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××娘で悪いか。

作者: 試使用Q

 胡乱な脳味噌が惰性的にマウスを動かす。

 深夜二時のネットサーフィンは延々と続く。睡魔が鎌首を擡げているのを感じるが、寝床に就こうという気が全くしない。明日も学校だというのに。

 それもこれも、ささいな悩みの所為だ。

 布団に入った途端、あれこれ考えてしまって眠れない。馬鹿馬鹿しい。考えたところでどうこうなる問題じゃないのに。でも考えてしまう。

 気づくとユーチューブを開いていた。

 観たいものがあるわけではないが、上から下へと画面をスクロールしていく。

 猫の動画、犬の動画、馬、チンチラ、レッサーパンダ、ワモンアザラシ……。

 おすすめに表示さるのは動物のサムネイルばかり。

 その中に一つ目を引くものがあった。


『ひめちゃんのバイオ4実況 パート7』


 その動画のサムネイルは毛むくじゃらの生き物ではない。髪をポニーテールに結った美少女だ。年の頃はぼくと同じ十五、六といったところだろうか。フリルの付いた服を着た彼女は、蠱惑的な微笑みを浮かべている。


「………………」


 光に呼び寄せられる蛾のようにマウスを動し、気づけば動画を再生していた。

 途端、甲高いながらも耳心地の良い声が流れ出す。


『こんにちは! 夜の場合のために、こんばんは! ひめちゃんねるにようこそ!』


 有名なホラーゲームを実況しながらプレイする動画のようだ。

 ひめちゃんと名乗る女の子は、挨拶を済ませるなり早速ゲームを始めた。

 それをぼんやりと眺めるうち、ぼくは既視感を覚えるのだった。


 ――――この子の動画を初めて観たはずだ。

 ――――しかし、この子の顔に見覚えがある。


 これは一体どういうことだろう?

 寝落ちするまで終ぞ既視感の正体はわからなかったが、後々その答えを知ることになる。そしてその時、馬鹿げた勘違いから、危うく〝ひめちゃん〟を殺害しかけることになった。


***


 青少年の脳を破壊する、恐るべき病『恋』。

 その病に冒された者の多くは、平生からは想像できない奇行に走る。

 症例を挙げると、


『後年に発見したら精神を苛むポエム集の乱造する』


『クールキャラを演じるべく、アンニュイな感じに「やれやれ」と殊更に連呼する』


『意中の人のあられもない姿をして、脳が壊れたかのように××行為に耽りまくる』


 などがあるという。

 ……本当に恐ろしい病だ。ある意味、黒死病やらペストより恐ろしい。

 そんな恋に冒された人間が、ぼくの周りにも一人いる。

 幼馴染である鈴木理央だ。

 先に挙げた症例からはグレードダウンするが、それでも彼は恋の奇行に走っていた。

 意中の人が友人達と「放課後ファミレスで試験勉強しようよ」と話しているのを盗み聞きし、あろうことかその店に先回りをやってのけたのだ。

 なお、元来の彼は分別のあるヘタレ男子だ。

 好きな子と話そうものなら委縮し、動悸息切れ眩暈に見舞われて挙動不審になる。

 そんな彼がストーカー入門編染みた行為をするとは、つくづく恋という病の恐ろしさを思い知らされる。


「……まあ、それはそれとして――――」

 ぼくは不平不満を口にする。

「――――ストーカー入門編にぼくを巻き込むなよ」


 テーブルを挟んで向かいの理央は苦笑いを浮かべ、


「……ストーカーだなんて酷いなぁ。全然違うよ」


 と情けない声をあげた。

 理央は中性的で整った顔立ちをしている。ヘタレな性格でなければモテていたことだろう。

 しかし、先に述べた通り、意中の人と話そうものなら挙動不審になるので、恋愛におけるカーストに関しては残念なところに位置している。まあ、ぼくも人のことを言える立場ではないが。


「ストーカー行為じゃないって言うならなんだよ」


「……えっと……恋の待ち伏せ?」


「恋ってつければ何でも許されると思うなよ?」


 因みに、理央の意中の人である『姫島さん』はまだ来ていない。

 姫島さんとは同じクラスなので、授業の終わりは同じタイミングだ。

 しかし、「『偶然』同じファミレスに居合わせた」という体裁にするため、ぼく達は大急ぎでこのファミレスに先回りしたのだった。

 後からぼく達が入店したら、姫島さん目当てと思われかねない。しかし、先にぼく達が入店しておけばそうは思われないだろう、と理央は考えたのだ。小賢しい。

 午後三時の店内には、制服姿の男女がちらほらいた。他の学校もテスト期間中なのだろう。彼等はテーブルの上に教科書とノートを広げて熱心に勉強している。

 斯く言うぼくも雑談をしつつ、教科書に目を通している。

 ところが、理央は勉強道具に目もくれず、さっきからずっと入口をじっと眺めている。


「いい加減勉強しろよ、理央。明日もテストなんだぞ」


「うん。わかっているよ……」


 理央は生返事をするものの、武道の達人のように視線を切らない。

 まるで、邪悪な思念波をそこに送り続ければ、全裸の姫島さんが特殊召喚されると信じて疑わない精神異常者みたいだ。

 それから程なくして、


「わっ、わわっ、来た」


 と興奮気味ながらも、声を潜ませて理央が言った。

 入口を見遣ると、姫島さんとその仲間達が入店するところだった。

 姫島さん。

 バスケットボール部に所属している彼女は、すらりとした体型をしている。目が大きくて色白で、艶やかな黒髪を一つに結っている。運動部の癖にいつも身綺麗で良い匂いがするので、十メートルほど離れた此処までいい香りがしそうだ。

 姫島さん達はぼく達の存在に気付いていない。ぼく達の席から離れた席に通されると、店員さんになにかを注文し、直ぐに勉強に取り掛かった。

 理央はそんな姫島さんの様子をじっと見つめる。

 まるで、淫靡な思念波を彼女に送り続ければ、恋愛が成就すると信じて止まない精神異常者みたいだ。

 堪らなくなってぼくは声を発した。


「……そうやって見てないでさ。話しかけに行けばいいじゃん」


 すると理央は顔面を引き攣らせる。


「無茶言うなよぉ。緊張して無理」


「はあ? じゃあ、なにしに来たんだよ?」


「俺はこうやって彼女の姿を見るだけで大満足」


「ヘタレか。折角学校の外で会ったんだから、なんか話しかけてこいよ」


「そうは言ってもさぁ、なに話せばいいかわかんないんだよね」


「……むっ、確かに」


 確かになにを話せばいいのか、ぼくにも皆目見当がつかなかった。


「女の子となに話せばいいんだろ。見当もつかないよ」


「…………」


 はぁ、と嘆息すると夢見る乙女のような表情で理央は言う。


「それにしても、姫島さん、相変わらずかわいいなぁ」


「……そーだね」


 ぼくは気のない返事を返す。


「姫島さんって恋人いるのかなぁ」


「あーいう分け隔てない子は、筋骨隆々の柔道部に手籠めにされるのが定石」


「……手籠めって。薄い本じゃないんだから」


「もしくは、チャラい家庭教師から快楽を教わるってパターンも考えられる」


「なんでそういう酷いこと言うん?」


「だって、あーいう美人に恋人がいないことの方が無理あるだろ。『わたしぃ、男性とお付き合いしたことないんですぅ』って言っているアイドルは、九割の確率で健康優良不良男児と不純異性交遊しているって省庁から試算も出ていることだし……」


「だとしても、俺は信じるよ。姫島さんには恋人がいないって」


 それから深く息を吸い込むと、理央は真剣な面持ちになった。


「……昨日も言ったけどさ。このテストが終わったら、俺告白しようと思うんだ」


 ――――この戦争が終わったら俺結婚するんだ。

 そんな死亡フラグ的台詞を宣う理央に対し、ぼくは暫し二の句が継げなくなってしまう。


「……昨日からどうしたんだよ」気を取り直してぼくは言う。「急に告白だなんて? ガラにもない。マジで近日中に死ぬの?」


 茶化すというよりは、幼馴染の唐突な一大決心に俺は恐怖してしまう。

 なんか悪い病気でも見つかったのか?

 しかし、理央は平気な様子で首を振る。


「死なないよ。単にこのタイミングしかないと思っただけだよ。期末テストが終わったら直ぐに春休みでしょ? それが明けたら二年生のクラス替えだから、彼女とは違うクラスの可能性もあるじゃん。そしたら、もう二度と接点が無くなるし……」


「今だって接点って殆どないじゃん。同じクラスってだけで、数える程度しか話したことないわけだし」


「確かにそうだけどさぁ。そういう直截的な事実の陳列はやめてよ。泣くよ?」


「ごめんごめん」


「兎に角、玉砕覚悟で俺は頑張るつもりなの。幼馴染なんだから応援してよ」


「…………」


「なに? 応援してくれないの?」


「……応援するよ。まあ、頑張れ」


 話しかけに行くことすらままならない男が、告白なんて相当難しいような気がするが……ぼくは敢えてそこは口にしない。

 流石にこれ以上茶化すと可哀想だからだ。ぼくにだってそういう優しさはある。


***


 それから暫く勉強をしてから、ぼく達は岐路に就いた。

 尤も、理央は姫島さんを見るばかりで、全く勉強をしてはいなかったが。

 家に着くとぼくは居間のソファに寝転がり、数学のノートを眺める。

 昨日あまり寝られなかったこともあって、なんだか気分が上がらない。

 ……そういえば、昨晩観た『ひめちゃん』ってユーチューバーを、どっかで見たような気がしたのはなんだったんだろう? 寝不足で頭がバグっていたから、根拠のないデジャヴを感じたのだろうか。

 ……ひめちゃん、ひめちゃんか……まさか姫川さんが変装して『ひめちゃん』として活動しているなんてことはないだろうか……でも、それなら直ぐに気づきそうなものだが……殆ど接点がないとはいえ、クラスメイトの顔ぐらいは見分けがつく筈だ……しかし、化粧は人の印象を大きく変えるって言うし……ぼく自身が化粧をしないからか、全く見当がつかない。

 そんなことをぼんやり考えていると、キッチンにいる母さんが「あきちゃん」とぼくを呼んだ。

 顔を上げると母さんがタッパーを差し出した。


「これ。理央ちゃんトコに持って行きなさい」


「なにそれ?」


「肉じゃが」


「またか」


 理央の両親は共働きだ。

 共に忙しい職種らしく朝から晩までいないことが多く、理央が自分で食事を用意することは日常茶飯事だ。

 そんな理央の状況に対し、おせっかい焼きの母さんは「勉強も家事もやるなんて大変でしょう。良かったら食べて」と結構な頻度でおかずを提供しているのだ。

 晩飯に誘うのも週に一度はしている。

 そして今晩はこの肉じゃがを理央にお裾分けしようというのだ。

 別にお裾分けをするのは構わないが、それをぼくが持っていくのは面倒臭い。


「え~、めんど~い」


 思ったままの不平の声を上げると、母さんは眉を吊り上げた。


「直ぐ隣じゃないの。行ってきてよ」


 母さんが言う通り、理央は隣の家に住んでいるのだ。

 お隣同士の幼馴染だなんて、古典的なラブコメ染みた間柄だ。なぜこうなった。


「……自分で行けばいいじゃん」


「今コーンスープ作っているから、手を離せないの」


「……コーンスープと肉じゃがって……どういう組み合わせだよ」


 母の料理はおいしいが、組み合わせは奇奇怪怪としている。主食がスパゲティーで、主菜が串カツだったときは本気で正気を疑った。普通串カツにはコメだろ。


「あきちゃん!」


「はいはい。わかったよ」


「はいは一回」


「わかったって。それとあきちゃんって呼ぶのやめて」


「はいはい。わかったわよ、晶。じゃあ頼んだわよ」


 ぼくは重い腰を上げる。

 制服から着替えて今はクソダサジャージ姿だ。

 こんな姿で外に出るのは気が引けるが……まあ、理央に会うだけだからいいか。

 ぼくはタッパーを手にすると、家を出てお隣さんちに直行した。マンションなので本当に目と鼻の先だ。

 理央の家のチャイムをピンポーンと鳴らす。

 しかし、なんの反応もない。ぼくと一緒に帰った筈なのに。

 夕飯の材料でも買いに出かけたのだろうか。


「うげぇ。出直さなきゃいけなのかよ。めんどくさい」


 そう呟きながら何の気なしに玄関扉を引っ張ると、あろうことかすんなりと開いた。


「……不用心なやつだな」


 理央はちょっと抜けたところがある。学校から家に帰ってきたら、玄関の鍵が閉まっていなかった、なんてことは一度や二度ではない。

 大方、買い物に行く際に鍵を閉め忘れたのだろう。

 暫く逡巡したものの、「お邪魔します」と言ってぼくは理央の家に上がった。

 このまま放っておいて空き巣に入られでもしたら寝覚めが悪い。

 取り敢えず、このタッパーをダイニングテーブルの所に置いておこう。何度も遊びに来ているから、我が家並みに勝手知ったる家だ。


「あははっ、やだぁ~。全然ダメじゃん。もうわたし無理~」


 靴を脱いで廊下に上がった途端、女の子の声がしたので、驚きのあまり失禁してしまいそうになった。なんだよ、おいおい。

 無人じゃないのか?

 そもそも今の声の主は誰だ?

 理央には姉も妹も居ない。

 お母さんの声ではなかった。若々しい声だった。

 テレビの音だろうか? しかし、BGMらしき音は聞こえない。

 もしかして、理央の恋人だろうか? 彼女いない体でありながら、実は陰で恋人がいたのか? っで、家に連れ込んで×××……そんな所に出くわしてしまったら、厄介極まりない事態になるのは目に見えていた。

 兎に角、出直すとしよう。

 そう思って踵を返そうとしたとき、先程と同じ女の子の声がした。


「このっ、八つ裂きにしてやる! ぶっ殺してやるぞぅ!」


 物騒なその言葉でぼくは足を止める。


「……うっ、ううっ」


 次いで聞こえてくるのは男の呻き声だ。


「むっ? むむっ、しぶといなぁ、コイツめぇ! くたばれぇ!」


 直後、ぐしゃっ、というなにかを殴るりつけるような音がする。


「……うぐっ。あっ、助けて。やめて」


 男が悲痛な声をあげると、女の子は「あははっ! たーのしー」と快哉を叫ぶ。

 ……もしかして、これってヤバいやつか?

 強盗殺人、という物騒な単語が脳裏をかすめる。

 もしそうだった場合、呻き声を挙げているのは、理央である可能性が高い。

 ……助けなくちゃ。

 ぼくは小走りに廊下を進み、キッチンにある包丁を取り出した。相手がどんな凶器を持っているかわからないので、包丁だけでは心許ないが……しかし、たじろいでいる暇はない。

 ぼくは柄をしっかり握ると、女の子の声がする部屋――理央の部屋――に直行した。


「じゃあ、これでお終い。ばいば~い」


 扉の向こうで女の子が言うのを聞きながら、理央の部屋の扉を威勢よく開けた。

 そして、間髪入れずに飛び込み、女の子に包丁の切っ先を向けて威嚇する。


「動くなっ!」


「えっ? あっ? えっ? あっ? えっ?」


 椅子に腰かけていた女の子は、その場で混乱している。


「誰だ、オマエ!」


「……なんで? えっ? なんで? えっ? えっ? なんで?」


 混乱と興奮の所為だろう。彼女の顔は真っ赤だ。

 ざっと部屋を確認する。理央の姿はない。カメラがある。それと照明だ。肌を白く見せる為の白色光が出るやつ。

 女の子は着けていたヘッドフォンを外そうとするので、ぼくは今一度声を張り上げる。


「動くなっ! 答えろ! オマエは誰だ! 理央をどうした!」


「えっ? 理央は、えっ? あっ! あっ、取り敢えず、包丁しまって。怖いよ」


 怖いのはこっちだ。

 得体のしれない女が友達の家で、「死ね」だのと物騒なことを喚いていたのだから。

 女の子は緊迫したこの状況にそぐわぬ、些かファンシーな格好をしていた。ゴスロリっていうんだっけ。こんな状況でなければ「おお、かわいい」と感嘆の声を漏らしていただろう。

 ……ん? って、あれ? 待てよ。

 この顔に見覚えがある。脳内をフル回転させて記憶を呼び起こす。

 そして彼女の名前を呼ぶ。


「……ひめちゃん?」


 ぼくの眼前に居るのは、昨晩目にしたユーチューバーだった。


「えっ、あっ、えっ、あ……うん。そうだよ! ひめちゃんだよ!」


 ひめちゃんはしなを作ってみせた。

 平時だったら可愛いと思っただろうが、こんな状況でかわいこぶられても恐怖しかない。

 狂っているのかコイツは?


「なんでだ? どういうことだ? 理央の知り合いだったのか?」


「えっ!? ……あっ、そうなの! わたし、理央くんのお友達なの! よろしくね、アキ!」


 ……おいおい、まじかよ。鳥肌が立ってきた。


「なんで名乗ってないのに、ぼくの名前を知っているんだ?」


「……えっ? あっ、しまった!」


「怖い。怖い。怖い。誰なんだよ、オマエ!」


「さっ、さっきも言った通りだよっ。わっ、わたし、ひめちゃんだよ!」


 ひめちゃんはウィンクして決めポーズをする。

 平時ならばやはりかわいかったんだろうが、今ではその所作の一つ一つが恐怖の対象でしかない。殺人ピエロと相対したような心持だ。


「怖すぎる。やられるまえにやらないと。腕とか脚とか刺して行動できないようにしよう」


 これって過剰防衛になってしまうだろうか。

 いや、そんなことを考えている場合ではない。

 今一度言うが、やられるまえにやらないと。


「いやいやいや! そっちの方がよっぽど怖いよ! やめてよ、アキ!」


「そうやって怯えるふりでぼくを油断させ、隙を見て攻撃する魂胆か! 怖すぎだろ!」これ以上気圧されない為にも、ぼくは戦慄きながら言う。「オマエ! ……理央に……ぼくの親友になにをした! 場合によっては刺す!」


 すると、彼女は意を決したように大きく息を吸った。


「…………おだよ」


「なに? 声が小さくて聞き取れない!」


 途端に甲高い声ではなくなり、その美少女は聞き慣れた声を発した。


「……俺が理央だよ」


 ――――そう。

 ――――実はこの美少女、男である。


***


「ひめちゃんはゲーム実況に力を入れている美少女ユーチューバーです」


 小宅は「美少女」という部分に力を込めてそう言った。

 翌日に昼休み。場所は教室。

 机を向かい合わせにしたぼくと理央は、横手に座る痩躯の女の子の話を聞いていた。


「伝説の始まり、即ち、最初の動画投稿は約二年前です」


 小宅は眼鏡の位置をくいっと直し、業務連絡のように淡々と捲し立てる。


「最初はゲーム実況ではなく、お世辞にも上手いとは言えないピアノの演奏動画でした。一部界隈では『羊と鋼の森の騒音規制法違反』などと呼ばれていましたが、しかし、私個人の感想としては『寧ろそのたどたどしさが妙味』であり――――」


 小宅の話は延々と続く。

 餠は餠屋とはいうものの、専門家に語らせるのはよくない、とぼくはつくづく思った。

 好きが嵩じて完全に暴走している。とめどなく発される言葉は濁流のようで、意味内容を汲み取ることは到底できなかった。近づくのすら危ない気がする。

 そんな小宅は自らを「無類のユーチューブ愛好家」と称している。

 平時の彼女は礼儀正しい眼鏡っ子だ。髪を三つ編みにした学級委員長だ。

 クラス内でも一番の人格者で通っている。

 しかし、一度火が付くと止まらなくなり、クスリの常習者の譫言のようにユーチューブ愛を滔々と語るのだ。

 そんな小宅が以前「ひめちゃんが私のオールタイムベストなんです。ふふふふふ」と語っていたのを思い出したので、ちょっとした悪ふざけで「ひめちゃん」について聞いてみたところこの様だ。

 もうかれこれ十分ほど語っている。

 こっちから聞いといてなんだが、もう相槌を打つことさえ面倒臭くなってきた。

 しかし、理央はまんざらでもない様子だった。

 機銃掃射のように発される褒め言葉によって、理央、もとい、ひめちゃんの頬は上気し、真夏の犬のように荒い呼吸をしている。

 褒められて興奮するな、変態がぁ!、とチョップしたくなるがぼくは自制する。


「――ところで晶さん」小宅のマシンガントークは小休止。「何故急にひめちゃんのことを聞いたんですか?」


「……まあ、なんとなく、ちょっと気になって」


 まさか、『理央がひめちゃんだと知ったから』とは言えない。


「ふむ。そうですか」


 今の歯切れの悪い理由で納得してくれたらしい。


「老若男女問わず、かわいいものに反応するのは至極当然のことです。これからは晶さんも一緒にひめちゃんを推していきましょう。彼女は地上に降りた天使です。そんな彼女を崇拝しないのは、人として間違っていますからね」


「……あっ、うん。そうだね」


 それから小宅はスマホを弄り、ひめちゃんの画像を表示した。

 それを理央の方に向ける。


「理央くんもいかがでしょう? わたし達と一緒にひめちゃんのかわいらしさを堪能しませんか? ひめちゃんの笑顔は万病に効きます。ひめちゃんの声は不浄の魂を清めます。ひめちゃんの存在は世界平和の懸け橋になります」


「……え?」


 理央は小宅の圧に些かたじろく。

 しかし、ヤバい宗教の布教みたいに小宅は理央に迫る。


「ひめちゃんをかわいいとは思いませんか?」


「えっ、あっ、うん」


「かわいいと思ったら、かわいいと言って下さい」


「……かわいいね」


「さあ、もう一度復唱してください。ひめちゃんは~?」


「かわいい!」


「はい。よくできました」


 ……理央よ、今のオマエはどういう心境?

 その心境はわからないが、引き攣った笑みを浮かべていた。


「ではこれで今日から理央くんもひめちゃんのファンです」


 そんな風に話していると、横手から「なになになに~? なんの話~?」と声がした。

 そちらを見遣ると姫島さんだ。

 途端、理央は弾かれたように居住まいを糺した。


「なにやら楽しそうだね、小宅っち。なんの話?」


 姫島さんは小宅の隣に来ると、スマホを覗き込んだ。

 陰キャであろうと分け隔てなく接してくれる美少女、それが姫島さんだ。

 体育教師が「二人組を作ってキャッチボールをしろ」と悪魔の呪文を放った際、ひとりあぶれたぼくに「わたし達と一緒にやろうよ」と彼女ならきっと言ってくれるだろう。

 そう思わせるほど彼女は優しい。

 まあ高校入ってからこっち、そんな状況は一度もないが。

 とにかく、姫島さんは運動もできて器量も良いのに、その上、社交的な性格なのだ。

 運動音痴で器量も微妙で、社交性は絶望的なぼくと比較すると……よそう。比較するほど欝々とするだけだ。

 なお、スマホを覗き込む際に姫島さんがちょっと前かがみになったので、ほんの僅かに谷間が見えそうになるが……初心でヘタレで生真面目な理央はさっと視線を逸らす。

 真面目かッ! ストーカー紛いのことをやった癖にッ!


「あっ、この子覚えてる!」と姫島さんは言う。「前に小宅っちが教えてくれたユーチューバーだよね?」


「ええ。その通りです」


 オマエ、姫島さんにも布教しているのかよ。


「確か名前はびちゅたん!」


「ひめちゃんです。そんな下痢の擬音みたいな名前ではありません」


 昼時に下痢とか言うなよ、小宅。


「あははっ、そうだった! ひめちゃんだったね!」


 姫島さんは続けて言う。


「かわいいね。いいなぁ、私もこんなにかわいかったらなあ」


 理央が頬を赤らめて俯き、僅かに震えているのがわかる。

 そして、目も当てられない程のニヤケ顔だった。


***


「えへへっ、聞いた? 姫島ちゃん、わたしのことかわいいだって」


 ひめちゃんモードだと一人称は「わたし」になり、口調も少々変わるようだ。

 今の理央は理央であって理央ではなくひめちゃんであった。

 ぼくにばれた件についてはどうでもよくなったらしい。

 色々と吹っ切れたらしい理央、もとい、ひめちゃんに招かれて家にやってくると、ぼくを出迎えたのはフリフリな服を来た美少女(男)であった。

 勉強する気満々で理央の家にやって来たぼくは流石に面食らった。相変わらずかわいらしいが、それが十年来の友だと思うと……脳がバグる。

 因みに、「なんでその恰好なの?」とぼくが問うと、「こっちの方が勉強に集中できるの♪」とのことだった。

 曰く、自宅ではひめちゃんモードで過ごすことの方が多いらしい。

 ……ぼくは集中できないんだが?

 それはさておき、理央の部屋に通され、勉強用の座卓の前に座るなり、「えへへっ、聞いた? 姫島さん、私のことかわいいだって」と嬉しそうに言うのだった。


「……よかったね」とぼくは言う。「ところでなんでぼくの隣に座るんだ?」


 理央の部屋で勉強する際、いつもは座卓を挟んで座っていた。

 ところが今日は何故かすぐ隣に座っている。そしてやけに体をぼくに密着させてくる。その上、いつもは胡坐のなのに今日は正座だし。

 更に彼女からはいい匂いがしてくるし……ぼくの脳がバグりそうだ。


「こうやって勉強した方楽しいかなって思って」ひめちゃんは上目遣いで言う。「もしかして、アキはこういうのいや?」


「……いやじゃないけど」


「そっか!」天真爛漫な笑みを浮かべ、ぼくの二の腕に触れるひめちゃん。「よかったぁ!」


 ……コイツはいつもの理央じゃない。

 いつもの理央はもっとヘタレで生真面目な男の筈だ。

 だというのに、ひめちゃんモードの彼はやけ距離感が近く、その上、さりげないボディタッチだ……完全に魔性の女だ……。ぼくがぼくじゃなかったら、きっとひめちゃんに対して理性を失っていただろう。薄い本みたいなことになっていたに違いない。


「……おいおい。どうしたんだよ、理央? 変だぞ、オマエ」


「どうしたってなにが? そもそも理央ってだあれ?」


 ひめちゃんは少女のようにかわいらしく小首を傾げる。


「……ねえ、割とマジで怖いから一度理央に戻ってくれない?」


「アキちゃんが言っていること、よくわかんない。戻るってなに? 私はいつだってひめちゃんだよっ!」


「……やめて。頼むから。怖い」


 ヒッチコックの映画を思い出しちゃう。


「もしかして、わたしのこときらいになったの?」言うなり彼女はぼくの腕に縋りつく。「やだよ、アキちゃん! わたしのこと嫌いにならないでっ!」


「怖い! 目を覚ませ!」


 反射的にぼくはひめちゃんにビンタをしてしまう。

 ああ、しまった。こんなかわいい子に手を上げてしまった。

 ひめちゃんは叩かれた頬を押さえ、驚愕の表情で唖然とする。


「ごめん、理央。つい……」


「いや、俺こそごめん。時々こうなっちゃうんだ」


 いつも通りの声色に戻った理央は、座卓の向こうに移動して胡坐をかいた。


「……時々こうなっちゃうって? どういうこと?」


「ひめちゃんになりきり過ぎて、自分が自分でなくなってしまうんだ」


「なにそれ怖っ」


「だから今は程々にひめちゃんを演じるよ」


「え? ひめちゃんを演じるのはやめないの?」


「逆に聞くけど、この格好でいつも通りの俺のままだと、違和感やばくない?」


「……確かに」


「だからひめちゃんモードでいかせてもらうよ」


 だったら着替えればいいじゃん、って思ったが、その言葉は呑み込んだ。

 好きな格好をすればいい。ぼくはそれを否定しない。

 でも、気になることは気になるので訊くことにする。


「どういう経緯でひめちゃんになったんだ?」


「以前ユーチューブで女装をやっている配信者を見かけたんだ」


 ひめちゃんモードに声色を変えた理央は言う。


「試しにわたしもやってみたの。そしたら自分で言うのもなんだけど~、かわいくってさ」


「……へぇ」


 理央とは違いひめちゃんは自分に自信があるようだ。いいことだ。


「でっ、試しに動画配信を始めたの。そしたら、視聴者のみんながコメント欄で『かわいい』って言ってくれたんだ」


「まあ、確かに異論はないな」


「理央として褒められたり、好かれたりしたことが殆どなかったら知らなかったけど……そういうのってすっごい気持ちいいんだよっ」


「それで二年間も配信を?」


「最初はね、数回でやめようと思ったんだよ。でも、皆が『かわいいかわいい』って褒めてくれて、『ひめちゃんをもっと見たい』って言うから……それが嬉しくって……嬉しくって……今に至ります」


「……頼まれたら断れない性質か。随分とちょろいやつだな」


 別に否定するわけじゃないけど、悪い男に引っかかりそうで怖いな。

 すると、理央は柏手を打った。


「そうだ! アキちゃんにもお化粧してあげようか? もっと可愛くなってわたしの気持ちがわかるはずだよ!」


「お断りします」


「えー」


 そもそも「『もっと』可愛くなって~」ってどういう意味だよ?

 色々と誤解を招く言い方をするな。


「……もっと立ち行ったこと訊いてもいい?」


「なんでも訊いて! アキちゃんの質問はなんでも答えるよ!」


「じゃあ、お言葉に甘えて……。あのさ、男が好きだったりする?」あっ、とぼくは言う。「安心してよ。ぼくは同性愛を差別するつもりはないから」


「……いや、だからさ」目を丸くしたひめちゃんは理央の声に戻る。「前から言っているけど、姫島さんが好きなんだって」


「本当は男が好きだけど、それを隠す為に嘘ついていたりは?」


「しない。さっきから言っているように、かわいいかっこするのが好きなだけ」


「へえ」


「かわいい?」と声がひめちゃんに戻る。


「……悔しいけどかわいい」


「えへっ、もう一度聞くけど、わたしかわいい?」


「かわいい」


「かわいい?」


「かわいい。かわいい」


「えへっ、えへへへっ、ありがとう。アキもかわいいよ。しゅきっ」


 座卓をぐるりと回ってこっちに来ると、ひめちゃんはひしとぼくに抱きつく。

 ……コイツ、胸に詰め物してやがる。Dはありそうだ。


「おい、やめろ。理央に戻れ」


「あっ、ごめん。うれしくってつい」


***


 理央が座卓の向こうに戻り、ぼくらは暫し真面目に勉強を続けた。

 本当にひめちゃんモードだと集中できるようで、昨日のファミレスの時よりよっぽど理央は真面目だった。その分ぼくは些か集中できないが。


「……ずっと気になっていたんだけどさ」


 とぼくは沈黙を破る。


「なあにぃ?」


「名前が『ひめちゃん』なのは姫島さんから来ているの?」


「…………」


「おい。黙るな」


「そうだよ。世界で一番かわいい子の名前から取ってきたの」


「…………」


「黙らないで! ドン引きしないで!」


「姫島さんが知ったら、どういう気分になるんだろうな」


 自分を好いている男がこんなにかわいくって、しかも、自分を意識して名付けられた『ひめちゃん』って名前で活躍していると知ったら……どうなるんだろう? 想像できない。

 すると、理央は真剣な面持ちになった。


「……アキに限ってそんなことはしないと思うけどさ」


「なに?」


「昨日も言ったけど、他の人には言わないでね」


「言わん。言わん」でも、とぼくはふざける。「大ファンの小宅には言っちゃうかも」


「絶対やめてね。『女の子だと思ったのに! 私の期待を裏切るなんて酷いです! 死で贖え!』ってなるかもしれないから」


「……ははははは、冗談だって」


「わかっているよ。けど、正直な話さ」と彼は真剣な表情になる。「アキだからこうしてられるけど、他のクラスメイトにバレたら、普通に気持ち悪がられるよね」


「……ぼく達のクラスは人格者ばっかりだから、村八分にはされないだろうけど」


「だといいけどね」と理央は皮肉っぽく笑った。「でも絶対、以前と同じようには接してくれないだろうなぁ」


「安心しろよ。誰しも多かれ少なかれ、人と違う部分や言えない秘密は持っているさ」


 しかし、その言葉が空虚なのもぼく自身がわかっていた。

 誰しも秘密があるという前提があっても、暴かれた秘密によって人は人を迫害する。

 ぼくも中学時代に経験がある。大多数は奇異なものを爪弾きにするのだ。


***


 その晩、ぼくは寝床でひめちゃんについて簡単に調べた。

 小宅から聞いた通り、ゲーム実況が主たる活動であるらしい。

 他にはツイッターで日常的なことを呟いているようだ。


『フロランタンうまい』

『好きな漫画家さんが休載で残念。ドラゴンボールで世界中の漫画家さんの腰を治したい』

『通学路にカイワレ大根のパックが落ちてた』


 などと取り留めのないことを呟いている。

 その他、路上で見つけた野良猫の写真などもUPしていた。


***


 翌日の昼休み。教室にて。

 いつものように飯を食っていると、出し抜けに理央が真剣な面持ちになった。


「俺、腹括ったよ」声を潜めて彼は言う。「テスト期間が終わったら、姫島さんに告白する」


 テスト期間の終わりは明々後日だ。


「……マジ?」


「大マジだよ。彼女を呼び出す為の手紙はしたためてある」


 彼は胸ポケットからちらりと紙を覗かせた。

 今時SNSを利用せず、手紙で連絡するのは、彼が古風な人間だから……ではない。

 ただ単純に姫島さんのアカウントを知らないのだ。


「……どうやら本当に本気みたいだな。告白するする詐欺かと思ってた」


 あしたっていまさっ!、と言わないポコだと思っていた。


「アキのお蔭だよ。ひめちゃんのことがバレたことで開き直った。なんか度胸がついたよ」


「へえ」


「ありがとう」


「どういうお礼だよ」複雑な気分だ。「……まあ、頑張れよ」


「だけどその前に現状について調べないと」


「現状?」


「姫島さんに『高身長高学歴肌艶良しの恋人』がいたら打つ手なしでしょ?」


「ああ、なるほど」けど、とぼくは問う。「どうやって探りを入れるんだ?」


「それについてはアテがいるよ。小宅さんだ」


「なるほど」


 確かに小宅は適任だ。

 というより、消去法で小宅しかそれができる人間がいない。

 ぼくは陰キャ、理央はヘタレ、小宅はコミュ力のあるオタク。クラス内の人間関係について、一番知っていそうなのは小宅だ。姫島さんと普通に話せるのも、彼女くらいだし。

 程なくして、小宅が御手洗いから戻ってきた。


「やあ、本日の主役殿。お待ちしておりました」


 ぼくがふざけて言うと、小宅は「なんですか?」と眉をひそめた。


「……あのさ」おずおずと理央は言う。「小宅さんって姫島さんと結構仲いいよね?」


「姫島さんは誰とでも仲が良いです」


 ……確かにそうだけど。仲良さは人それぞれ違うだろう。


「彼女に恋人がいるかって知っている?」


「なぜそんなこと……」すると小宅は、ははん、と合点が言ったような顔をする。「……なるほど。そういうことですか」


「そういうことですか、ってどういうこと?」理央は不安そうな顔をする。「なにがわかった? なにがわかっちゃったの?」


「わざわざ言う必要ありますか。そもそも、そういうのに疎い私でも、理央さんの言動を見てればわかりますよ。ナメック星人でもわかります」


 いや、流石にナメック星人はわからないですね、と小宅は言う。


「なんにせよ、姫島さんの恋愛事情については存じておりません」


「……そっか」


「折を見て聞いてみますよ」


「えっ、あっ、いやっ、いいよ。そこまでは。やっぱそういうのは……」


「承知いたしました」


「……やっぱ聞いて」


「承知いたしました」


「ありがとう。とても助かるよ」


「期待しないで下さいよ。私はコミュ障オタクなのですから」


 嘘吐け。

 コミュ障は好きなユーチューバーの布教活動なんてしねぇよ。


「……その代わりというわけではないですが、今日一緒に勉強しませんか? 明日は苦手な英語なので」


 英語が苦手だというのは知らなかった。

 ……いや、待て。

 以前小宅が英語で良い点を取っていた気がする。確かクラス内でも五本の指に入っていた筈だ。

 これだから頭がいいやつの「苦手」だとか「全然勉強してないよ」は信用ならない。


「ああ。いいよ。アキと一緒に俺の家で勉強するのはどう?」


「ご迷惑でなければ、是非お願いします」


 自宅に女性を平然と誘うのは、ヘタレな理央らしくないが……しかし、理央から見て小宅は友人の一人だから意識せずにできるのだろう。ぼくもその場に同席するわけだし。


「小宅さん、うちに来るの初めてだよね? 俺の家、徒歩で十分の距離にあるんだ」


***


 授業を終えた後、予定通りにぼく達は理央の家に直行した。

 勿論、小宅も居るので今日の理央はひめちゃんモードではない。

 理央の部屋に置かれていた撮影の為の道具も仕舞われていた。


「ここが理央さんの部屋ですか」


 部屋に入ると感慨深げに小宅は言い、そして真剣な面差しで窓の外を眺めた。

 それから暫く黙っていたが、彼女は小さな声で「やっぱり」と呟く。


「どうした?」


「いえ。なんでもありません」


 それからぼく達は座卓の前に座り、いざ勉強を始めようとしたところで、「突然ですが」と小宅は前置きをした。


「私が推している『ひめちゃん』というユーチューバーを覚えていますか?」


「覚えているよ。ポニーテールのかわいい子でしょ?」


 とぼくは答える。

 なにせ、隣で顔を強張らせている男だからな。


「そうです。ポニーテールの天使です」


「それがなにか? また布教の話?」


「いえ。ちょっとした雑談です」小宅は続けて言う。「ここだけの話、ひめちゃんが男かもしれない噂があるんですよ」


 理央はギョッとして、更に表情を硬くする。

 ……馬鹿。そんなあからさまに反応するな。ばれるぞ。

 仕方がないのでぼくはわざとらしく笑い飛ばす。


「男ぉ? はははっ、まっさかぁ? ありえないよ。あんなにかわいい子が男の子なわけがないじゃん」


 自分で言うのはなんだが、ひどい科博だった。

 だが、ぼくのそんな演技を歯牙にもかけずに小宅は首を振る。


「しかし、今わかりました。事実、ひめちゃんの正体は男でした……」


「なにが言いたい?」


 本来ならば理央がなにかしら言うべきだろうが、当の本人は「ひゅっ、ひゅっ、ひゅっ」と過呼吸みたいになっているのでぼくが代わりに問う。


「その反応、晶さんも知っているんですね」小宅はこちらを見遣る。「ひめちゃんが誰なのかを?」


「突然なにを言っているんだ?」


「白を切らなくていいです。もう私にはわかりました―――」


 ためにためて彼女は言う。


「――――理央さんの正体がひめちゃんだということを」


 そこは「ひめちゃんの正体が理央さんだってことを」って言うべきじゃないか?、と思うがどちらにしても同じか。いや、同じじゃないのか? わからない。ヤバい。ぼく自身も混乱している。


「理央さん、いや、ひめちゃん。一つお願いを聞いてくれませんか―――――?」


***


 先日理央が発した言葉が脳内で揺曳する。

「他のクラスメイトにバレたら、普通に気持ち悪がられるよね」


***


 教室に入った途端、室内の異様な空気に気付いた。

 クラスメイトの多くが声を潜めてなにかを囁き合い、薄ら笑いを浮かべてこちらをちらちら見ているのだ。朝のHR前はいつも騒然としているのに、今日は不気味なぐらいに静かだ。

 居心地の悪い視線の中を進み、ぼくは自分の席に着く。

 前の席の理央はまだ登校していないようだ。

 なので、隣の席の小宅に質問する。


「なにかあったのか?」


 すると小宅は微笑を湛え、


「なにもないですよ」


 とだけ答えた。


「でも、なんか変な雰囲気じゃないか?」


「さあ?」


 ぼくに向けられていた視線は、いつの間にか無くなっていた。

 それから暫く囁きとくすくす笑いが続くと、理央が教室に入ってきた。

 すると、待っていましたとばかりに、クラスメイトがそちらを見遣った。

 そして、間髪を入れずに野球部の田中が立ち上がる。

 坊主頭で身の丈百八十センチある彼は満面の笑みを浮かべ、驚くべき言葉を発した。


「おはよう、ひめちゃん!」


 途端、堪えきれなくなった一部のクラスメイトが「はははは」と嘲笑をする。

「え? は?」真っ青になった理央は立ち尽くす。「なんで?」

 隣の小宅を見ると、口元を抑えて笑っていた。


「小宅から聞いたんだよ。オマエが女装癖のある変態だって。動画も観たぜ」


「…………あっ、いや、俺は……」


「『俺』だなんて無理すんなよ、ひめちゃん。いつも通り『わたし』って言えばいいだろ」


 周りの人間が更にクスクスと笑う。


「つーか、俺さぁ、ひめちゃん結構タイプだわ。今度から学校来るときはひめちゃんになってくれよ」


「…………」


 過呼吸のように荒い息遣いをする理央は、なにかを言おうとするも言葉にならない。


「そーいえばさぁ、これも小宅から聞いたぜ」


「…………」


「姫島のことが好きなんだろ?」田中が姫島さんを見遣った。「姫島的にはひめちゃんはどうなの?」


 すると姫島さんはそっぽを向いた。


「……やめて。私に振らないで」


「そう言うなよぉ、姫島。是でも非でも、ひめちゃんの気持ちに返事してやれよ」


「…………」


「なあ、姫島ぁ」


「……キモチ悪い。話しかけないでね、ひめちゃん」


 全員が声を上げて笑った。


「俺も同感! 男の娘ってやつ? キモッ!」


 すると我慢の限界に来たぼくは立ち上がり、自分でも吃驚するぐらいの大声を張り上げていた。


「男の娘で悪いか! このくそ坊主が!」


 興奮のあまり変なことを口走っていることはわかる。なにが「男の娘で悪いか」だ。もっとちゃんとした諭し方があるだろうに。キレ方があるだろうに。馬鹿だ、俺は馬鹿だ。

 でも、ぼくの怒りのほどはわかったはずだ。

 ぼくの親友を馬鹿にするな!

 どんな格好をしたっていいだろうが!

 陰キャが急に声を張り上げたからだろう、教室内が水を打ったように静まりかえった。

 気付くと田中が真顔になっていた。そして「三田ぁ」とぼくの苗字を呼ぶ。


「……三田ぁ。オマエのそーいうキャラ作り、はっきり言ってイタ過ぎんだよ」


「……別にキャラを作っているわけじゃない」


「はっ、理央とお似合いじゃねぇか。付き合っちまえよ」


 すると、静まりかえっていたクラスメイト達が笑い声をあげた。

 田中も小宅も姫島さんも大笑いだ。

 そんな中、浮かない顔の理央が呟いた。

 教室内が騒がしいというのに、彼の声だけは確りとぼくに届く。


「……やだよ。アキなんか」


***


 布団を撥ね飛ばしてぼくは起き上がった。

 そして辺りを見回し、ここが自分の部屋であることに気付く。


「……夢か」


 布団の上で上体を起こしたぼくは胸を撫で下ろす。

 しかし、先程の夢が現実のものになるかどうかは小宅の胸三寸であった。


***


 重い足取りで登校するも、夢で見たような事態にはなっていなかった。

 理央が『ひめちゃん』であると茶化す者はいない。いつも通り理央が注目の的になることはなく、ましてや、ぼくが俎上に載せられることはない。

 折を見て小宅と昨日の『ひめちゃん』について話したかったが、しかし、どう切り出せばよいかわからなかった。そんなわけで、午前中は終ぞ話かけることができなかった。

 ヘタレの理央も同様のようだ。なんともいえぬ表情で小宅に視線を送るも、いつも通りに気安く話しかけられない様子だった。

 元より、今日はテスト期間中なのだ。

 テスト中は当然のように話しかけられないし、授業の合間は小宅が熱心に復習しているので声を掛ける余裕がない。連日の事柄でうまく集中できないが、ぼく自身もテストを頑張らなければいけないし。

 昼休みも不漁に終わった。


「今日の昼休みは図書館で勉強して過ごします」


 そう宣言すると物凄い速さでゼリー飲料を飲み干し、電光石火の速さで教室を出て行ったのだ。

 そんなこんなで、蛇の生殺し状態で午後の授業も受ける羽目になる。ただでさえ集中できないのに……一年生最後のテストは最悪の結果になりそうだ。


「理央、今回にテストはどんな感じ?」


 移動教室からの帰り道、隣を歩く暗い顔の理央に尋ねる。


「ボージョレーヌーボー風に言うと、並外れて最悪なテストって感じ」


「そっか」


「アキは?」


「記憶に残る極悪な手応えって感じ」


「そっか」


「……」


「……」


「……小宅、オマエの秘密を暴露しなかったみたいだな」


「お願いとやがあるみたいだからね」


「なんか聞いた?」


「なにも」


「そっか」


 低いテンションでそんな会話をしていると、


「おーい、三田ァ」


 と後ろからぼくを呼ぶ声があった。

 振り返ると坊主頭の田中が迫ってくる。

 今朝の夢を思い出して、ぼくは無意識的に身構えてしまう。


「……なんだよ、田中」


「こっちこそ『なんだよ』だよ。何故睨む」


「…………」


「何故ファイティングポーズと取る」


「……ごめんつい」


 昨日の夢の所業を思い出して、つい睨んでしまうのだ。


「ついってなんだよ。わけがわからねーよ」ほらっ、とぼくの名前が書かれたノートを差し出す。

「さっき教室にノート忘れていたぞ」


「……あっ、ありがとう」


「学校のテストなんかでナーバスになっているんじぇねーよ。そんなんじゃ、受験の時に胃に穴空くぞ。肩の力を抜けって。オマエ、俺と違って頭いいんだし」


 実は現実の田中は普通にいいやつだ。

 些かぶっきらぼうな話し方だが、面倒見がいい坊主頭だ。

 ぼくが再び礼を言うと、田中は片手を挙げて去っていった。


「クールな去り方だなぁ」


 理央は感心したように言う。


「そうか?」


 なんて話をしていると、今度は後ろからぬっと小宅が現る。


「理央くん、晶さん、本日のテストはお疲れさまでした」と彼女は言う。「昨日の件について放課後に話せませんか?」


***


 テスト最終日を明日に控えた今日も、ぼく達は理央の家で勉強することになった。


「……それで」ぼくは理央の姿を見て言う。「なんでひめちゃんモードなんだ?」


 理央はまたぞろポニーテールを被り、化粧をして美少女に変身している。


「できたら、ひめちゃんの格好をして話がしたいって小宅さんがいうから……」


 放課後に小宅が話そうというので、積もる話もあるので場所を理央の家にしたのだ。寄り道をするというので、あとで小宅が此処に来ることになっている。


「……先日お願いがあるって言っていたよな」


「うん。そうだったね。なんだろ」


「もしかしたら、言い寄られるんじゃないか?」


「えぇっ、そんなのあり得る?」


「わかんないけど……でも、薄い本ならよくある話じゃん」


「薄い本って……」


「ぐへへへ、バラされたくなければ、わたしと付き合え、って感じで……」


「……いや……そんなまさか……小宅さんに限って……」


「でも、あり得ない話ではないだろ。小宅の狂的なひめちゃん愛を思い出してみろよ」


 思い当たる節があり過ぎて、理央はごくりと生唾を飲み込む。


「……もし……仮に……万が一、そうだったとして……彼女はぼくと付き合いたがっていることになるの? それともひめちゃんと付き合いたいの?」


 ……確かにそれは一考すべきないようだ。しかし、明白な問いでもある。


「どう考えても後者だろ。さもなきゃ、ひめちゃんモードにする必要がない」


「そういうのって百合になるのかな?」


「……わからん。わかるわけがない」


 つーか、一年生最後の期末テスト前に、ぼく達は一体何を考えているんだ。

 しかし、愚にもつかない疑問は次々と沸き起こる。

 なにより、疑問なのは小宅が『理央=ひめちゃん』とわかった理由だ。


「なんで俺がひめちゃんだってわかったんだろ?」


「SNSに自分の家の住所上げたりしてない?」


「俺のネットリテラシーはそこまで低くない!」


 なに一つ疑問が解消されぬまま、ピンポーンと家のチャイムが鳴った。

 遂に小宅のお出ました。

 ぼくと理央は頷き合うと、玄関扉に向かった。

 そして理央は大きく息を吸い、意を決して扉を開けると……そこには薔薇の花束を持った小宅がいた。

 ひめちゃんモードの理央を見て、


「嗚呼、ひめちゃん。まさか現実に会える日が来ようとは。感無量です」


 感動で瞳を潤ませた小宅は言った。


 ……おいおい、マジのガチで告白するつもりじゃん。

 さっき理央には「言い寄られるかも」なんて言っていたが正直冗談半分だった。不安感を拭うための冗談だ。ところがこの様子だと……告白をすっ飛ばして求婚してきそうな雰囲気さえある。

 唖然とするぼく等を後目に小宅は言う。


「前からずっと好きでした」


「……あの……えっと」理央は意を決して言う。「ごめんなさい。俺は姫島さんのことが……」


 すると急に小宅は真顔になり、人差し指で眼鏡の位置を直した。


「なにか大きな勘違いしていますね。ファンとして好きということです」それと、と小宅は続ける。「ひめちゃんとして此処にいる以上、『俺』なんて言わないで下さい。地声で話すのもどうかと思います。プロ意識はないんですか?」


 ……うわぁ、めんどくせぇオタクだぁ。


「……あっ、ごめんね」声を高くして理央は言う。「いきなりのことだから、わたし、とっても吃驚しちゃったの」


「……そうですか。ならば結構です。それでこそひめちゃんです」


 世間様の目もあるので玄関先で話すのはそれぐらいにして、取り敢えず、小宅を部屋にあげることにした。昨日のように座卓の前に座る。

 ぼくと理央が隣同士で座り、座卓を挟んで向かいに小宅が座る。

 今更だけど、なんで理央の個人的な問題なのに、ぼくが同席しているんだろう?


「小宅ちゃん」ひめちゃんは開口一番に言う。「わたしが男だと知って幻滅しなかったの? 一応、女子高生って設定で活動しているわけだし」


 出された昆布茶を一口啜ってから小宅は言う。


「いいえ。わたしは別に幻滅なんてしてはいません。確かに驚きはしましたけれどね。寧ろアリかなと思いました。所詮手に届かない存在。恋愛感情なんてありませんし。寧ろ付いていてお得的な?」


「……ありがとう?」


 ……なんだよ、お得って。

 そもそも、最初の質問が「幻滅しなかったか?」なんておかしいだろ。他人に褒められるのが嬉しくって、他人の視線を気にし過ぎた発言だ。理央はなんだかんだいって自己肯定感が低いからな……。

 それはさておき、ぼくはぼくが一番気になっている点を問う。


「どうして理央がひめちゃんだってわかったんだ? SNSのプロフィールなどには、個人の特定に繋がる情報は書いてないとのことだし……」


 すると、小宅はふっと笑う。


「直截的に書かずとも、色々と情報はありましたよ。例えば投稿した画像や動画など」


 ぼくはふと思いついていう。


「……画像のメタデータか」


「メタ? なあにそれ?」


 理央、もとい、ひめちゃんは可愛らしく小首を傾げる。


「所謂、データに関するデータだよ。例えば、スマホで写真を撮った際『この写真はこの場所で写真を撮ったよ』って情報が残るだろ。そういう情報がメタデータだ。ひめちゃんがそのメタデータ付きの画像を、『近所で撮った写真』としてSNSにあげたら……」


「はわわっ、どこら辺に住んでいるかわかっちゃうじゃん」


 理央の状態で「はわわっ」なんて言われたら、ぶん殴りたくなるほどの殺意を抱いていただろう。だが、今はひめちゃんなので許す。


「わたしはそんな小難しい技術は使っていないですよ」


「じゃあどうやって―――――」


「例えばこの画像を御覧ください」小宅は自分のスマホを見せる。猫の写真だ。「これはひめちゃんが『かわいい猫がいた』とアップロードしたものです。ここにマンホールが写っているでしょう?」


「それが?」


「マンホールは自治体によってデザインが違うんです。これにより、画像が撮られた場所を絞ることができるのです」


「えぇっ、本当? こわぁ……」


「更に先日、ツイッターに『通学路にカイワレ大根のパックが落ちてた』と書きこみましたね?」


「……それがどうしたの? まさか、またわたしなにかやっちゃいました?」


「ええその通り。そういう路上に落ちている妙なものは、多くの人が書き込みをします。貴方が『何処にカイワレ大根が落ちていた』と書かずとも、その別の人の書き込みによって場所がわかる寸法です」


「……そんなぁ。そんなの知らないよ」


「ストーカーや特定班の技術として初歩的なものです。更に――――」


「更に、ってまだあるの?」


「今度は先日ひめちゃんが配信した動画です」


 スマホを取り出し音量を上げた。

 ひめちゃんが愛らしい声でゲーム実況をしていると、程なくして時報――いわゆる、五時のチャイム――が鳴った。ひめちゃんはそれに反応して、「チャイムが鳴ったねぇ。さあ、小学生はお帰りの時間だよぅ」とわからないことを言っている。


「時報が聞こえましたね? これは市町村防災行政無線の機器が、正常に動作するかを確認の為の試験放送を兼ねているそうですが……」


 ふっと小宅は笑った。


「……そんな補足情報、いや、蛇足情報はさておき、この時報は地域によって曲が違っていたりするのです。夕焼け小焼けがポピュラーではありますが、地域によって曲調が全然違っていたります」


「……へえ。そうなんだ」


 ひめちゃんはピンときていないらしく、それがどうしたの?と首を傾げるばかりだが、ぼくには合点がいった。


「この時報によって自宅がある地域もわかったわけか」


「ええ。先の画像でわかった情報も踏まえれば、この近くに住んでいると誰にでもわかります」そうそう、言い忘れましたが、と彼女は続ける。「宮城県本宮郡南三陸町の時報は残酷な天使のテーゼなんだそうです」


「へえ? なんで?」


「これまた妙な事を聞きますね。作曲者である佐藤氏の出身地だからに決まっているじゃないですか」


「へえ」


「決定的だったのは、昨年の夏の動画です。クーラーが壊れたと言って、カーテンを閉めずにライブ配信をしましたよね?」


「まさか、窓の外の景色からわたしの家の場所がわかったの?」外を見る。「でもランドマークになる特徴的な建物は無いけど……」


「確かにそうです。しかし、動画内での太陽の位置から、どの方角に家があるかはわかります。先に述べた情報によって、どの地域に住んでいるかはわかっていますしね」


「……………」


「そして、昨日この窓からの景色を眺めて、貴方がひめちゃんであることを確信しました」


 なるほど。

 だからやたらと窓からの景色を眺めていたのか。


「…………」


「身バレが嫌だったら、これからは色々とSNSの使い方を注意した方がいいですよ」


 小宅は得意げに眼鏡の位置をなおす。


「まあ、私としては情報が多いほど嬉しいものですが」


***


「それで、先日言っていたお願いってなんなんだ?」


 チープなミステリ小説の解決編染みた会話を終えると、ぼくは今日一番の話題について切り込んだ。


「因みに、理央、もとい、ひめちゃんは頬にちゅーぐらいは覚悟の上だ。それ以上に破廉恥なことについては要相談」


「いやいやいや」ひめちゃんは慌ててぼくの肩を叩く。「わたしそんなこと言ってないよ! 勝手に決めないでよもぅ」


 すると、ふぅと小宅は嘆息した。


「安心してください。先にも述べた通り、ファンとして好きなだけであって、下卑た要求をしようとは思いません」


「薄い本みたいなことも?」


「絶対に要求致しません」


「じゃあ、一体わたしはなにをすればいいのぉ?」


「ひめちゃんとしての活動をこれからも続けてください。それがわたしのお願いです」


「……え? そんだけ?」


「それだけです」


 ……なんだよ、おい。拍子抜けだな。


「なんとかもっと凄い要求されるのかと思ってた」


「ひめちゃん」ふっ、と小宅は笑った。「覚えていますか? ひめちゃんの書き込みで二十歳になるまで恋をしないって言っていたことを」


「あっ、うん。そうだったね」


「なんでそんなこと言ったんだ?」とぼくは問う。


「……男性との関係がない方がいいかなって。やっぱり、恋に奥手な方が美少女キャラとして、初心で可愛いひめちゃん像に合致していると思って――――」


 などとひめちゃんはごちゃごちゃ言うが、ぼくはそれを最後まで聞いていなかった。

 それより、小宅が言わんとしていることがわかったからだ。

 彼女に向き直ってぼくは言う。


「……つまり誰とも付き合うなってことか」


「はい。その通りです。男性に限らず、女性に限らずお願い致します。今ひめちゃん自身が仰った、ひめちゃん像を貫徹して欲しいのです」


 流石に勘の悪いひめちゃんでもピンときたようだ。


「姫島さんに恋をするなってこと?」


「思いを抱くな、というのは無理でしょう。しかし、告白はやめて下さい」小宅は深々と頭を下げた。「わたしを好いてくれなくてもいい。けれど、偶像が恋をするのは嫌です」


「……えっ、そんな」


「ひめちゃんが男であろうと女であろうと私は構いません。正体が誰だろうと興味がありません。ただ、私と同じ地表に居る誰かと、ひめちゃんが恋をするなんてもっての外です」


「好きになってくれなくていいけど、他の人を好きになるなって……どういう心境?」


 ぼくが素朴な疑問を漏らすと、小宅は「わかりませんか?」と不思議そうな顔をした。


「ガチ恋勢でなくても、自分の推しに恋人ができるなんていやでしょう? 手が届かないとわかっているからこそ、誰の手にも届かないものであってほしいのです。だのに、推しが誰かの手に触れていると思うと……口惜しくて口惜しくて喉を掻き毟りたくなる……」


「…………」


 ……後半は目がマジで、そのあまりの恐ろしさにぼくは言葉を失う。

 小宅はいつも通りの落ち着いた口ぶりで言う。


「ひめちゃんの正体がわかっても、当初は黙っているつもりでした。承認欲求なんてものは、ストーカーの専売特許で、推し活では無用の長物ですから。私が一方的に貴方を知っている、その事実だけで満足だったのです」


「……じゃあどうして?」とひめちゃんは泣きそうな声を出す。


「貴方の中の人が悪いんですよ、ひめちゃん。中の人が無用な恋心を募らせ、今にも姫島さんに思いの丈をぶつけようとするから……だから私はこうして強硬手段に出たのです」


「…………」


「脅迫染みたことは好きではありませんが」小宅はそう前置きをする。「もし告白なんてしようものなら、姫島さんにひめちゃんの正体をばらします」


***


 そしてテストの最終日はやってきて、光の速さで全てのテストは終わり、気づけば帰りのHRの時間になっていた。

 今日は一日中、小宅とも理央とも話していない。

 小宅とはおいそれと話せる雰囲気じゃないし、理央もなにやら考えているようで声を掛ける様子ではなかったのだ。まあ、そういう意味ではテストに注力できる状況ではあったのだが、しかし、やはり気になってしまってあまり集中できなかった。

 ――――もし告白なんてしようものなら、姫島さんにひめちゃんの正体をばらします。

 小宅も随分と酷いことを言う。

 しかし、小宅自身も多少変則的とはいえ、ひめちゃん愛からそういうことを言っているのだ。

 どちらもその手の感情からの行動であると考えると、一概に小宅を責める気にはならなかった。勿論、褒められたことではないが。

 なんて考えているうちに、帰りのHRは終わった。

 教室内の生徒達は散っていく。

 やおら椅子から立ち上がった理央の背中を見て、ぼくはなんとも言えない気分になる。

 ……良し悪しはさておき、今日は一世一代の大勝負になる筈だったのに。

 理央はいまどんな気分なんだろう?

 なんて思っていると、理央は足早に席を離れ、意外にも小宅の所に行った。

 そして開口一番にこう言った。


「ごめん。やっぱり俺、告白してくるよ」


 それを聞いて小宅は目を丸くする。


「……いいんですか?」


「覚悟の上だよ。彼女を呼び出す為の手紙は渡してある」


「私にとってひめちゃんは女神なんです。世俗とは一線を画した存在なんですよ。そんな貴方が一般女性と付き合うなんて……私はつらい。耐えられない。告白しないでください」


「……ごめん」


「良いのですか? 本当にバラしてしまいますよ。そしたら、あーるあいぴー(君の来世に乞うご期待)ですよ。私にそんな残酷なことをさせないでください」


「もう決めたんだ」


「……わかりました。残念です」


 小宅はその場を離れると、足早に姫島さんに近づいていった。

 教室を出て行こうとしていた姫島さんは立ち止まり、小宅の話す言葉に耳を傾けている。

 ここから距離があるのと、教室内の喧騒でなにを話しているのかは聞こえなかった。


「止めなくていいのか?」とぼくは問う。


「事実だしさ。それに、褒められたいばっかりに調子に乗り過ぎたんだよ。自業自得だ」


「……………」


「告白の結果云々以前に、明日から村八分にされるかもね、俺」


「……どうなろうとぼくは理央の味方だから」


「ありがとう」


***


 理央には先にに帰っていてくれ、と言われたけれど、やっぱり気になって帰れなかった。

 そんなわけでぼくは校門の前で待つことにした。

 テスト期間中は部活動を禁止だ。だからだろうか、テスト期間が明けてすぐの今は外周を走る運動部が多かった。見知った人間も多く走っており、校門の前で立ち呆けをするぼくを見て、不思議そうな顔をしていた。

 そりゃそうだろう。帰宅部がぼさっと突っ立っていたら不思議だ。帰宅部と呼ばれるぐらいだから、一も二もなく帰宅をすべきなのだ。

 野球部の田中も近くを通りがかった際に、


「おう、三田ぁ。そんな所に突っ立ってどうしたんだ?」


 と心配そうにぼくに声を掛けた。


「理央を待っているんだ」


「……ふぅん。大丈夫か、オマエ? なんかヤなことあったのか?」


「別になにもないよ。なんでそんなこと訊くの?」


「なんか悲しそうだから」


「テストがうまく行かなかったから、ちょっとガッカリしてるだけ」


「……ふぅん。そっか」


 遠くから「おおぃ、田中ぁ! くっちゃべってないで走れ!」という声がした。


「……ということで俺は行く。本当に大丈夫か?」


「大丈夫。テストの点は大丈夫じゃないけど」


「そっか。じゃあ、またな」


 そう言い残して坊主頭の田中は走り去った。

 ……そっか、ぼくは悲しい顔をしていたのか。そりゃそうか。

 それから程なくして、理央がこっちに向かって歩いて来た。

 彼の肩を落として歩く姿、そして、暗い表情から姫島さんの回答は察された。


「やあ、アキ。待っていてくれたんだ。ありがとう」


 理央はそう言って笑ってみせるが、その表情は暗い。


「……ドンマイだ、理央。女の子なんて星の数居るし――――」


「ははっ」理央は乾いた笑いをする。「アキに慰められると気味が悪い。小馬鹿にしてくれた方が、気が休まるんだけど」


「じゃあ、一言だけ。これは予定調和なんだから気にするな」


「……ひどいっ。でもちょっと元気でた」


 なんて馬鹿なことを言っていると、どこからともなく小宅がぬっとあらわれた、

 出たな、害悪ひめちゃんオタク女。


「理央さん、残念でしたね。一部始終は隠れて見させていただきました」


 小宅は開口一番にそう言った。

 堪らずぼくは小宅をきっと睨む。


「……小宅。姫島さんにバラすだけでなく、出刃亀をするなんて―――――――」


「私は姫島さんにバラしていませんよ」


「……え?」


 ぼくは予想外の一言に唖然とする。

 理央も特に驚いた様子もなく、頻りに頷くばかりだ。


「え? でも、放課後直ぐに姫島さんに話に行っただろう?」


「理央さんとの約束を守っただけです」


「約束?」


「姫島さんに恋人がいるかどうか聞くように頼んだでしょう?」


「…………」


 ああ、そんなことあったな。

 色々あり過ぎて完全に忘れていた。


「理央さんには既に伝えてありますが、姫島さんには恋人がいるそうです。ですから、告白するだけ無駄だ』と私は伝えたのですが、『だとしても、一度決めたことはやり遂げる』の一点張りでして……」


 恥ずかしそうに理央は苦笑した。


「見事玉砕したよ」


「どうせフラれるなら告白しても構わない、と考えたわけ?」


 ぼくがそう尋ねると、小宅はこくんと頷いた。


「なにより、私が恋人の有無を確認するなり、姫島さんが聞くに堪えない惚気話を始めたのです。

『わたしの彼氏はね、地味に見えるけど、すっごい優しくってね。手を握る時なんかも、「手ぇ、冷たいね。ぼくが温めるよ」なんていってくれてねぇ』とかなんとか。

 これを理央さんが聞かされると思ったら、追い討ちをかけるような真似をするのは気が引けてしまったのです。ですので、ひめちゃんのことは黙っておきました」


 すると理央は再び表情を曇らせた。


「ああ。あれは辛かった。こっちが告白した途端に脊髄反射で『ごめんなさい』と断って、それから嬉しそうに好きな人の好きな人の話を聞かされるなんて……辛すぎる!」


「……どんまい」


 非常に同情できる話だった。


「というわけで、これからも今まで通りにひめちゃんができるわけです」ふふふっ、と小宅は笑う。「色々ありましたが丸く収まってよかった」


「いや。全然よくないけどな」


***


 それからぼくと理央は並んで帰り道を歩いた。


「小宅はああ言っていたけど、ひめちゃんの活動はどうするんだ?」


「……一応続けるよ。褒められると嬉しいし、喜んでもらいたいし」


「そっか」


「…………」


「…………」


「…………」


「なあ、理央。オマエに言いたいことがあるんだ」


「なに?」


「……フラれたの残念だったな」


「全然残念がってないな? 寧ろ、傷口を抉って楽しんでいるだろ」


「はははは」


「笑うな」


「なあ、理央。もう一つオマエに言いたいことがあるんだ」


「また俺に酷いことを言うつもりか」


「……いや、そうじゃなくってさ。あのさぁ、ぼくも好きな人いるんだ」


「へえ。誰。まさか野球部の田中くん?」


「なんでさ」


「なんとなく。じゃあだれ?」


「オマエ」


 理央は心底驚いた表情になり、その場に立ち止まる。


「俺を担ぐつもり?」


「いいや、まじだよ。まじ」


 実はこのぼく、女である……。

 ぼくなんて一人称を使っているものだから、中学校の時は「キャラ作りすんなよ、キメェ」よく言われたものだ。しかし、小さい頃から「ぼく」と言っていたので、どうしても「わたし」とか「晶ちゃん」とかいう一人称に出来なかったのだ。

 気を抜くと「ぼく」と言ってしまい、それを揶揄われて随分と傷ついた。

 しかし、今では開き直り、平然と「ぼく」と言えるようになった。

 今ならば言える。「僕っ娘で悪いか!」と。

 まあ、そんなこと今はどうでもいい。

 今問題なのはこのヘタレ幼馴染と、ぼくの間にある微妙な空気をどうするかだ。

 ……ぼくがヒロインなんてのは駄目だろうか?

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