
何が魔道士。何が騎士だ。
確かに私はユナに惹かれていた。小さな芽吹きほどの想いは、気がつかないうちに急速に、魅了の魔法により強制的に膨らまされ、表面だけ膨張して破裂した。中身のない、育たなかった小さな思いだけが、ポツネンと私の中で虚しさと共に死んだのだ。
こんなにも美味しく、こんなにも豊かな食事なのに、それを食すと襲い来るのは強い後悔の波。
押し寄せては引いて行き、私の脳は徐々に冷えて冷静になっていく。巡りの遅かった脳が、思い出したかの様に迷路を抜け出て行く感覚になっていく。
頭に、自分の隊の騎士たちの顔が浮かぶ。
頭の中で彼らやもう一人の聖女を蔑ろにしてきた自分が思い出されてくると、大きな失望が自分を襲う。もう遅いかも知れない。
魔道士などと名乗っている以上、恥など捨てて自分にできる事を今一度、願ってみよう。
何故聖女ユナは守る対象である国民、そして味方であるはずの我々護衛にそんな魔法をかけ続けたのか、これが魅了の魔法であると気がつけるのは魔道士である自分とかけられていた護衛の騎士達。我々を操ってまでしたかった事や、聖女トキの追放騒動。その意図は。きっとそれを聞き出す事ができれば、ほんの少し、この国のためになるかも知れない。