一目惚れ
『魔都』は全周二十キロの壁に囲まれている。
門の外から放り出された僕は、とぼとぼと荒野の中を歩き出した。
「……うぅ、怖い、怖い…!」
砂漠の中に水一滴も持たずに放り出された気分だった。
不安が膨れ上がって、心臓がどくどくと脈打ってる。
気を抜くと膝が震え出して、座り込んでしまいそうだ。
けれど足を止める訳にはいかない。
このまま引き返したとしても、門は固く閉ざされたままなのだ。
下手をすれば弓矢で撃たれかねない。
だから僕は仕方なく歩き──。
「ギ」
三十分ほど歩いていると、僕から数十メートル離れた場所に、ソレは現れた。
蟷螂のような体躯した、赤黒い小さな化け物だ。
世界を脅かす存在、レギオン。
図鑑でみたことがある。確か『Lv.10』相当の実力で──
「キシャァァアアアアアアアアアアアアアアッ!」
「う、うわぁぁああああああああああああ!」
僕を見るや否や、そいつは飛びかかってきた。
怖い。怖い。怖い。でも、戦わないと──死ぬ!
僕は無我夢中で怪しげな錆びた剣を、マントに包んだまま振りかぶった。
ガキンッ!
しかし何百年も経ったみたいな錆びた剣は僕の手から弾かれ、宙を飛んでいく。
「ぁ」
僕とレギオンの目があった。
不気味な沈黙。
直後、猛然と襲いかかってきたレギオンから、
「あああああああああああああああああ!」
僕は憧れた存在とは正反対の無様さで、一目散に逃げ出した。
荒野の地面を踏み締めるたび、汗が飛び散り、肺が圧迫される。
やっぱり、あんなのと戦うなんて僕には無理だ!
だって、
「いやだいやだいやだいやだいやだ……!」
死にたくない。
死にたくない、死にたくない、死にたくない死にたくない……!
心臓が痛いほど脈打ち、顔を真っ青にしながら僕はひたすら走る。
必死に走っていると、いつの間にか振り切れたことに気づいた。
岩の壁に隠れた僕は呼吸を整え、ホッと息をつき──。
「ひっ」
新たなレギオンが、現れた。
先ほどのやつよりもさらに強い『Lv.60』の虎みたいなレギオンだ。
「ぁ」
僕は悲鳴を上げる暇すらかなぐり捨てて、走った。
背後で、隠れていた岩が爆散する。
「く、来るなぁああ!」
みっともなく石を投げるけど、『Lv60』のレギオンは意に介さない。
ただ食欲のままに、猛然と僕を狙っている。
「は、ハァ、ハァ……!」
逃げる。
逃げる。
逃げる。
逃げた先から次々とレギオンが現れて、方向転換を繰り返しながら逃げ続ける。
でも、あの『Lv.60』のレギオンだけは振り切れない。
執拗に、獲物をいたぶる狩人のように、僕をつけ狙ってくる。
「ぜ、は、いやだ、いやだよぉ……ばあちゃん、たすけて、誰か、助けてよぉ」
次々と襲いかかるレギオンから『Lv.1』の僕が逃げ切れているのは、きっと神様がくれた奇跡だろう。
いや、あるいはとびっきりの嫌がらせかもしれない。
一瞬で殺されていれば、こんな怖い思いはせずに済んだのだから。
「う、ぅう"…!」
そんなことを思う自分が、情けなくてたまらない。
恐怖と無力さと悔しさが入り混じって、頭がどうにかなりそうだった。
「あぐッ」
大きな石にぶつかり、僕は無様に地面を転がった。
その致命的な隙を、レギオンは逃してはくれない。
目の前のレギオンは大きな口を開けて、僕に襲いかかる。
その瞳に映るのは、ばあちゃん譲りの黒髪に、小さな角。
涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった情けない僕だ。
『グルル……』
と声が聞こえて、僕はハッと周りを見渡す。
見れば、周りには『Lv.60』の大虎が何匹もいて、僕を取り囲んでいた。
恐らく僕は、誘い込まれたのだ。彼らの巣に。
──あ、これ、無理だ。
──ばあちゃん、反対してくれたのに、ごめん。
──僕、死んだ。
流星のような煌めきが、目の前を過ぎった。
「……っ」
それはこの世のものとは思えない、一撃だった。
バターを斬るような滑らかさで、『Lv.60』のレギオンを一閃する華麗な一撃。
目にも止まらない速さで、その光は周りのレギオンを全て撃滅する。
「立てる?」
恐怖のあまり気絶しかけた僕の目の前には、女神のような人がいた。
月の光のような銀色の髪に、綺麗な青紫色の瞳をした女性だ。
その顔を、僕は知っている。
いや、この世界で知らない人は居ないだろう。
「ゆ、ゆゆゆゆ勇者、エリシア・ライネシア!?」
彼女は現在世界で一人しかいない『Lv.100』の到達者なのだから。
魔王に並び立つ存在であり、魔族と敵対する共和国の英雄が、そこに居た。
「待っててね。すぐ終わらせるから……あれ」
エリシアが振り返ると、脱兎の如く逃げ出すレギオンの姿があった。
僕を巣に追い詰めたやつだ。
青い血を撒き散らしながら、『Lv.100』の怪物から逃げようとしている。
エリシアが追撃しようと足に力を込めた時には、レギオンは地中へ逃げていった。
「……まぁ、いっか。どうせあの傷じゃ助からないだろうし」
エリシアはため息を吐くと、再び僕に向き直る。
「立てる?」
「は、はひ」
僕は緊張しながらどうにか手を取って立ち上がる。
──どうして勇者がここに?
──『Lv.1』の僕なんかを、どうして助けてくれたんだ?
僕は思いっきり噛みながら、なんとか問いを絞り出した。
「ああああ、あのッ」
「ん?」
「どどど、どうして助けてくれたんですか? 僕は、魔族なのに」
そう。僕は魔族。たまたま魔王の血が混じってるだけの出来損ないだ。
遠い昔、魔族である小鬼と精霊が混じり合って出来た末裔。
エリシアは首を傾げる。
「レギオンを前にして、人族も魔族も関係ある?」
「え。ぁ……」
僕は雷に打たれたように硬直した。
その気高さに。
その強さに。
その美しさに。
その微笑みは、肋骨を滑って僕の心臓を貫いた。
顔が耳まで真っ赤に腫れ上がり、全力疾走したときみたいに鼓動が脈打つ。
瞬く間に茹で上がった僕の頭は、お礼を言う事すら忘れていた。
「おいで。君がいるべき場所まで送ってあげる」
僕は手を引かれるままに、ただ勇者について行く。
お礼を言わなきゃと思うけれど、目が合うたびに顔が熱くなって何も言えなかった。
そしてとうとう一言も発する事なく、『魔都』の近くまで着いた。
「私はここまでだから」
そう言って、勇者は去ろうとする。
僕は焦った。十歳の時にやらかしたおねしょを隠そうとした時以上に焦った。
早く、早くお礼を言わないと。
ここで何も話せなかったら、二度と彼女に会えない気がして──
「あ、あのッ!」
エリシアさんは立ち止まった。
「どうしたら、また会えますか!?」
もっと言わなきゃいけないことがあるだろう。
頭の中の冷静な自分が叫ぶが、これが僕の精一杯だった。
エリシアさんは目を丸くした後──ふっと微笑む。
「私と同じ場所まで来れたら、会えるよ」
「同じ、場所?」
「諦めずに進めば、きっと来れる」
それはつまり──。
「君にその気があるのなら、待ってる。おいで、高みへ」
これ、あげる。
そう言って彼女が渡したのは、レギオンの腹から出てきた硬い胃袋だ。
「売ればちょっとのお金にはなるだろうから。頑張って」
それじゃぁね。
そう言って、彼女は去って行った。
呆然としていた僕は、彼女の言葉を吟味する。
彼女と同じ高み。それはつまり、『Lv.100』の到達者である魔王になると言う事だ。
『Lv.1』の僕が。
一匹の魔物も倒した事もなければ。
スキルも持たず、
魔法は使えず、
仲間も居ない。
臆病で、寂しがりで、不器用で、非力で。
ダメなところをあげればダメなところしかない、弱さの頂点を極める僕が。
「……終わった。無理だ、これ」
その瞬間。
『──ええい! いつまでそうしておるつもりか! さっさと妾を助けんか!』
怪しげな声が、聞こえた。