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substitute

作者: ちゃんたい

「春の準備」


あと三十八秒。中学生活最後のバスケ。光明は味方からパスをもらって、シュートを打つ。シュートはリズムが大切だ。リズムがあればボールは素直に飛んでくれる。

ガシャン。外れた。ボールがリングとぶつかり、大きな音を立てて相手チームに渡る。戻らなきゃ。光明は必死に相手の背中を追いかける。でも、追いつけない。また、失点。

点差が開いていく。4、6、8、10、と二点ずつ入っていく得点は、少しずつ勝利への気持ちを削いでくる。タイムアウトがあと一回残っているけど、監督はそれを使わない。

このままでは終われない。だが、タイマーは9秒、8秒、7秒、と数を小さくしていく。0秒になる。「ビー」と「ヴー」が混ざりあった音がコートに鳴り響く。試合終了。光明は歩くのがやっとだった。

最後の試合が終わった。指の第二関節のところが擦れて血が出たり、足首を捻挫したり、バスケの体はもう終わりだ。

試合後、最後のミーティングをした。いつもは部長が締めの言葉をやるけれど、今日は副キャプテンの光明も挨拶をする。

「負けちゃったけど、前半はいいゲームができてた。みんなとバスケをできて楽しかったです。お疲れ様です」

 普通だな。普通のとこを言うのが得意なのかもしれない。その帰り道、光明は早速プロ野球の試合速報をチェックした。


 勉強がとにかく嫌いだった光明は、自身の内申点が高いのをいいことに、推薦で私立の高校に入学した。誰も知り合いがいない世界に飛び込むのは初めてだった。中学に入学したときは、知っている子ばかりで、小学三年からはじめたバスケをなんの疑いもなく中学でも続けた。正直、光明はバスケが楽しくなかった。それでも続けたのは、友達が入ると言ったからだ。なんだよあいつ、と思われるのが怖くて嘘をついた。たが、高校は違う。光明が何部に入ろうが誰も文句を言わない。

野球部。野球部に入りたい。そして、自分に嘘をつかなくてもいいようになりたい。光明は人生で初めて自分でやりたいことを決断した。


「行ってきまぁーす」

光明は小学生のときから野球が好きだった。内野の頭を鋭く超えていくヒットを放ち、チャンスを作る好打者。守備なんてお構いなしでスタンドへ放物線を描く主砲。人間離れしたスピードで走り、取れるはずもない打球に追いつく外野手。高校野球、社会人野球、メジャーリーグなど野球のレベルはさまざまであるが、そんな中で彼をもっとも興奮させたのはプロ野球であった。

「弁当!」

母の怒鳴る声が聞こえる。光明はイラつき、今にも叫びそうになるのを堪えながら弁当を回収する。階段を駆け下りて、玄関を勢いよく開けると、そのまま皮膚をちぎってしまいそうな風が光明の体を突く。イヤホンを耳に挿し、自慢のミニベロにまたがる。ペダルを素早く回していくと体が温まり、頬がみるみる赤くなっていくのがわかる。

「ニチレイプレゼンツ」

「オードリーの」

「オールナイトニッポン」

大好きな二人のラジオを聴きながらぐんぐんスピードを上げる。スピードを落としたくないから、赤信号でも止まらない。三十分ほどこぐと、クリーム色の地面が見えてくる。スタンドをおろし自転車を置く。火照った体を包んでいた名前入りのウインドブレイカーを脱ぎ、練習着とネックウォーマーだけの姿になる。風が差し込んできて気持ちがいい。光明は、茶色のまっさらな大地へ足を踏みだそうとして、急に止まる。

「お願いします!」

あぶねぇ、昨日怒られたんだった、と思い出し、光明は慌ててグラウンドに挨拶をする。グラウンドに挨拶ってなんだよ。整備して、使いやすくしているのは自分たちなんだから、グラウンドの方が自分に挨拶するべきだ。だいたい、集合時間の三十分前にきてグラウンド整備って何なんだよ。光明はそんな気持ちを隠すようにネックウォーマーに顔を沈め、トンボを持つ。

すると、監督が車から降りてきた。白髪で体が大きい。というより、太りすぎだ。こんな人でも、大学野球まで続けていたというのだから驚きだ。

「きおつけ! おはよーございます!」

キャプテンの文和に続き大声を出す。

「おーはーよーございます」

朝だからか、皆の声がどんよりしている。

「おはよう」

監督が上品に挨拶を返してくる。何だよこいつ。腹立つなぁ。光明は再び整備作業に戻る。

「お前顔死んでるよ」と恭平が音を立てずに近づいてくる。

「お前もな、てかキャプテン様さっきまでスマホさわってたよ」

「え? マジ? 俺白線引いてたからわかんなかったわー。それなのに一丁前に指図してくんだよなアイツ」

キャプテン様、という性格の悪さを感じる返しをしてくれる恭平は光明が最も信頼している友達だ。光明はここぞとばかりに、蓋をしていた感情の箱を開く。

「昨日もさ、自主練してたら急に入ってきて、打つだけ打ってボール集めねぇの。それで試合で打つなら何も文句ないけどさ、セーフティの構えして見逃し三振しやがってよ」

光明が文和の三振の真似をすると、恭平は大笑いしながら肩を叩いてきた。

「シュウゴウ!」

文和が叫ぶとチームの全員がホームベースへ集まる。監督に再び挨拶し、今日の練習メニューを聞く。

「百メートル十本やってノック。そのあとバッティング。午後はまた後で言うから。」

「はい」と「うえい」が混ざったような返事をして、ダッシュでランニングの位置につく。左足から踏み出し、足をそろえて走り出す。ザッ、ザッ、ザッ、とクリーム色の地面と靴が音を出し始める。

長いアップが終わると、次は百メートルの時間だ。この練習は、文字通り百メートルをダッシュし基礎体力をつける練習なのだが、単純につらいというのと、ラスト一本でチーム全員が目標タイム以内にゴールしないと永遠に終われないというルールも相まって、チームメイトには不評だ。ふと、恭平の顔を見ると、絶望に満ちた表情をしていた。体力に自信のある光明は、そんな彼らの表情を少しだけ楽しみにしている。ビリにならない程度のスピードで九本目をこなし、ラスト一本を迎える。

「ここ一本集中して、終わらそう!」

「うえぇぇぇい!」と光明は狂ったような奇声を放つ。後ろに目をやると、後輩が不安そうな顔をしているのが見えた。これは間に合いそうにないな、と悟った光明は、今度は間に合うギリギリの速度で十本目を走る。


待ちに待ったバッティングの時間がやってきた。バッティングは内野と外野、主力と控えで四~五人の班にグループ分けされる。打てる時間も主力の方が多いため、控えの光明は、必然的に外野で守る時間が長くなる。

バッティングピッチャーの投げるボールは打ちやすい。だからこそ、一球目から集中して振るべきだ、と光明は思っている。そんな簡単なボールを何球かバントをする主力を見て、またしても光明はイラつく。「レーフトォ来ぉいいいい!」と大声を上げる。声出しのエネルギーの源は、日々のストレスだ。

主力のバッティングにケチをつけて守っているうちに、とうとう自分の組の番がやってきた。後輩が真っ白いバッテを付け、肘当てをはめている。どうせ振り遅れの打球しか打てないんだから道具にこだわっても意味ないだろ。光明は後輩に思い切り冷ややかな目線を送り、ゲージに入る。

「お願いします」今日何回言ったかわからないその七文字をスマートに言い、バットを指三本分短く握る。

一球目、この日一番集中し、センター前へライナーを打ち返す。二球目、少し上がりすぎてしまい、センターフライ。いい感じだ、素直にバットが出てきてる。光明は、自主練習の成果を体で感じる。

内野の連中が、サード来い、セカンド全然来ないよー、とほざいている。当たり前だ、誰がそんなヘボい打球打つかよ。

その瞬間、光明の集中が途切れる。ポコッ、間抜けな音と同時に弱弱しい打球がセカンドへ転がった。チッ、バットを投げそうになるのを必死でこらえながら、ありがとうございました、と一ミリも思っていない感謝をバッティングピッチャーに向けてする。バッテと肘当てにフル装備の後輩がラスト一本を懇願している。どうして野球部の奴って見せかけの必死さを出そうとするのだろう。試合にもう一本はないのに。

「木山、ちょっと来てみ」

さっきまでピッチャーを見ていた監督が光明を呼んだ。光明はうんざりした。それでも返事は元気よく返す。

「はい!」

「お前のスイングは下からでてる。練習ならいいかもしれないけど、それじゃあ速い球が来た時に負けるよ。もっと上から出さないと、貸してみ」

監督がバットを握り、オーバーに上から下へのスイングを見せてきた。光明が納得した表情を作り、わかりました、というと監督は満足そうに頷き、視線を元に戻した。デブ監督め、そんなの知ってるよ。その打ち方でうまくいっていないから必死に考えて自主練してるんだよ。たかが十球程度の練習を見て、口を出してくるなんて信じられない。試合で打てなかったらどう責任を取ってくれるのだろう。監督の様子を見ていると、到底そこまでの覚悟があるとは思えない。自分のバッティングフォームを本人が一番時間をかけている、とどうして想像できないのだろう。

後輩がラスト一本! と叫んでいた。


 「木山さぁん、ジュース奢って下さいよぉ」

練習が終わり、恭平と自主練習の準備をしていると後輩が話しかけてきた。

「んー? よく聞こえないなぁ!」

光明が急にバカになったふりをして見せると、後輩は簡単にあきらめ、恭平にターゲットを移す。

「しょうがねぇなぁ。じゃあ、俺とじゃんけんして勝ったらいいよ。じゃんけんぽい!」

ちょっと待ってくださいよ、と後輩が手をクロスさせ、何かおまじないのようなことをしている。光明はそのやり取りを聞きながら、親のお金なのに何が「奢る」だよ、と思ってしまう自分が嫌になる。

「よっしゃ! ありがとうございます!」

後輩が恭平に顔を近づけ、お礼を言っている。恭平は負けたのに、なんだかうれしそうだ。そういえばこの前も後輩にラーメンを奢ったって言ってたっけ。一年しか変わらないのに、そこまでして先輩面したいのかな。

「光明、早く行こうぜ」

急に話しかけられてびっくりしてしまった。それでも、そんなことは決して悟られてはいけない。

「うん」

今の顔は死んでいなかっただろうか。バットを持ち、グラウンドへ駆け出していく恭平の背中を見ながら、光明は野球部の上下関係って寒いな、と思う。


 光明が野球を始めたのは高校からだ。入部初日、何を着ればいいのかわからないまま練習に参加した。とりあえず、と着ていったジャージでは練習を見学するしかなかった。

その後、持ち物を聞き、アンダーシャツ、ソックス、スパイク、帽子、練習着の上下が必要なことがわかった。翌日はミーティングだったので、教室に向かってみると、坊主の集団があふれんばかりの密度で教室に座っていた。

光明はうろたえた。コイツらとこれから練習するのか。なるべく目立たないように教室に入ると、髪が長い一年生グループを見つけた。しかし、春休みから練習に参加しているらしく、今日初めて来たのは光明だけだった。

居づらいな、なんて思っていると、「木山、前来い!」と監督に呼ばれ、つまらない自己紹介をする。

前に座る三年生たちが、迷子になった子供を見るような目で光明を見ている。何だろう、と不思議に思ったが、その目線が少し上を向いているのを見て、髪を切らないといけないんだと察した。翌日、三か月以上切っていなかったそれを三ミリにし、次の日の練習に現れた。すると、先輩が嬉しそうに光明を撫でた。坊主って仲間意識のためにするんだな、と光明は思った。髪を切らなくては生まれない仲間意識なんて、無い方がいいのに。

次に光明を悩ませたのは、バッティングだった。トスされた簡単なボールも当たらない。焦った光明は、次の日から置きティーの自主練習を始めた。そんな練習に現れたのが恭平だった。二人はすぐに仲良くなり、光明は心を許したが、ときどき恭平のことを「全員が帰った後もがんばる自分の姿」が好きなのではないかと思うようになった。野球をする人って、居残りをするという泥臭さが好きなんだな、と思った。うまくなりたい、試合に出たい、皆を追いこしたい、という自己実現のためにするんじゃないんだ。この程度の意識ならすぐに抜かせそうだな。

みんなより多く練習する姿が好きな野球人は、監督やコーチも例外ではなかった。チームの中で一番下手で、一番練習をする光明を監督が放っておくはずがなかった。監督は、バッティングを教え、光明はそれに従った。しかし、結果が出ない。四月に入学して九月までの約五か月間、ヒットを打てなかった。それに伴い、出場機会も少しずつ減っていった。七回から守備で入り、そのまま一、二打席打てていたのが、代打をすぐに送られたり、そもそも守備で出れなかったりした。

光明は、監督に従うのを辞め、本を買った。そこには、光明や監督が考えている以上に考え抜かれたバッテイング理論が書かれていた。夢中になった光明はその本を繰り返し、繰り返し読んだ。そして、実行に移した。     

最初は上手くいかなかったが、毎日の練習で上達を実感できて嬉しかった。バッティング練習でライナー性の打球を打ち返せるようになった頃、試合でヒットを放てた。きれいなレフト前ヒットだった。オーバーランがわからなくて、一塁ベースを駆け抜けるという無知をさらしてしまったが、チームメイトは喜んだ。光明は、自分が今物語の登場人物として見られているな、と思った。チームで一番下手な初心者が努力を重ねて打ったヒット。明らかに取れない打球に飛びつき、ユニフォームを泥だらけにしたがる野球人が好きそうな物語。野球人を把握した光明は、それ以降意識的に大声でバカな選手になるように振舞った。大声でノッカーを呼び、ユニフォームを汚し、もう一本と叫んだ。すると、次第に自分がわからなくなっていった。何を聞かれても嘘を話しているのではないか、と考えるようになった。

学校ではなるべく目立たないように努めた。運動部たちが、廊下で大声で話したり騒いだりするのが心底気持ち悪かったからだ。その運動部の筆頭が文和だった。文和はヘッドホンをし、肩で風を切るような歩き方をする人間だった。光明は、彼をバカにした。ポエムのようなツイッターの投稿、誰も知りたくない日常を全力で発信するその姿は、見ていて痛々しく、笑いやすかった。


ミニベロから降りてドアを開くと、背負っていたリュックが急に重く感じる。最後の力を振り絞り、階段を上ると、母が金曜ロードショーを見ていた。

「食べきれないのは冷蔵庫入れといてね」

光明は、動物の鳴き声のような返事をしたあと、背負っていた重りを投げ出し、貪るように夕食を食べた。土のついた手で箸を使い、口に米を押し込んでいる光明を見て、妹が引いている。お腹がはち切れそうになりながら、風呂に向かう。湯船につかり、アマゾンプライムで『タイタニック』を検索する。長い髪のディカプリオは最高だな、と光明は自分短く刈り込んだ髪をなでた。


「タイタニック見た?」

和人が興奮気味に聞いてきた。和人はレギュラーにも関わらず、雄介や他のレギュラーのように威張ったりしない。練習でも気の抜けたバントをしないところも光明が信用している理由の一つだ。和人と話すときだけは、廊下で野球部のテンションをオンにするように意識している。

「見た! でもさ、ディカプリオは髪が短いときの方が良いよな。ブラッドダイヤモンドのときみたいにさ。」

光明は煙草をくわえる真似をしてみた。だが、スルーされる。

「やっぱ光明もそう思う? 長いときはなんか鼻についてやだよな」

わかる、と相槌を打つとチャイムが鳴った。光明は野球部のスイッチを切り、静かに教室に戻る。

椅子に座り本を開きながら光明は自己嫌悪に陥った。和人はいいやつだ。なのになぜ嘘をついてしまったのだろう。長い髪の方がさわやかでかっこいい、とどうして素直に言えないのだろうか。

それよりも気になったのは物まねをスルーされたところだ。いくらなんでもやりすぎたか。光明は、脳内で反省会を行い、六時間目に備える。

六時間目は現代文だ。光明は国語が大好きだ。『こころ』を読みながら古い日本を想像する。和服を着てみたいな。書生ってどんなだろう。光明は、そうなるためにどうしたらいいのか、ということを一番身近なところから考え、結局英語の勉強を頑張る、というありきたりな結論にたどり着く。ターゲットを開こうとしたらチャイムが鳴った。掃除を適当に済ませグラウンドへ向かった。

グラウンドに行くと嫌でも気が引き締まる。辛い100mダッシュ、球拾いばかりのフリーバッティング、長い監督の話。昨日と全く同じメニューだけど、昨日の自分を超えた動きをできたときは、そんな疲れを忘れられる。

「バッティングしようや」

へい、と恭平が昨日と全く同じ返しをしてくれる。

明日は練習試合。代打で出る一打席、その一球のため、光明の自主練習に力が入る。左手にテニスラケットを持っているような感覚でセンターに打球を打ち返す。ギュイン、と金属バットの芯にボールがあたった音がグラウンドに響く。「よし」光明は確かな手応えを感じ、ボールを集め始めた。


 六時三十分、「easy street」が爆音で鳴り響く。光明は腹筋を使って起き上がりそれを止めた。階段を上り、キッチンに目をやると母親が弁当を作っていなかった。作っていなかった? あれ? 寝室を見に行くと母親がまだ寝ていた。昼食で泣けなしのお小遣いを消費することを決意し、朝食を済ませる。

リュックを覗き、ソックス、スボン、アンダーシャツ、紺のユニフォーム、帽子。「自分が着る順番で準備していけば忘れ物が出るはずがない」という監督の言葉を思い出しながら、何度も荷物をチェックする。

七時。家を飛び出し、グラウンドにミニベロを走らせる。試合の準備をし、綺麗になったグラウンドを不必要に整備しながら相手校を待つ。

「今日のピッチャー140キロ出るらしいよ」

「マジ?絶対負けやーん」

ソースが不確定な恭平の情報に適当に相槌をうっていると、今にもはち切れんばかりのユニフォームを着た集団が列を揃えて歩いてきた。相手投手が140キロでるのはあながち嘘じゃなさそうだと、光明は思う。どうせ関係ないけどな、とも思う。

 見かけの割に声も技術もない相手のノックを見送ったあと、自分たちのノックが始まった。サードから順番にゴロが飛んでくる。セカンドの二番手が捌き終え、光明は大きな声でノッカーを呼んだ。ワンバウンド目に神経を集中させ、足の動きを合わせていく。ボールが地面から跳ね上がる直前を見計らって、丁寧に手入れをしたグローブそっと出してやる。すると、ボールは優しくグラブのポケットに収まってくれる。捕球したの勢いのままスローイング。いつもの感覚で一塁へ送球する。が、一塁手はこちらを見ていない。光明が「危ない」の「あ」を言いかけたとき、ボールが一塁手の肩に当たる。

「ごめん!」光明は咄嗟に謝る。

「へーきへーき。大丈夫だから」

一塁手は患部を撫でながら、明らかに大丈夫じゃない顔で答えてきた。ゲッツーが終わり、外野手の送球を眺めたあと、ホーム送球に移る。「お願いしゃぁぁぁす」先ほどと同じように丁寧にゴロを捌き、送球をした。光明の送球が少しそれた。

 トンボをかけ、白い白線が引かれたグラウンドは何かの芸術作品みたいだ。両校の選手が駆け出し、その作品をスパイクで台無しにしていく。光明はベンチの前へ並んだ。

「それでは礼!」

「お願いします」

試合が始まった。二年生エースの家永がテンポ良くストライクを取り、あっという間に三アウトをとった。

「グッタマ! グッタマ!」

「良いボール」の日本語と英語を逆にした「グッタマ」を光明は気に入っている。他にも、「ナイスボール」を言い換えた「グッド送球」もあるが、こっちは言っていて気持ちが良くないので、ほとんど使わない。

「グッタマ! いいね、家永! 最高」

ここまでくると、応援というより自己アピールだ。声を出して、「自分はここにいます! だから使って下さい!」と声を競い合う。隣で後輩が「家永グッタマ! 今日は完投しちゃうんじゃない?」とグッタマをパクってきたので、光明も負けじと応戦する。

「グッタマァァァァ。ナァイスボォォォォォ」

光明はどこかの部族のような雄叫び発する。クスクス、と周りが笑っているのでやり過ぎたな、と反省する。

「おい、グッタマやめろ」

監督が怒り、騒がしかったベンチが一瞬静かになる。ドギュ、と今まで聞こえなかった家永がマウンドで踏ん張る音が響く。名指しではないが、監督が光明に対して言っているのは明らかだった。

「ナイスボール」が良くてどうして「グッタマ」が駄目なんだよ。光明はそんなイライラを一番打者である文和にぶつける。

「初級から振っていけよ! 中途半端なスイングするなよ! くs」

危ない。クソ野郎、と言いそうになった。相手ピッチャーは右のオーバーハンド。恭平の言うように140キロは出でいないと思うが、なかなか速い真っすぐを投げる。

投球練習が終わり、キャッチャーが二塁送球をする。サード、ショート、セカンド、ファースト。流れるようにボール回しが進む。キャッチャーが二塁送球したときに、ショートバウンドで土で汚れたボールをピッチャーが迷惑そうな顔で拭いている。

ピッチャーがセットポジションから初球を投げ込む。

「ストライク」審判が右手を上げる。

ちっ。振れよクソ野郎。お前みたいな打者がストライク見逃してどうするんだよ。どうせ次はセーフティの構えだ。光明は「ストライク積極的に~」と控えめに声を出した。

「ストライクツー」審判がさっきと同じ形で右手を上げる。

やっぱり。足が速いんだから当てればいいのに。宝の持ち腐れだ。ピッチャーが「これは安パイだ」という顔をしているのがわかる。

 ピッチャーがサインに一度首を振った。三球勝負かな。

「ストライクスリー、バッターアウト」文和は高めの釣り球にまんまと手を出し三振した。

光明は監督の顔を見た。あわよくば交代を考えてくれないかな、と期待を込めたが、監督の表情は変わらないままだった。七回までお互いがスコアボードに0点を並べ、八回の表の守備を迎える。

 後輩エースが力投している。「最高。完投しちゃうんじゃない?」と声を出した後輩は意外にも見る目があるのかもしれない。

ツーアウトランナー二塁。簡単なセンターフライが上がった。センターは文和だ。文和のフライの取り方はいつも危なっかしい。

落下地点を予測し、素早くそこに向かう。それを練習で繰り返してうまくなるのだ。

しかし、文和は違う。ノックを受ける直前まで他の人と話し、いざ受けるときにもたいして声も出さない。そんな練習態度でも選手がついてきていたのは、俊足を生かした走塁があるからだ。 

でも、今日、結果で守られていた文和が、簡単なフライをエラーした。他の選手は動揺していたが、光明が「何やってんだよ! 集中しろよ」と声を出すと「いつもの練習態度が出てるんじゃねぇの?」「俺らの代わりに出てるんだから集中しろよ」とヤジが飛んだ。光明は嬉しかった。 

今まで自分が隠していた本音に、チームのみんなが同調してくれた。二塁ランナーが生還し一点が入る。バッターランナーは文和のリカバリーが遅れているのを見てすかさず三塁進塁してしまう。「エラーしたあと! ふてくされる暇はないだろ!」光明は自分が水を得た魚のように元気になっていくのを感じた。ざまぁ見ろ。

 文和がベンチに帰ってくる頃には相手チームが三点を取っていた。ベンチは文和を励ますムードになっていたが、光明は到底許せなかった。しかし、声には出せない。「切り替えていこう」と咄嗟に嘘をつく。試合は3‐0で負けた。


木山光明と伊藤恭平はこのチームで一番努力している選手だ。どちらも元気があり、ベンチにいても率先して声を出しているので、どこに座っているかがすぐわかる。

木山はセンターにしっかりと返そうという意識だな。恭平はインコースを強く引っ張れるところが良い。選手の良い点を見てやることは指導者の基本だ。山村は二人の練習を見ながら思う。 

恭平は、小学校から野球をやっていたらしい。自分もそうだったから、恭平の思っていることは大体お見通しだ。スタメンじゃないときは露骨に俺の前を通ったり、素振りをしたり、わかりやすいから使ってやりたくなる。

木山はこのチームで唯一高校から野球を始めた選手だ。他の大きな差があることは明らかなのに、それでも入部をした。最初はバットに当たりすらしなかったティーバッティングも、今ではネットを突き破りそうな力強い打球に変わっている。練習態度を見ても「うまくなりたい」という気迫がひしひしと伝わってくる。そんな木山を山村は買っていた。

だが、「負けたくない」という思いが強すぎるあまりか、自分のこと以外に全く無関心だ。試合でも自分の打席内容ばかり気にしているし、送りバントのサインは露骨に嫌な顔をする。だから気を使う。

木山は自分の為だけにプレーをしているのだ。そこが引っかかる。野球はチームスポーツだ。一人が違う方向を向いていては絶対に強いチームに勝つことはできない。それは小中高大での野球経験が証明している。山村はそれを木山にわからせてやりたい、と思っている。教えてやらなくては。

でも、ただ怒るだけでは木山に絶対に響かない。木山は怒っている人を見るとバカにしたような目でその人を笑っている。この間も服装を注意したら、「わかりました」と「はい」だけしかしゃべらなかった。あいつはそういうやつだ。カッコ悪い自分を正面から受け切れていない。でもどうしたらいいだろう。文和に言ってもらうか。いや、恭平だ。毎日切磋琢磨している友達なら胸に響くだろう。山村は二人に気づかれないようにグラウンドを後にした。


 二試合目、光明はスタメンではなかった。使ってもないグラウンドを整備したあと、再びベンチの前に整列する。

ピッチャーが打ち頃のボールを投げている。一試合目のピッチャーと比べるといくらかレベルが落ちているようだ。光明はモデルのように細い足を持つピッチャーを見ながら自分が打席に立った時のためにイメージを膨らませる。早く試合に出たい。ヒットを打って、すかさず二塁へ盗塁しなくては。守備が下手な分、バッティングや走塁をアピールしなくてはならない。そんな風に試合を見つめていると、味方のセカンドがイージーゴロをエラーした。

光明の筋肉がたくさん詰まったその体に緊張感が押し寄せる。ここは自分だ。セカンドの三番目は俺だ。光明は、一試合目を終え緊張感のかけらもなくベンチに座っているレギュラーの一人に声をかけ、キャッチボールをし始めた。

 なぜアイツなんだろう。さっきかいた汗が冷えてきた光明は、ウインドブレイカーを着て試合を見つめていた。ショートには文和の姿があり、セカンドはショートで出場していた選手が代わりに入っていた。試合に出たのは光明ではなく文和だった。外野手であるアイツを内野に回してまで俺を使いたくないのか。

 九回の裏が終わった後、光明の立ち位置がグランド上になることはなかった。


 恭平は充実感に包まれていた。今日の試合でスタメン出場し三安打猛打賞だったからだ。そのうちの一本はツーベースヒット。練習で繰り返した理想の形だ。守備でもゴロを無難に捌き、この上ないアピールをできたと感じている。こんな日は光明や後輩たちを誘ってラーメンにでも行きたいところだ。でも、光明はいつも通り自主練習の用意をしている。それどころか、いつもより気合が入っていそうだ。はあ、今日も家に着くのが遅くなりそうだ。寒いし、正直早く帰りたい。

「恭平、練習しよう。」

光明が鼻息を荒げながら迫ってくる。まあ、そうなるよな。お前今日出てないもんな。そんなことはこのチームで俺が一番知ってる。後輩の前ではおどけていたけど、悔しいし、力が余ってるもんな。

「よし、行くか」

恭平は、すっかりオフモードになってしまった体を動かし、ボールケースとノックバットを手に取った。

 こういう日は気を使う。なぜなら恭平はよくアドバイスを求められるからだ。そして、そのアドバイスを光明は素直に聞く。その上で、自分の感覚とすり合わせて新しいバッティングをするから教え甲斐がある。だが、それは通常練習のときだけで、試合後などはイラついているからか、ストレスを発散するかのような行動が目立つ。いつもは冷静で、空気を読んで、自分がどう思われているかを異常に気にしているが、一番身近な俺が気を使っていることにこいつは気づいていないんだな、と恭平は思う。

チームメイトも多分そうだ。無意識のうちに光明に気を使っている。心の底では野球部の体制を冷ややかな目線で見ているのだろう。監督が使わないのはそういうところを見抜いているからだと思う。誰かが気づかせなければ。いや、俺が気づかせるべきか? 何やら新しい感覚を掴んだらしい光明のバッティングを観察しながら、恭平は疲れていた。


「夏の準備」


光明は来年の三月を想像した。絶対に東京の大学に合格し、一人暮らしをするんだ。いや、その前に夏大会があるか。一回でも背番号をもらわないと、野球を続けてきた意味がない。ベンチに入れるのは二十人。同級生は二十人ちょうどだ。三年生全員がベンチに入れれば何の問題もない。しかし、バッテリーが後輩二人だから最高でも十八人か。正直、光明は最後の夏というアドバンテージを差し引いても、入れるかどうか微妙なラインだった。とにかく、出場した試合で十割を打つぐらいをしなければならないな、と決意し、冬休み最後の練習を終えた。

 学校が始まる。寒かった朝は教室で過ごせるようになった。

クラス替えが行われ、推薦で大学に進学するクラス、一般入試で進学するクラスに分けられた。光明は一般入試で進学するクラスに分けられた。クラスの面々を観察し、自分がどのレベルに位置しているかを見極める。

騒ぐ者、静かだが大集団で固まっている者、一人で作業を行う者、と様々なレベルに分かれる。 

光明は一年生のときから同じクラスの友達と固まり、下だな、と悟った。

 ぎくしゃくした自己紹介を終えると、昼前に学校は終わってしまう。今日は春大会の背番号発表の日だ。期待と諦めの気持ちの両方が自分を包んでいる。昨日マネージャーに打率の表を見せてもらったところ、チーム内で打率が二位だった。いくら打席数が少ないからとはいえ、与えられたチャンスの中で結果を残していると言える。大丈夫だ。光明は自分を納得させ、グラウンドへ向かった。


十八番、十九番と選手が続々とユニフォームを受け取っている。このチームでは、二十番は三塁コーチャーがつけることになっているので、光明が貰うことは無い。たが、少しだけ期待してしまう。背番号が欲しい。試合に出たい。スタンドで応援をしたくない。かっこ悪い。

「二十番、佐藤。」

呼ばれたのは、レッグガードやエルボーガードにフル装備の後輩だった。

下手で、俺より打率が低い後輩。なんで。なんで。なんで。まただ。また応援だ。光明はショックを受けてない風を装うのが精一杯だった。かっこ悪い。負の感情が光明を支配した。監督が続けて何かを話している。しかし、耳に音が入ってくるだけで、言葉として、意味を持って聞こえてこない。

「木山も…」自分の名前を呼ばれて初めて監督の発している音が意味を持って聞こえてくる。

「木山も結果を残していたんだけどな。必死さに欠けているな。だから今回は選ばなかった。」

必死さが足りない? こいつは今まで俺の何を見てきたんだ? 佐藤にあるのは必死さじゃないだろ。必死さを持っているふりをするのがうまいだけだ。バッティングでラスト一本をきっちり返せないのだって、間に合いそうにないダッシュを最後まで諦めない風に見せるのだって、実力が無いだけだ。

打率だって俺のほうが遥かに高いし、佐藤より少ない打席数で結果を残している。しかも、佐藤は努力していない。練習が終わってもすぐ帰っている。そんなやつに比べて、必死さが足りないなんてありえない。ふざけるな。ふざけるな。負けろ。いや、それは違うだろ。チームの勝敗は関係ない。負けろ。チームが強いほうが俺だって嬉しいに決まってる。負けろ。負けたら悔しいだろ。負けろ。負けろ。負けろ。負けろ。

「おい、お前顔死んでるよ」

恭平が背中を叩いてきた。強ぇな。痛みとともに光明は顔が動くようになる。

「まだ、夏大まで三ヶ月あるから」

恭平が気を使って励ましてくれる。そりゃ励ませるよな。だってお前は貰ってるもんな。光明は、半分に折り畳まれた背番号が握られている恭平の右手を見ながら「おう」と答えた。


試合に出ないとわかっている日の朝は緊張感がまるでない。バナナを食べながら、ユニフォームを適当に放り込んで家を出る。

寒い。帰りたい。会場の越谷市民球場は電車で一時間ぐらいの距離だ。グーグルマップで距離を図ってみると二十キロと表示されていた。自転車で行けたな、と思いながら改札をくぐる。帰りたい。試合の終了時間と、帰宅にかかる時間を予想する。

球場につくと、選手が全員到着していた。いつもなら「遅えよ」と言われるところだが、後輩や同級生たちが明らかに気を遣っているのがわかる。そりゃそうだよな。光明が「どうも、すいません」と大声を出すと、「木山さん、薬やってんすか?」と後輩が言ってきたので、「やらねぇよ!」と適当に返す。

見かねた文和が緊張感のある声で「よし、いくか」と言うので、試合に出ない光明は笑いそうになる。

背番号をもらえない選手たちは、ベンチではなくスタンドに向かう。保護者が座る席を拭いたり、ノックの手伝いをするのだ。光明は、応援している背中を保護者に見られることが一番恥ずかしい。どこか哀れに見られているようで、なめんなよ、と思う。

スタンドに目をやると相手の応援団がきれいに整列していた。吹奏楽部とチアリーディング部も来ているようだ。嫌だなぁ。吹奏楽の威圧するような音圧と、チアリーディングのキラキラした動きを見ると光明は恥ずかしくなる。応援するのって何が楽しいんだろう。自分が出場して活躍するという自己実現のために努力しているのに、その活躍を奪ってくる奴らのことをよく応援できるよな。光明はそう思いながら、後ろに座っている後輩を見た。ほとんど開いていないような目でグラウンドを見つめている。そうだよな。だるいよな。帰りたいよな。応援するのってカッコ悪いもんな。でも、その気持ちを表に出すとさらにカッコ悪いことを光明は知っている。

「校歌!」

応援リーダーの同級生が声を張っている。コイツの声は良く通る。監督もそれを買って、一年の秋大会にベンチに入れたほどだ。凄いな、と光明は同級生を見る。それと同時に、コイツでさえ一度はベンチに入ったことがあるんだよな。ポツ、ポツ、黒い感情が光明を包んでいく。まずい。光明はその感情をできるだけためないようにしながら、狂ったように校歌を歌いだした。


  遅ぇな。文和はイライラしていた。相手は公立の高校だが、近年力をつけてきているチームらしい。エースはサウスポーで、キレの良いスライダーを投げるそうだ。文和はサウスポーが苦手だ。左打ちなので、背中からボールが来るように感じ、外角の球が遠く感じる。とにかく今日は勝たなくては。練習は面倒くさいが、試合は好きだ。体の底から込み上げてくる緊張が大きければ大きいほど、やってやろう、という気持ちになる。

それにしても光明は遅い。あいつと接すると疲れる。背番号を貰えなかった人と接するときはただでさえ気を使うのに、光明となるとなおさらだ。

たぶん、あいつは悔しいに決まっている。なのに、変に開き直ろうとする。だから、応援を見ていてもどこか痛々しい。悔しいならその気持ちを応援にぶつけてほしい。

監督が使わないのもそんな理由だろう。

「どうも、すいません」と遅れてやってきた光明が大声を出している。まただよ。また、開き直ったふりをしている。

「木山さん、クスリやってんすか?」と後輩が気を使っている。わかってやっているのだろうか。こいつがいつも笑いの空気に戻していることを、光明は気づいているのだろうか。

いや、そんなことを考えている暇はない。チームに緊張感を与えなくては。

「よし、いこう」

これでいい。光明が笑っている。俺が気づいていないとでも思ってるのか。光明は、人にどう思われているかを異様に気にするくせに、嫌っている人間のことをまるで想像できていない。恭平あたりが気づかせてやればいいのに。いや、俺が言うべきか。めんどくせぇな。でも光明のために言ってやるしかないのかな。文和は散らかってしまった意識を再びサウスポーに向ける。


両チームが外野の芝でアップを始める。球場に来るといつも一緒に練習しているメンバーたちが心なしか小さく見える。頼りないな。と光明は少し不安になる。

薄汚れたコンクリートで作られたスタンドからは、小さなミスがよく見える。普段は他の選手なんて気にしたことないのに、見たくなくても視界に入ってくる。

あっ、文和が暴投した。ちゃんとやれよ。

背番号にばかり目が行ってしまう。十六、十七、十八、十九、そして二十。下の番号ばかり見る。情けない。

 シートノックが始まった。ウチは後攻なので相手のノックを先に見る。あのライトは肩が強いので要注意。ショートはスローイングが不安定だ。試合前のシートノックは相手の力を見極めるためのものだ。だけど、相手チームのまとまった声出しを見ると、ウチを威圧するためにやっているのではないか、と思えてくる。ラグビーの試合前じゃないんだから。

そうこうしてるうちに、ウチのノックが始まった。控えの選手たちは、整備のため下に降り、このとき球場に初めて入る。ただの客から選手へ。光明は、自分が選手だったんだと思い出す。 

トンボを手に取りながら、ウチのシートノックを眺める。いつもは声を出さない主力が、大声を張り上げている。あきれた。気合いの入った試合の日だけ声を出すもんだから、揃ってなくて格好悪い。普段から出してないのが丸わかりだ。光明は公式戦のたびに思う。

 ウチのノックが終わると、控えの選手たちの出番がくる。相手の控え選手たちよりも先に二塁ベースにたどり着くため、この日一番のダッシュをする。凹んだ土をトンボの前側で削り、集まった土をトンボの後ろ側で丁寧に地面に戻していく。球場のトンボは使いやすいな。チームのトンボと違って持ち手が丸まっているから触り心地が良い。

三塁ベースに到達した頃、グラウンド全体がまっさらな状態になる。綺麗になったグラウンドにブラシをかけ、水をまくと、内野グラウンドが大きなティラミスみたいに見える。おいしそう。スタンドに上がった光明は、もう緊張感を切らしていた。

 「お願いします!」両校が挨拶をし、試合が始まる。レギュラーが守備位置についたとき、スタンドの選手たちは3列に分かれて校歌を歌う。このとき、光明がイライラを歌詞にぶつけるから何を歌っているのか全く分からない。

 ゲームのオートプレイのように1回表が終わった。どうやら家永は状態が良いらしい。

今度はウチの攻撃だ。文和は九番に落とされているから、罵詈雑言を浴びせされるのは三回裏頃だろう。

先頭バッターの同級生がセンター前にきれいなライナーを飛ばす。センターがボールを弾いたスキを見逃さず二塁へ。セーフ。

光明はこの試合の主導権をウチが握ることに落胆した。最悪だ。

二番がバントをした。少し強めだったが、サウスポーは、まずはワンナウト、といった感じで一塁へ送球。

 三番は和人だ。がんばれ。打て。光明は自然と応援する気持ちが湧いてくる。やっぱり普段から手を抜かない瀬川は応援したくなる。だけどチームには勝ってほしくないから、瀬川が打って三塁ランナーがアウトになれば最高だな、と無理な願いをしてみる。

サウスポーがセットポジションからなかなか速い真っすぐを瀬川の体に近いところへ放ってくる。一球目、ストライク。今のはボールだな。学生野球の審判って、勢いのいい球が来ると、すぐ右手を上げやがる。でも取られちゃ仕方がない。同じ球は振るしかない。それは瀬川も百も承知だろう。キャッチャーがまた同じコースに寄っている。また来るぞ。サウスポーが右足を大きくあげ、渾身の一球を投じる。瀬川、振れ! 

パコッ、と弱弱しい打球がセカンドの後方に上がる。セカンド、ライト、センターが全力で打球を追いかけている。落ちろー! サードランナーはちゃんとハーフウェイで打球を見ている。

流石だな。走塁が苦手な光明は、同級生をしっかりと観察した。

ズソッ。米を床に落としたような音が聞こえ、ボールはワンバウンドしてライトが捕球する。サードランナーはすぐさまホームへ駆け出す。まずい。あのライト、さっきのノックでとんでもないバックホームしてたっけ。ライトは内野手のスナップスローのような格好でホームへ送球する。キャッチャーがそれを捕球した時には、もうランナーは立ち上がって、ベンチにガッツポーズをしていた。セーフ。一点先制―。

 だが、スタンドには喜ぶ暇もない。全員で肩を組み、校歌を歌う。点が入ったら校歌を歌うってなんだよ。光明は、チームが勝利に近づいてしまった憎しみと、校歌を歌うことを提案してきた監督への怒りを大声で発散した。


 上から響いてくる声援と外野の芝の匂いは、自分が球場にいるのだなと思わせてくれる。守備位置の周りの芝が削れていて少し白くなっている。ゴロがイレギュラーするな。頼む、イージーフライだけ飛んで来い。文和は神頼みをした。

そんな文和の願いが通じてか、三回表の相手の攻撃が終わった。グラブを脇に抱え、ダッシュでベンチに戻る。これも監督から言われていることだ。常に全力でプレーする。観客が応援したくなるチームになる。

 この回はとうとう打席が回ってくる。先頭が八番だから、少し余裕があるな。サウスポーを近くで見ておこう。黒く光っているバットを手に取り、タイミングを合わせる。大丈夫。いつも通り振ろう。

「スライダーが結構多いから狙っていってもいいかもしれないっす」

凡退したキャッチャーの上杉が情報をくれる。キャッチャーなのに上杉って。文和は『タッチ』が大好きだ。

真っすぐしか狙ってないけど、と思いながら「おっけ」と軽く返事を返す。

 審判に挨拶をし、打席に入る。左足でしっかりと足場を掘り、落ち着く場所を探す。右手でピッチャーに「ちょっとまって」というポーズをとるのも忘れない。ふう。バットの芯の位置を確認し、最近変えた構えを作る。

サウスポーが左足を大きく上げたのと同時に自分も足を上げる。右足で間合いを計りながらボールを見―。

ズドン。「ストライク!」審判が元気のよい声を上げている。速い。ボールがいつもより小さく見えた。

「初級振ってかないと」

「短く持てよー」

ベンチからヤジが飛んでくる。うるせえ。速いんだよこのピッチャー。再び構えを作る。今度は短く持って早めにバットを出そう。さあ、来い。

スーッと進んでくるボールをストレートだと判断し、スイングをかける。

あれ、消えた? バットは振ったぞ。「ストライクツー」キャッチャーがボールを拭いていた。ワンバンしたのか? すごいスライダーだ。くそ。直前までボールを見極めてからバットを出そう。サウスポーが間を空けずにテンポ良く放ってくる。

今度は外だ。遠い。ボスッ。ボールはキャッチャーミットに収まる。三振。

「何してんだよー、最悪だな」

スタンドから声が聞こえる気がする。切り替え、切り替え。キャプテンがシャキッとしないでどうする。文和はダッシュでベンチに戻った。


 何してんだよ。文和の凡退を見た光明はテンションが上がっていた。一番打てる初球を見逃して、追い込まれてから三振するいつものパターン。練習で手を抜く奴に良い結果は訪れない。当たり前だ。光明は自分の続ける練習が間違ってないような気がして、心が落ち着いた。人の凡退を見ると安心する。

 三回を終えて0‐1。なかなかの好ゲームだ。

四回表、後輩エースが制球を乱す。ノーアウトランナー一、二塁。強い当たり。センターだ。フライの追い方が見るからに怪しい。お、取った。危なっかしいな。スタンドから「ナイスプレー」と声を出してみる。

今度はショートに強いゴロ。ゲッツーコースだ。セカンドがベースカバーに入り、すかさず反転、一塁へ。

アウト―。あれ、今日勝ちそうだな。まずい。光明は自分がベンチに入らないチームが勝つことが怖かった。

 五回表、グラウンド整備のために再びベンチの近くへ向かう。トンボを手に取り、ぼーっと試合を眺める。

チームは一点を追加し、0‐2としていた。二塁ベースへ走り出し、素早くトンボをかけていく。グラウンド整備のために交通費を無駄にしている感じがして、球場にいることが嫌になる。

 文和の二打席目だ。六回裏、しかも先頭。サウスポーの上げる足の高さが初回よりも低くなっている気がする。

一球目、バントの構えをした。コン、と音がしてボールは三塁線へ。文和が一塁へ全力で走っている。それだよ、と光明は口に出した。一塁審判が両手を左右に大きく広げている。セーフ。 

走れよ。サウスポーのときはリードをより大きく。光明は自分が一塁ランナーのつもりで試合を見た。

牽制―。ギリギリだ。そこが最大のリード。次はいける。もう牽制は来ないだろう。サウスポーが打者に向かって投げる。ゴーだ。文和はグッ、グッ、グッ、とスタートをしている。速いな。自分にもあんな足があれば。光明は羨ましくなる。

ベースの一メートル前でスライディングをする。近い。スピードが落ちない。いい盗塁だ。キャッチャーが投げるのを諦めるぐらいに速い。その後、文和は3点目のホームを踏んだ。


 予想以上にサウスポーを攻略できていた。山村は野手陣の奮闘に驚いていた。初回の和人のしぶといライト前タイムリーと走塁。冬に続けてきたハンマートレーニングと打球判断の練習の効果を感じる。

六回の文和の盗塁も良かった。明らかにベンチの雰囲気が良くなったし、球場もウチの勝利を願っていた。文和にはチームを奮い立たせる何かがある。それは打率とか守備率とかで表せないものだ。あいつを使い続けることに間違いはない。

あとは投手陣だ。二番手がいない。どうしてもレベルが落ちてしまう。今日のゲームもエースである家永が崩れた後に打ち込まれてしまった。6‐3。この三点差は大きい。


広いな。両翼100メートルか。恭平は金属バットを準備しながら、ベンチから球場をみわたす。背中には十六番の背番号。首元から五センチ離れたところに縫い付けらているそれを背負うと、背筋がピン、と張る気がする。

 光明は遅刻してきた。恭平はがっかりした。いくら自分が試合にでないからって、あからさまにやる気のない姿を見せてきた光明に腹が立った。文和もキャプテンなんだからもっと言えばいいのに。光明が全面的に悪いのだから、気を使う必要はない。光明は自分のカッコ悪いことや至らない点を認めているようで認められていない。だから、全員の前でわからせてやらなければならない。

 試合が始まった。先制点は予想外だった。ベンチはお祭り騒ぎ。不揃いの校歌が三塁側ベンチの上から聞こえてくる。

 五回裏の後、整備に向かう選手たちを眺めながら素振りをする。正直今日のゲームの流れでは代打も途中交代もなさそうだが、一応準備をする。何があるかわからない。

「恭平。肘当て取ってきて」

「オーケー」

ベンチ入りの控え選手に人権はない気がする。あれ取ってこい、これ持っといて。

試合に出ている選手がプレーしやすいように動きまわるのが仕事だ。打った後に投げ出されたバットも、塁に出た後に外すエルボーガードやレッグガードも、全部取りにいかなくてはならない。その点スタンドの控え選手はだらけ過ぎだ。光明は隣の北口と楽しそうに話しているし、声出しリーダーの福永もダラリと座っている。勝つためにはチームが一つにならなければならないのに、この感じじゃ一回戦突破もできない。

 文和が盗塁を決めた。あいつは練習をちゃんとやらない。それは誰の目からも明らかだ。そのくせツイッターではやけに練習してるアピールをする。きっと光明はそんな文和の姿が嫌いなのだろう。でも文和のプレーはチームを盛り上げる力がある。光明はそれをわかってない。努力でどうにかなることじゃないんだ。笑みを浮かべた文和がホームに帰ってくる。三点目―。あれ、ひょっとしたら勝つかもしれない。

 八回表、後輩エースの家永がピンチを迎えた。流石に疲れが出てきたのか、抜けたボールが多くなってきている。二番手はショートの和人だろう。内野が一つ空くから、一応キャッチボールをしなきゃ。

「恭平、用意しとけ。」

「はい。」

監督が俺を指名した。嫌だな。緊張してきた。

またフォアボール。もう同点だ。しびれを切らした監督が審判に交代を告げる。

「恭平。わりぃけどもう行くぞ」

まだ塁間の距離さえ投げてないのに、と思いながら、恭平は「はい!」とよく慣らされた犬のように返事をした。

ベンチとグラウンドの段差を上ると、さっきまでの見飽きた景色が一気に現実感を持って押し寄せてくる。ドク、ドク、ドク。心臓が音を鳴らして緊張する。ショートの守備位置まで全力疾走をすると少しだけ緊張が和らいだ。でも、周りの音がまだ小さく聞こえる。ファーストから投げられたゴロが飛んでくる。グラブが思ったように動かない。夢の中で走っているときみたいに自分の動きがスローになる。

「いつも通り、いつも通り」

いつもは邪魔でしょうがないと思っていたレギュラーの選手たちの存在が、プールで使うビート盤のように自分を支えてくれている気がする。スコアボードに目をやる。同点か。

「しまっていこー!」

そうだ。ワンプレーワンプレーが大切になってくる。エラーはできない、と思えば思うほど体が硬くなってくる。イージーフライ来てくれ。なんて思ってるときは強い打球が飛んでくる。平常心、平常心。「変わったところ来るぞー!」 ベンチから声が聞こえる。やめてくれー。

打者は六番で右打者。確実性に欠けるが捉えたときの打球はギュイン、と音を立てて飛んできそうだ。インコースはやめろ、と思っていると、上杉が内側に寄った。来る。強い打球が。

キンッ。瀬川の投げたボールは無慈悲にもレフト前へ運ばれる。

四点目―。落胆する間もなく、セカンドランナーが突っ込んでくる。恭平は練習通り、レフトのカットに入る。かなり深い位置だから俺がホームまで投げなければならない。レフトから鋭い送球が帰ってくる。セカンドランナーは三塁ベースを回っている。刺せる。住野は迷わずホームにボールを送球する。

 恭平の投げたボールは、和人が取った。ホームではなくピッチャーへ。恭平は固まった手首を見ながら、スコアボードに刻まれている「3」を見つめていた。

「ドンマイ、次は頼むよ」

和人が励ましてくれる。「ああ、任せろ」と言い守備位置に戻る。3‐2。まだ一点差。ツーアウト二、三塁。このピンチを乗り切れば逆転の可能性が残る。まだ勝てるからこそ、代えてくれ、と恭平は思っていた。さっきのスローイングは何だ。何千回、何万回と繰り返していたスローイングが、急にわからなくなった。自分の手が自分のものではないような嫌な感覚。また打球が来たときにアウトにできる自信が無い。代えてくれ。だが、試合は止まらない。

和人がセットポジションを作る。投げる。ショートに取りやすいゴロが飛んでくる。練習通りに捌く。スローイングの形を作る。

が、できない。自分の思うように手が出てこない。ワンステップ多く踏む。再びスローイング。

送球は一塁手から大きくそれ、ベースカバーに走っていた上杉が捕球した。セカンドランナーがホームベースを踏んでいる。6‐2。

恭平は試合開始時と同じ場所でスコアボードの数字を見つめていた。


 長袖のアンダーシャツを着ていると暑い。チームのみんなも半袖を着始め、長いこと紫外線にさらされていなかったその白い腕をむき出しにしている。春大会の敗戦から一ヶ月。5月のグラウンドはもう暑い。

 春大会前までは大会を見据えて固定のメンバーしか試合に出られなかった。しかし、敗戦後の今は違う。誰もが試合に出るチャンスをもらえる。ベンチ入りできなかった光明にとって、五月の練習試合が最後のアピールチャンスだ。メンバーは横一線、と監督は言っているが実際にはそうではない。主力組の打席数が多いのは明らかで、それは光明もわかっていた。つまり、いかに少ないチャンスでヒットを打つか、最低限出塁するかに光明のベンチ入りは掛かっている。それに対応するため、自主練習で打つ数を極端に少なくし、足りないと思った分は素振りをすることで補おうとした。

迎えた五月最初の練習試合。結果は早速ついてきた。代打で出場し、右投手から練習通りのセンター前ヒット。それも初球だった。監督から二試合目もチャンスを貰い、そこでもフォアボールで出塁した。変化球をファールにし、際どいコースを見極めて勝ち取ったフォアボール。いい感じ。 

  来週は、AチームとBチームで別れて試合に行く。三年間一度もAチームで試合に行ったことはないけれど、この調子を維持できればいけるかもしれない。

  五月の二週目の土曜日を迎えた。その日は一日練習だった。文和が気の抜けたバントを、佐藤が泥臭いフリをしていた。いいぞ。光明は、冬前からあまり上達していない二人を見て喜んだ。 

コツコツとセンター前に打球を返し、当てるだけのバッティングは決してしなかった。

  整備を終え、監督の周りに選手が集まる。チームわけの発表が気になって仕方のない光明の耳に監督の話は届いていなかった。

「それじゃ、明日東高に行くAチーム」

緊張のときがやってきた。背の順で円状に並んでいるから、背の低い光明は呼ばれるのが最後のほうだ。

「文和」

「はい」と返事をして文和が座る。何でこいつは結果が一切出ていなくてもAなのだろう。

監督を睨むように見つめてみたが、その目はメンバー表から動かない。

「恭平」

恭平が元気に返事をした。は? ありえない。光明はそう思った。自分より多いチャンスをもらっているのに結果が出ていない恭平を連れていく意味は? 春の大会以降送球難に陥り、ボールを真っすぐに投げられない恭平が? 表には決して出していなかった住野への負の感情が溢れ出てくる。

それでもまだあと三人はAに行くことができる。バッテリーの二人を除いてあと一人。まだ立っているメンツを見渡してみても、自分が選ばれるのは明らかだ。何より打率が違いすぎる。光明は姿勢を正して、木山と呼ばれるのを待った。

「佐藤」

またか。光明は監督を見た。

「今座っている人で、明日東高校に行くから。呼ばれなかった人は、ウチのグラウンドで試合があります。特に三年生。そこで結果を残して、使いたい、と思わせるようにしてください。集合時間とかはまた文和に伝えるから。」

目の前の肉の塊はどこを見て話しているのだろう。結果? 打率は残している。それでも使いたいと思わないということは、試合に出す人を好き嫌いで出していると認めているようなものじゃないか。それでも光明は監督を見返す自信があった。今は調子がいい。Bなら、スタメンで試合に出れる。そこで立つ四打席。四本ヒットを放つ用意をしなくては、と光明は自主練習用の置きティーを準備した。


 レギュラーとして出る試合は周りが良く見える。いつもは人の家で過ごす時間のように居心地の悪い打席の中での時間が、自分の家のようにリラックスできている気がする。まだ入りたての一年生が退屈そうに試合を見ている。自分と関係のない試合ってつまらないもんな、と光明はその一年生の気持ちが手に取るようにわかった。

 「二番、レフト、木山!」光明はメンバー発表の時点でワクワクしていた。外野で試合に出場したことは数回しかないが、いつも打撃練習のときに守ってるから大丈夫、と楽観視できるぐらい、光明の意識はバッティングに向いていた。正直、夏の大会に一桁の背番号で出場するのが苦しいことは光明もわかっていた。だが、途中出場なら多いにチャンスがある。本職のセカンドではなくレフトで出場しているから、守備ではなくバッティングを期待されているのだ。

 ピッチャーをイメージして素振りをする。ボールが来て、捉える感覚が鮮明にイメージできる。よし、いける。光明はネクストでピッチャーをよく観察した。

 ピッチャーは真新しいグローブをしている。赤のゼット。かっこいい。たぶん一年生だ。東高は公立だから、部員が少ないのだろう。真っすぐは120キロぐらいで打ちごろだし、変化球はまるで使い物にならない。初球の入りは真っすぐだろう。光明はさっと打席に立ち構える。

 予想通り真っすぐだった。光明は金属バットの芯をボールに思い切りぶつけた。

キン。捉えたときは手首にほとんど振動がない。一塁へ走ろうとしたときに打球はもう二塁ベースをこえている。センター前ヒット。上出来だ。

 ワンアウト、一塁ランナーは自分。ここで盗塁をしないでいつする。1、2、3、と半歩。練習通りのリード幅をとる。光明はセットポジションになったピッチャーを凝視した。

バッテリーと打者、一塁ランナーの対戦になる。ランナーが出たとき特有の緊張感がグラウンドを包み込む。

 「逃げた!」相手チームのベンチから声が上がる。光明はこの瞬間が好きだ。全員が自分に注目している気がして、自分がこのゲームの支配者になった気になる。できるだけ減速しないようにスライディング。そのままの勢いで立ち上がる。気持ちいい。余裕のセーフ。

 二塁ベースから見る試合は、野球中継のテレビ画面そのものだ。フライ、ライナーバック。ライト方向への飛球はタッチアップ。当たり前のことだが、走塁が苦手な光明にとっては大切な情報だ。コーチャーからもたらされる情報を頭の中で反芻しながら、第二リードをはねるように大きくとる。

バッターは後輩だ。こいつは飛球が多いから、打球が地面に落ちたのを確認してからスタートを切らなくては。

予想どおり大きく上がった打球は左中間を割る。光明は余裕をもってスタートを切り、ホームに生還する。俺のおかげで入った得点。光明はノリに乗っていた。ベンチに帰り、ハイタッチをする。つまらなそうにしていた後輩が、グラブにボールを当てて遊んでいた。


「光明のことどう思う?」

自撮りの写真をアイコンに設定している文和から恭平にメッセージが来た。隣に写っているのは彼女だろうか。自撮りを使うって相当自分の顔に自信がないとできない。恭平は光明に話したら喜びそうだなと思いながら、返信を打つ。

「ちょっと、ありえないなと思ったわ」

光明を突き放すメッセージは自分でも驚くほどスルスルと出てきた。本心って文章なら伝えられる気がする。

「やっぱり。話したいことあるから明日ファミレスね」

コイツはアクティブだな恭平は文和と光明と比較する。

「おけ」

恭平は、短い返信に激しい同意が含まれていることを悟られないように、十分間時間をおいて返信した。


 コイツは全然食わないな。文和はドリアを残していた。二人きりであったことなんて今までなかったから意外だった。足の速さは天からの授かりものなのだろう。光明が聞いたら、「センスだけでやってきた下手くそ」と罵るに決まってる。

「お前さ、光明と一緒に俺のことバカにしてるだろ。」

直球だ。

「まぁ、してないと言ったら嘘になるけど」

なんだか怒られそうなので思い切り変な顔を作りながら答えてみた。

「だよな。俺さ、小学校のときからそういうのなれてるからわかるんだよ。そんでさ、こっちもバカにされるのわかってやってるみたいなところあるし」

変顔は華麗にスルーされた。戻すタイミングがわからなくて、水を飲みながらもとの顔に戻した。

「そんでさ、光明のことなんだけど。まず遅刻したじゃん? 大会当日なのにアレはないなっていうか、あとスタンドでの態度とか悪いし、明らかに周りが気を使ってるというかさ、な?」

文和が光明をちゃんと分析していることが意外だった。ちゃんとチームのことを考えているんだ。恭平は少し文和を見直した。

「光明に対して思うことは俺にもある。試合中も北口と楽しそうに喋ってたよ。まあ、あんなゲームになっちゃったのは俺の責任なんだけど。」

恭平は話しながらポテトも注文した。

「ミスは誰にでもあるよ。誰もお前を攻めてない。でさ、本題に戻るけど、ホント自分のことしか考えてないよな。あいつが異常に他人に気を使ったり、どう思われてるかを気にするのって、一周回って全部自分のためになっちゃってるんだよ。」

自分のため、か。ただの自己中ナルシストかと思ってたけど、全然違うじゃん。恭平は自分の目をずっと見て話してくる文和に引き込まれていた。なるほどね、と言って続きを引き出してみる。

「でさ、このことを光明に言ってあげた方が良いと思うんだよね。お前は自分のことしか考えてないからチームのみんなが気を使ってるって。だから直した方が良いって」

え、言うの? 恭平はここで不満を言い合うだけかと思っていたので、驚いてしまった。

「言うって、本人に? お前が?」

そうだ。言うとしても文和だよな。恭平は慌てて答えた。

「違うよ。そこは恭平が言うに決まってんじゃん。だとしたらなんで俺はわざわざお前に伝えなくちゃならないんだよ。」

文和はそんなこともわかんないのかよ、と笑いながら言っている。まるで俺がボケたみたいな諭し方だ。

「いやいや、無理よ。光明と一番つるんでるのが俺だってことぐらい、文和だってわかってるでしょ。」

これじゃあ余計フリっぽくなっちゃったな、と言い終わった後に後悔した。

「わかってるよ。だったら余計お前から伝えられた方が良いんじゃねぇの?」

まずいな。これじゃあ文和の目論見通り、俺が頑張らなくちゃならなくなるぞ。恭平はそれだけは避けなくてはと口を動かす。

「うーん。仮に俺が光明にそのことを伝えたとするよ。お前はチームの足並みを乱してるって。でもさ、それが響くのって普通の奴だけだぜ。相手は光明だ。どうせ、遅刻したときみたいにでかい声で平謝りするだけだと思うんだよな」

あれ? 「足並みを乱す」なん恭平介は言ってたか? これは俺の本心なのか?

「そっか。光明だもんな。」

「じゃあこうしよう。一回ミーティングで全員の前で言う。光明がはいはい言って誤魔化すのって、自分の格好悪い姿に耐えられないからなんだよ。光明はプライドが無いように見えて、人一倍プライドが高い。格好悪いところを全員の前で見せてやれば変わるんじゃないかな。」

プライドが高い? あの光明が。いや、待てよ。光明がやけに自分を低く見積もるのもそのせいなのか。恭平は光明とに自主練習で「俺は初心者だから」と不自然なほどに保険を打ってくる姿を思い出した。

「わかったよ。でも急に俺から言い出すのは変だよ。あとキツイ。だから、文和が本音を言っていくみたいな雰囲気を作ってくれよ。これを飲んでくれないと俺はやらない。」

一応条件を付けくわえておいたが、本当は光明に言ってやりたい言葉で口の中がいっぱいだった。

「任せろ。じゃあ、決まりな。」

恭平はすっかり冷え切っていたポテトを口の中に放り込んだ。


文和と話さなくてはならない。山村は、大会に負けて責任を感じているであろう文和を励ますため面談室に呼んだ。約束の十三時の十分前、扉を三回ノックし「失礼します」と声が聞こえた。 

礼儀正しいやつだよな、と山村は感心した。席に座った文和を見つめた後山村は単刀直入に聞く。

「なんで負けたと思う?」

シャン、と背筋を伸ばす文和が口を開く。

「チームがまとまっていないからだと思います。オブラートに包まなければ、特定の人物がその足並みを乱している、と思います」

特定の人物、とぼやかしても誰のことだかすぐわかる。山村は低いトーンで声を出した。

「木山か。俺もそうだろうと思った」

山村は木山が嫌いではない。努力を惜しまないし、センスがあると思っている。だが、自分のプレーにしか興味がなく、自分が出場しない試合はまるで応援しない。

「そうです。光明です。俺はあいつに気づかせてやりたいんです。野球で勝つためには誰かが足並みを乱しちゃダメだって」

山村は首をゆっくり縦に振り、相槌をうったあと続けた。

「お前の言ってることは正しいし、チームを盛り上げるプレーができるところがお前の良さだと思ってる。だけどな、お前の練習態度を見てると、木山がチームに非協力的な姿勢になるのもわかる気がするんだよ。声を出したり、ノックを丁寧に受けたり、そういう姿を木山に見せてやればいいんじゃねぇか? それでも木山が変わらないっていうなら、真実を突きつけてやればいい」

文和は笑った。山村が「ちゃんと見てるからな」とツッこむと、「任してください」と言い、丁寧に面談室を出ていった。

 山村は、勇ましい文和の背中をみて、夏の一勝が少し近づいた気がした。


 三打数三安打一死球。光明は絶好調だった。一打席目のセンター前ヒットを皮切りに、レフト前、右中間を抜けるツーベースヒットの猛打賞。光明は機嫌が良かった。自主練習をして、素振り。家に帰って、夕食を胃袋に詰め込んだあとも素振りをするくらいやる気に満ち溢れていた。 

Bチームを指揮していたコーチも、今日の結果は監督に報告をすると話していた。いける。これでA戦に出場できる。そこで今日のようなバッティングができれば、背番号がぐっと近づくはずだ。明日の練習を楽しみにして光明は寝た。

授業が終わったあと、グラウンドに行こうとすると、マネージャーに今日はミーティングだと伝えられた。雨も降ってないのにどうしてだろう。お説教だろうか。部活停止にでもならないかな。光明は誰がやらかしたら自分にとって都合がいいかを考えながら教室に向かう。

 狭い教室にユニフォームを着た坊主が集合する。暖房をかけているわけでもないのに、なんだか暑い。人の体温ってものか。それにしてもうるさい。耳が内側から爆発しそうだ。教卓の前に文和が立つ。

「静かに!  監督来るよ!」

文和が指示を出すと、さっきまでの大騒ぎとは打って変わり教室がしんとする。野球部は「監督」という名前を出せば静かになる生き物なのだ。野球部の中でそれをわかっているのは多分自分だけだな、と光明は思う。ガラガラ、ドアが開くと、全員が立ち上がる。

「気をつけ! お願いします!」

文和が音頭をとる。教室内なのに声量がグラウンドのときと同じだから、すごいうるさい。

「お願いします!」

と言いつつも、光明は声を張り上げた。周りに合わせておけば良い。監督が「座っていいよ」とジェスチャーをする。すると、「失礼します」という声がそこら中から聞こえてくる。学校の授業前には絶対に言わないくせに、こんな時だけ言うなんて、心底気持ち悪い。反吐が出る。光明は、黙って着席した。

「今日集まってもらったのは、春大会の映像を見てもらうためね。おい、マネージャー!」

監督が言うと、マネージャー達がそさくさと動き回る。どうやらプロジェクターをセットしているらしい。自分がプレーするわけでもないのに、雑用ばかりやらされて、一体何が楽しいんだろう。光明は、マネージャーを見るたびにいつも思う。

 目が痛くなるくらい白いホワイトボードに、あの大会の映像が映し出される。和人のしぶといライト前。文和の盗塁。恭平の悪送球。光明は自分がスタンドにいる、という悔しさのあまり、映像の選手たちを直視できなかった。

「和人、上手いこと打ったな」

監督が褒める。当たり前ですよ、と和人。

「ただ、他の三打席はどうしちゃったの?」

監督がワントーン高い声で和人を茶化す。おかしい。普段、監督はそんなことをしない。

「上杉、この場面はなんでインコースなんだ?」

恭平が悪送球した場面だ。山村監督は小学生を叱るように上杉に問う。

「和人さんと話して、投げられそうだったら投げようってことになってて、でも結果打たれてしまって、申し訳ないです」

上杉の声がどんどん小さくなっている。本当に後悔しているのが伝わってくる。でも、先輩の代なんて早く終わった方が良いのに、どうして上杉はここまで落ち込むのだろう。

「和人のインコースは、生命線だもんな。あの日はそれが甘かった。また練習すればいいだけだ」

監督は他のことを言いたそうに見える。何なんだ。

「恭平。お前は普段の練習から雑だもんな。うちのキャプテンみたいに」

みんなが笑う。練習で絶対手を抜かない恭平に向けられているから起こる笑いだ。

「あと、最後に文和から」

文和は、「はい」とキレのある返事をし、教卓の前に立つ。何を話すのだろう。光明は大量に座っている坊主の隙間から、文和を睨むように見つめた。

「チームが勝つために必要なことは何だと思う?」

文和は急にバカになったのだろうか。無失点に抑えて、できるだけ多く得点を取る以外に何があるんだよ、と光明は心の中で答える。

「じゃあ、光明」

指名された。坊主の塊が少し動いた気がした。

「できるだけ点を取ることです」

光明は真っすぐに答えた。

「それもある。けどもっと他に、な、あるだろ」

文和は、「やっぱりか」という顔をしながら恭平の方を見つめている。

は? なんだよその顔。てめぇが聞いてるから答えてんだろうが。

「団結です。チームの」

恭平は光明に視線を移してから答えた。自分のことを言われた光明の心臓はバクバクと音を立て始める。

「ビデオ見てるときから気になってたんですけど、スタンドの態度が悪い。ノックの合間とか、グラウンド整備が終わったあととか、自分のすることが終わった安心感からなのか、話してる人が多すぎ」

光明は血液が動き出しているのを感じる。耳や脇に熱が引っ付いてくるみたいだ。

「チームが負けてるのが、失点をしたのが、そんなに面白いか? 光明。自分には関係ないじゃないだよ。別にミスが起きたって決してお前とは代わらないよ。だって、チームのことを一切考えてないんだもん。そんな奴に背番号は与えられないだろ?」

さっきまで文和の方を向いて話していた恭平が、自分に向かって話している。坊主の塊が全員こちらを見ている。今、ここにいる全員の目や意識が自分のことを「カッコ悪い人」としてラベリングしている気がする。

最悪だ。嫌われたくない。光明は声が震えないように気を付ける。

「すいません」

光明はチームに向けて謝った。だが、その意識は「全然傷ついていない自分」をいかに演出するか、に向いていた。

「今まで野球に対して真剣に考えてきたつもりでいたけど、チームのことは全然考えていなかってんだな、と気づかされました。恭平、ありがとう。夏の大会まで時間は少ないですけど、そこを改善していきます。笑ったり、気が抜けたりしていてすいませんでした」

場を収めるときに最も有効なのは素直に謝ることだと知っていたから、すぐに謝った。そんな気持ちはさらさらないけど。

「今日はたまたま光明だったけど、他のスタンドの選手も同じだからね。じゃあ、今日は終わりで」

文和が締めにかかる。教卓から自分の席に戻り、監督へ挨拶をする。「じゃあ今日は解散」と監督が言うと、坊主がバラバラと動き始めた。

 恭平はいつものように話しかけてこない。他の同級生も知らん顔をしている。帰ろうとすると、文和に「明日から素振りの声出しの音頭お前な」と言われた。「おう」と答えラインを開く。

後輩の北口から「全然府に落ちてなさそうな感じがすげえ面白かったです」とメッセージが入っていた。光明は嬉しかった。


夏大会の背番号発表まであと二週間と迫った六月下旬、練習試合があると伝えられた。ここまで7打数5安打1四死球と結果を残していた光明は、自分を代打の一番手だと思い込むことで自分にプレッシャーをかけ続けた。

レギュラー陣は自分たちの調整だと思っているのか、その目は夏大会に向いており、一本でも多くヒットを打とうという気迫が感じられない。光明はそんな彼らをレギュラーから引きずり下ろせない自分が情けなかったが、実力が無いのでどうしようもなかった。素振りの音頭で回りが引くような大声を出し、そのやり場のない気持ちを誤魔化した。

試合当日、光明は早起きをした。素振りをするため外に出ると、気持ちの良い風がふいていて、腕がもげない限り永遠に振れるな、と思った。

想像の中で作り上げた大谷翔平と勝負をし、バックスクリーンに三本のホームランをお見舞いしてやった。今の光明に打てない投手は存在しなかった。

いつもより十五分くらい早く来たグラウンドに後輩が二人来ている。真面目で自主練習を怠らない後輩を見て怖くなる。自分の代わりにコイツらが入るかもしれない。準備を素早く済ませ、グラウンド入りした。

「おはよー」

光明はできるだけ偉そうにならないように、整備をしている後輩二人に声をかける。

「おはようございます。木山さん今日早いっすね」

若干バカにしたような声のトーンだ。光明は懐に入ってくるのが上手いな、と思った。

「いや、今日なぜか早く起きちゃって。自分でおにぎり作っちゃったよ」

「料理できますアピールですかぁ? 後で食べさせて下さいね。光明センパイ」

「あげるわけないだろ!」と光明は答えた。

本当はアラームをセットして起きたという事実を隠し、バットを並べた。

 時間が経つにつれ、気温が上がるので、動いていないのに汗をかく。ポツポツと選手たちが集まってくる。その中に恭平もいた。光明は気まずかった。だが、その気まずさは恭平が話しかけてくれたことによって、いとも簡単に晴れることになった。

「昨日の声出し良かったわ。できるんなら最初っからやれよー」

「ああ。オレモウジブンノアヤマチニキヅイタカラ」

光明が急に棒読みになると恭平は笑った。

 試合が始まる。今日のピッチャーは右のオーバースロー。黄色いグローブをしていて、帽子のつばが「へ」の形になっている。

見るからに気迫がありそうで、一球投げ終わるたびに帽子を直している。最初から深く被れよ。光明は相手ピッチャーの悪いところばかりを探して、打席に入ったらその右肩にライナーを直撃させるイメージを作る。なめられてはいけない。甘いボールを待つのだ。光明の目にはピッチャーしか写っていなかった。

 自分の出番を待ち、そのときはとうとう訪れた。ウチは二番手のピッチャーを出すらしい。光明は監督のそばで素振りを始めた。「使ってください」とお願いしているようで恥ずかしかったが、Aチームの投手を打てるチャンスは今日しかない。自分のヒットがまぐれでないことを証明するのだ。

 左手にラケットを持っているようなイメージで、バットをボールの軌道にあわせてやる。芯に当たれば、センターにライナーが飛んでいく。簡単なことだ。練習と同じ形。素振りでイメージし続けてきた形。

「木山、いくぞ」

監督の短い言葉が着火剤のように光明の心を燃やす。ピッチャーが憎くてしょうがない。光明の悪いところ探しは、ピッチャーの家族にまで及んでいた。

 左足をバッターボックスの一番後ろの線に平行になるように置く。スタンスは肩幅よりちょっと広いくらい。指三本分バットを短く握り、SSKの刻印を確認する。トップは深く、ピッチャーの動きに合わせてヒッチ。バットが自分に巻き付くような感覚で振る。自然なインサイドアウトのスイングだ。身に染み付いている。

 大切なのは初球だ。多少ボールでも振って空振りをすればオッケー。タイミングを測れる。

 ピッチャーが振りかぶり、ボールを投げる。ストレート。光明はスイングをかける。中途半端はだめだ。バチン。キャッチャーのミットにボールが収まる。「ストライ!」審判がコールする。 

速い。結構立ち遅れている気がする。次はもっと速く手を出そう。「顔が明後日向いちゃってるよ〜!」ベンチからうるさいヤジが飛んでくる。黙れ、練習不足の慢心野郎どもが。見てろよ。光明は一回素振りを挟む。

よし。ボールをできるだけ平行に見れるように顔を一塁方向へ向ける。黄色いグローブが上に上がる。ボールが来る。スイング。

ダッ。ボールはショートバウンドし、キャッチャーが止めていた。変化球か。いい変化球は振ってから初めて気づく。くそ。次も膝元にスライダーを投げられたら打てない。光明は祈った。真っすぐ、来い!

三球目。真っすぐだ。光明は迷わずスイングをかける。

 ―緩急。光明の振ったバットの先端がセンター方向に向いたとき、ボールが横を通過していった。

チェンジアップか。左右の変化ではない。18.44メートルの空間での変化。光明が初めて見る軌道だった。キャッチャーが元気よくサードにボールを送る。打てなかった。

「ダッシュで戻れ!」ベンチからの声で光明の足がやっと動く。

 「ドンマイ」という声掛けをされて、余計自分がみじめに感じる。三球三振。これじゃ「自分は通用しません」と宣言したようなものだ。これが一年や二年ならいい。まだ伸びしろがあるからだ。しかし、光明は違う。三年の光明には伸びしろが無い。大会まで一か月を切った。背番号発表まで時間は無い。どうすればいいのだ。練習不足や準備不足ではない。今日のチェンジアップを打つためには、自分の打撃スタイルを根本から変えないといけない気がする。ふと試合を見ると、あれだけバカにしていた文和が変化球をライト前へ運んで出塁していた。光明は試合に出続ける文和の凄さを初めて知った。


 七月。夏大会の初戦の相手が決定した。抽選会を終えた文和は、責任を感じていた。相手は加須加部高校。毎年県内でトップ争いをする強豪校だ。

 抽選会場で「よろしく」と言われ、握手を求められた。加須加部の主将はプロ注らしい。恵まれた背丈と長い指はピッチャーをするために生まれてきた野球星人だと言われても不思議ではない。帰って報告をしなくては。制服が珍しい目で見られる車内に居心地の悪さを感じる。

 グラウンドに行くと練習が始まっていた。声が良く出ていて、きびきびした動き。新チームの始動時と比べて良くなったと思う。

 着替えを済ませ、監督に挨拶をする。さっき監督には電話で伝えたから、「集合かけて、全員に伝えてやれ」と言われる。

「集合」

チームの練習が止まり、全員が全力疾走で集まってくる。気持ちいい。

「相手は加須加部。エースはプロ注らしい。今度のミーティングまでに、マネージャーが映像を持ってきてくれるから頭に入れておくように」

 加須加部、という単語でチームがどよめいた。誰も口に出さないけど、「負けたな」と聞こえてきそうだ。文和はいつもより元気を出したが、電車に乗っているときより居心地が悪かった。


 「残念だけど、背番号はあげられない」

監督にそう伝えられたのは、夏大会まで一週間を切った七月の練習中だった。練習試合でチャンスがなかったり、フリーバッティングのグループに名前が無かったりと、うすうす感づいてはいたが、いざ言葉として伝えられるとどんな顔をすればいいかわからない。

 光明のほかにも数人の同級生が、同じように監督に呼ばれている。光明は、何事もなかったように練習に戻る。

「何て言われたの?」

文和が声をかけてくる。

「夏大、背番号貰えないって」

光明は悪びれもなく声をかけてくる文和に傷ついた。コイツには到底俺の気持ちはわからないだろう。

「応援頼むな。お前の声良く通るからさ」

うるせぇな。黙れよ。気持ち悪い。次々と悪口が出て来る自分が嫌になる。背番号を貰えないのは自分の実力不足なのに、文和は俺に気を使ってくれているのに、誰かに責任をなすりつけないと自分が保てない。

「うん。俺守備手取ってくるわ」

光明はその場を離れるのが精一杯だった。


「受験の準備」


 自分は何をしに来ているのだろう。内野グラウンドを整備しながら、外野でアップをするメンバーを眺める。じっとりとした不快な汗がアンダーシャツを蒸らしている。俺もキャッチボールがしたい。

「ネット運ぶよ」

光明と同じように背番号を貰えなかった同級生が指示を出している。プレーしているときよりも顔に自信があるような気がする。

 光明はのそのそと走り、緑の大きな網を持ち上げる。重っ。メンバーのために自分の筋肉を使いたくないから、ほとんど力を入れない。光明がさぼるから隣の後輩に負担がかかる。

 バッティングマシンを押す。もう使うことのないそれは、光明にとってただの鉄の塊に過ぎない。加須加部のエースを攻略するためいつもより5メートル前に置くらしい。

 今度はバッピ用のネット。昼に食べたおにぎりのエネルギーがこんなくだらない往復で消費されていると考えると嫌になる。

「バッピ俺がやるよ」

背番号を貰えなかった三年生は、自分の居場所を探す。自分がこのチームのために何で貢献できるのか。チームで回している練習ノートにそんなことが書かれていた。自分のバッティングについてしか書かない光明のノート返信に「もっとチームについて考えなさい」と書かれていたのを思い出す。知らねぇよ。というのが光明の率直な感想だった。自分はチームのために野球をやっていたわけではない。自分が野球をするためにこの部活に入ったのだ。サポートメンバーと化した今、光明がこのチームに存在する意味がなくなっていた。


 変わってないな。恭平は内野グラウンドでだるそうな表情をしている光明を発見した。大会までは一週間を切っている。シートノックやフリーバッティング、100mダッシュまでもが愛おしく感じる。もし初戦で負けてしまったらこのグラウンドに来ることは無くなるだろう。

 こんな大切な時期とテスト期間がかぶっている。残りの練習が全て一日練習だとしても、準備が足りない気がするのに、半日しかできないなんて、学校は何を考えているのだろう。

「シートノック!」

文和の「シ」と「ク」しか聞き取れない掛け声で恭平は走り出す。走りだすと言っても、守備位置はサードなので、正味五歩程度だ。

 「ねがいしゃす!」サードの一番手が元気よくゴロを捌くと、内野のシートノックが始まる。低く強い送球を羨ましいなと思う。自分が同じように「お願いします」というと、ノッカーがゴロを打ってくる。ワンバウンド目が高く跳ねたから、すかさず前に出る。ショートバウンドで合わせにいくと、グラブにボールが収まっていく。壊れかけたスローイングのフォームも、不格好だが真っすぐにボールが投げられるまでになった。

 バックホームをストライク送球し、整列する。恭平はこの時の充実感が好きだ。

「俺、大会でもこのバット使うから。頼むな」

和人がバットを差し出してきた。真っ黒で文字だけが金色のⅤコング。芯に当たらなくても、高い音を立ててボールをどこまでも飛ばしていきそうだ。

「おけー。任して。当日はかっ飛ばしてくれよ」

恭平はレギュラーに気持ち良くプレーしてもらうため、できる事なら何でも貢献したいと思っている。チームが勝つためには自分のような存在が必要だ。

 恭平は悔しい気持ちを押し殺しながら、和人にトスを上げた。バチン、バチン、バチン。ボールがネットを鋭く突く。

「もっと左側にお願いできる?」

「こんくらい?」

恭平から見て少し右側にトスを上げると、そーそー、と和人は太い下半身で踏ん張りながらバットを振る。

「あーうんこもれそう」

喋りながらトスを打つ和人に誰も注意をしない。人間同士の力関係ってスポーツの実力で決まると思う。社会人になったらそれが年収や地位に変わってくるのだろう。だから、地位が高い人はノンストレスで生きやすくて、地位の低い人はご機嫌を伺うから生きづらくなる。自分は後者だから、レギュラーのご機嫌を伺わなきゃならない。

「えー、今? 行ってきなよ」

大げさに相槌を打って和人をトイレに行かせる。和人は「わりぃ」と通り過ぎていく。

 光明が気怠そうな表情で北口と整備をしていた。


 バッティングピッチャーをする同級生。選手のサポートを積極的に行う後輩。ベンチに入っていない選手の誰もがその身をチームに捧げている。

 光明はそんなチームメイトの姿を見ながら、トンボをかけている振りをしていた。俺には居場所がない。選手としての役割を失った光明は野球部にいるモチベーションを失っていた。

「ゲームノック」

文和がいつものように指示を送ると、メンバーはピクミンのように整列し、各々のポジションへと散っていく。一方、ベンチ外の選手たちはランナー役をするためにホームベース付近にならび始めた。光明は重そうに足を引きずりながら声出しの場所へと移動する。

「おい」

大会まであと五日と迫った貴重な練習時間。メンバーとベンチに入っていない光明との温度差を監督が見逃すはずがなかった。

「木山さ、やる気ないなら外れろ」

監督は普段の様子からは想像できないような声で、光明の動きとチームの練習を止めた。光明は沈黙したまま監督の方を向く。

「お前、舐めんなよ。外れたからって関係ないじゃないんだよ。今お前が足引っ張ってんのわかんないかな」

関係ないや、って思ってんだろ! と監督が語尾を荒げる。光明は一瞬ビクリとしたが、同時に今しかない、と決意した。

「なぁ、聞いてんのか?」

光明が視線をそらすと監督が激昂する。光明は冷静さを保つため、脳内でこち亀のBGMを流しだした。

「はい」

光明は疑問のニュアンスがありそうな「はい」を答えた。

「はい、じゃねぇよ。外れろって言ってるんだよ」

監督が光明を見て話しているとき、こち亀のBGMが盛り上がりを迎える。

「はい、わかりました」

光明はできるだけ短く答え、ダッシュでその場を離れた。そして、グローブをてにはめ、ほとんど満タンの水筒を回収し、スパイクのままグラウンドを離れる。カツカツ、とコンクリートの上をスパイクの金具が駆け抜けていく。金具が減らないように丁寧に扱ってきたスパイクはもう要らない。だってもうグラウンドには来ないから。

 後ろから声がする。それでも光明は走るのをやめない。前だけを向き、思いきり変顔をしてみると、すごく気持ちがよかった。

 自転車置き場についたとき、二盗を決めたあとのような達成感が光明を包んでいた。


 九時に起きる。すぐに布団を出ないでスマホを弄っていると、罪悪感が襲ってきたので仕方なく起床する。テレビをつけると、『スッキリ』が放送されていた。朝の情報番組をちゃんと見たのはいつぶりだろうか。

 チャンネルを回していると、一足早く決勝を迎えている県の映像が流れてきたのでテレビを消した。

 身支度を整えていると十時になった。光明は白紙の紙を取り出し、マジックで目標を書く。


第一志望 青山学院大学

今の自分に足りないこと

英語の単語力

文法の知識

リスニング

世界史の知識

古典、漢文の基礎


青山は届かないかもしれないけど、高いところを目指せば、おのずと進路が広がるのではないか。光明は早速ターゲットの単語帳に取り掛かった。


 光明が部活を休んだ。昨日グラウンドからいなくなったあと、部活は続けられた。恭平は、少ないフリーバッティングの球数を自分で補った。

「木山に連絡しとけ」

監督が恭平では無く、俺に直接伝えてきた

だが、連絡するつもりはない。誰も言わなかったけれど、光明が抜けたあとの練習は水が漏れるバケツを塞いだあとのように、ぴったりとそこに存在していた。

光明が生む空気にチームのみんなが気を使っていた。いない方がいい。それはチームの士気をみれば明らかだった。


「明日の天気は晴れ。絶好の野球日和だよ」

監督が大会前最後の練習でこういった。

「いつも通りやれればいい。それでも緊張はするから、実力以上のものはでない、と心に誓っておけ」

いつもはつまらないと思っている監督の話も、今日は聞いてしまう。今までの練習で自信は付いているはずなのに、何かに体を支えてもらえないと真っ直ぐに立てないのだ。


 監督の予報通り晴れだ。恭平は、グローブとスパイク、ユニフォーム一式が入っていることを七回は確認した。

 二試合目だから、少し早い昼食を取る。バナナやゼリー、すぐにエネルギーになりそうなものをみんなが摂取している。

 一試合目。北工業が負けた。泣きじゃくっている選手たちを横目に見ながら、ベンチへと入っていく。数時間後、自分たちも泣くことになるかもしれない、という悪いイメージを声を出すことで紛らわせる。

 金属バットに、ボールケース。ノックバットと救急箱。いつもはただの道具としてみていたけれど、こんなチームのものにさえ、応援されている気がする。準備を終え、アップシューズに履き替える。開会式を行った球場より狭いはずなのに、だだっ広い芝生は自分の体を拘束するひものように動きづらさをもたらしてくる。

 ランニングをし、キャッチボール。緊張で腕が縮こまる。ボールが引っかかって思い切り投げるのか怖い。ふと文和を見ると、いつものように肩をぶん回している。こいつは緊張しないのだろうか。

「シートノック」

文和の変わらない声に少し安心する。ダッシュでラインに並ぶ。

「気をつけ! お願いします!」

「お願いします」

続いて声を出す。応援の吹奏楽部がちらほらと見える。

 まずはボール回し。キャッチャーから三塁ベース、三塁ベースから二塁ベース。緊張して体がいつもよりも硬い。自分の番でナイスボールを送球できたとき、やっと緊張から開放される。

 シートノックを終え、少し安心する。今日の自分の役目はバット拾いだ。レギュラーの選手が使うバットを渡し、使ったバットをダッシュで拾いに行く。これがベンチの控えの仕事。

 一回の表、文和のバットを拾う。

 

ノックが終わった。文和は一番でセンターという自分の名前が映し出されたスコアボードを誇らしく思う。先行だから、試合が開始してからすぐに打席に向かわなければならない。加須加部のエースは右腕。セットポジションから投げているとは思えないような真っすぐを投げ込んでいる。でもそれは不思議ではなかった。いつまででもスクワットをできそうなその太ももが冬の間のトレーニングを思い起こさせる。

 「しまっていこー」とキャッチャーが叫ぶと、「おうい」という強豪校特有の図太い掛け声がグラウンドにこだまする。

 左足を安定させるため真新しい打席の土を掘る。まずは出塁だ。フォアボールでもデッドボールでも何でもいい。文和はいつもよりベースに近く打席に立つ。

 初球。鋭い直球が体の近くに来るだけで少し怖い。球速はマシンと変わらないはずなのに、やっぱり生きている球は速い。

 二球目。スイングをかけるものの、ファール。白球が三塁スタンドに飛び、ガコン、と音を立てた。

「足が速いだけだよな」

「ナルシスト? じゃね? アイツ」

「キャプテンだから試合出れてるのに」

 打たなくては。雄介は、毎日弁当を作ってくれた親、指導してくれた監督、メンバーのために練習を手伝ってくれた控えの選手たち。自分をグラウンドに立たせてくれているこの足は、毎日の練習だけでは作られない。支えてくれる人たちの存在があって初めて安定感のある下半身となる。

「あいつが野球部ってだけで、イメージが下がる」

「走り方おかしくね」

外の直球、ボール。ワンボールツーストライク。

 打ちに行って、バットを止める。これができるようになったのも、バッティングピッチャーとして練習に付き合ってくれた同級生の斎藤のおかげだ。

 四球目、さっきのファールを見てか、インコースに速球が来る。文和はバットを先に出し、クルリ、と腰を回す。すると、打球はいとも簡単に一塁手の頭を超えていく。

「雄介さんって、外は上手く打ち返すんですけど、インコースはいっつもセカンドゴロかファーストゴロじゃないっすか?」

キャッチャーの上杉が教えてくれたことだ。上杉は肘の抜き方が上手い。その日以来、打撃練習が一緒になったときはアドバイスを送ってくれた。

「そうです、その感じです。教えてあげたんで今度焼肉奢って下さいねー」

 打球は一塁線に転がる。それを見て雄介はすかさず二塁へと走り出す。ライトからセカンドへとレベルの高い中継プレイが繰り出されたが、セーフ。スライディングの必要がない余裕のセーフ。

 タイムをかけ、エルボーガードとレッグガードを外す。

「どうせ三振なのに、なんでフル装備なんだよ。笑える」

ランナーコーチャーの佐藤がダッシュで取りに来る。「ナイスバッチです!」と自分のことのように喜んでいるのがかわいい。チームの良さってこれだよ、光明、と心の中で呟きながら、ベース上でサインを見る。

 手の甲、肩、右耳、帽子のつば、拍手二回。バントか。

「何百球も打って、何千回も素振りして、それでもバントのサイン出すって、頭おかしいんじゃない?」

 140キロ近い直球の勢いをうまく殺したバントは、三塁手が取らなくてはならない範囲のギリギリに転がった。文和は三塁ベースに滑り込む。

 バントを決め、ベンチはお祭り騒ぎだ。バッターは瀬川。雄介は再びベンチを見て、サインの確認をする。ノーサイン。

 内野は定位置だから、最悪一失点は良しとしているのだろう。ピッチャーがこちらを見ながら、大きく右足を上げる。瀬川は迷わず初球を叩く。ショートにちょうどいい強さのゴロが転がる。雄介はホームに向かって全力疾走をする。スライディング―。

 ショートは一塁へ送球していた。一点先制。あの加須加部から先手を取った!

 ベンチに行くと、普段は表情をほとんど変えない監督が笑顔で自分を迎えていた。加須加部が勝つに決まっている、と思い試合を見ていた観客たちが自分たちのチームに傾いている。スタンドに帽子を深くかぶり、マスクをしている男を見つけた。


 泣かない、と決めている。優勝したチームですらうれし泣きをするのだから、高校野球にかかわっている人間として、泣かない人など一人もいないはずなのに、言葉に詰まったら話を終えるようにしている。

「えー、今日をもってこのチームは終わり。二年生は来年があるから、こうならないように。明日の練習は―」

 明日の練習のことなど考えられるはずがなかった。もっとこのチームに勝ちを知ってもらいたかった。山村は、一回戦で加須加部を破ったこの代の強さを誰よりも知っている。

 加須加部に勝利したあと、山村は選手たちに次の対戦相手を伝え、「気を抜くな」と忠告しようとした。だが、文和の目を見たときにその必要はないとわかった。今までキャプテンである文和を冷ややかな目で見ていた二年生連中やメンバー外の選手たちが、テキパキと動くようになり、返事の声もいくらか大きくなった。文和をキャプテンにして本当に良かった、と心の底から思う。

 しかし、夏の大会というのはわからない。どれだけ気を抜かないでいても相手チームを研究しても、それらが嘘のように負けてしまうこともある。結局、ウチは西工業という公立高校に敗れた。

 だけど、文和の代が見せた大会での姿は、まさに自分たちが目指した「応援されるチーム」であった。


 四時に起きる。外はまだ暗く、朝というより深夜という方が適当かもしれない。外に出ると太陽が昇っていないからまだ寒い。光明は走り出す。誰ともすれ違わないこの時間帯を走っていると、まるでよくできた映画のセットの中にいるみたいな気持ちになる。

 三十分ほど走ったら、シャワーを浴び、朝食をとる。身支度を終わらせ、五時には机に向かう。

 最初は英語。単語を百個覚えるまで立たない。終わったら前日の百個の復習をする。あれ、まあまあ抜けてるな。時計を見ると七時を回っていた。光明は一度コーヒーを飲む。十分後、再び机に向かい、十二時まで世界史、英文法、古典、漢文のローテーション。昼食をとり、午後からは図書館へ。自転車に乗る十五分がとても楽しい。十七時までさっきと同じローテ―ジョンを繰り返す。くそ、英文法はいつになったらできるようになるんだよ。図書館で大声を出したくなる衝動をどうにか押さえつけながら、勉強し続ける。家に帰って、晩御飯を食べ、風呂に入り、九時までには寝てしまう。

 こんな毎日を夏休み中ずっと繰り返している。甲子園は一回も見なかった。優勝校がどこなのかも知らない。いや、知ろうとしなかった。光明の野球は、グラウンドを抜け出したあの日から止まっていた。


 七月十四日、夏大会の初戦。光明の腰は軽々と上がった。二試合目に合わせて、家を出る。

 途中知っているバックを持った集団を見かけたので、少し離れて球場に向かった。お茶を買い、トイレに寄ったりしていたら、ちょうど試合開始のサイレンが鳴っているときに到着した。

 スタメンは、予想通りの並びだった。少し前に座っている女子は、加須加部の偵察に来たのだろうか。必死にスコアを付けている。制服に野球帽姿がかわいい。

 応援席では、同級生が声を出していた。相変わらずそろっていない校歌が静かな球場に響く。光明の座るバックネット裏から、「ま、せいぜい最後の夏を楽しみな」という雰囲気が伝わってくる。光明も同調した。

 だけど、その十分後、状況は一変する。文和が今までに見たこともないインコースの捌きをし、二塁打を打ったと思うと、二番三番であっという間に一点を先制した。

 応援席は大盛り上がりをしていた。声出しリーダーの同級生がメガホンに水をため、全員にばらまいている。キャー、という声で、楽しいんだろうな、と伝わってくる。

 カッコ悪い、と思っていた応援席が羨ましい。でも、俺はそこには入れない。自分たちが練習を手伝った選手がヒットを打つ喜び。でも、俺はそこに入れない。チームのことに気を配った人間だからこそ生まれる連帯感。でも、俺はそこに入れない。試合に勝利したあと、保護者に挨拶するときに感じるスタンドの選手たちの誇らしさ。でも、俺はそこには入れない。

 でも、俺はそこには入れない。三日休んだだけなのだから、今から謝りに行けば、次の試合をスタンドで見させてもらえるかもしれない。でも、光明にその勇気なかった。

 ベンチの前で監督が今までに見たことのないような笑顔で文和を迎えている。さっきまで加須加部が勝つに決まっている、とウチの方を見もしなかったおじさんが、いつの間にかウチを応援している。

 全力疾走でバット引きをする恭平。全速力で二塁ベースにエルボーを取りに行く佐藤。うっとうしいと思っていた「応援されるチーム」という理想がそこには体現されていた。


「大学決まった!」

「えー? マジ! おめでとー」

一般入試で大学を目指すクラスと聞かされていた教室は、推薦で大学を決めてしまう人で溢れかえっていた。残りの高校生活を楽しむ人は、授業中、休み時間関係なく騒ぎ、先生もどこかそれを認めているようだった。自分は勉強だ、と言い聞かせてきた光明は完全に居場所を失っていた。

それでも光明は「数年後を考えられないかわいそうな人たち」と思うことで、自分を落ち着かせた。文化祭は休み、「どうして来なかったの?」と聞かれても、「心持が悪くて、」とにやけることで誤魔化した。

 四時に起きる生活を続けて二か月。偏差値は少しづつ上がり、黒い塊にしか見えなかった英語の長文が、意味を持った物語として頭に入るようになっていた。

十二月。センター試験まであと一か月と迫ったころ、センタープレというテストが実施されるそうだ。この時期にA判定、もしくはB判定を取ると、その大学はよっぽどのことがない限り、合格できるらしい。光明は、まるでパチンコ屋の店内のようにうるさい教室を後にし、図書館へ向かった。


 暗唱できるまで記憶した大学の募集要項を心の中で唱える。「グローバル社会に対する意識と国際社会に対する―幅広い視野を持ち合わせた―こととします」

 よし。大丈夫。練習通りに。文和は、スマホにつけたストラップを思い出し、平常心を保つ。

「須藤さん、どうぞ」

パンツスーツを身にまとい、指先までしっかりと伸びている女性が中へと案内してくれる。

「失礼します」

野球部で培った礼儀と大きな声がこんな形で生かされるとは思っても見なかった。もし、小学生のときの自分に会えるなら「ちゃんとコーチの言う通り、礼儀を大切にしろ」とパワーポイントを使って丁寧に説明してやりたい。

 志望理由、大学で成し遂げたいこと、全部わかる。これも全て山村監督のおかげだ。


 AO入試を受けてみないか、と言われたのは、今年の八月だった。母親と学校に行くなんていつぶりだろう。一緒に歩く母さんの背がいつの間にか小さくなっている。なんだか恥ずかしいから自分がそさくさと歩き、教室に向かう。階段を上り、ドアを開ける。

「おー、来たか。」

部活で会わない監督はただのおじさんだ。太り過ぎの。母親が「すいませーん」と遅れて入ってくると、さっきまでのフランクさとは対照的に、よそ行きの顔となった監督が「さあさあ、こちらにお座りください」と椅子を引いている。

「これがね、ちょうど二か月ぐらい前にやった模試の成績なんですけどね」

監督が、顔のわりに整頓されたファイルから偏差値が書かれた紙を取り出す。受けているときは「ねむー、俺寝るわ」といい爆睡をかましてやったが、いざ母さんに見られるとなると、急にちゃんと受ければよかった、と後悔が押し寄せてくる。

「あんた、なにこれ」

いや、でも定期テストは平気だから、と言い返す。「ほんとダメなんだからー」と言い合いになっている俺と母親を監督が苦笑いで見つめている。

「それで、文和くんにはAO入試が合ってると思うんですよ」

「AO入試?」

「くん」を付けられた違和感より、AO入試という初めて聞く単語への興味の方が勝る。

「前に言っただろ? 忘れたのか?」

そう言いつつも、監督はカラフルな資料を次々に出してくる。

「簡単に言うと、高校生活を文章にしてアピールしたり、面接で自分がどんな人間なのかを語ったり、大学が求める人材であるかで判断するテスト、って感じかな」

声がバッティングを教えてくれた時のトーンと同じなのでついつい笑いそうになる。

「キャプテンとしてやってきたことをアピールすれば、十分に受かる可能性があると思うよ」

公式戦の直前にしかでてこなかったアドレナリンが湧いてくる。

「やります」

迷わなかった。というより、今までの人生でそれほど迷ったことがない。とにかくやってみる。やってみないと後で後悔する。

「監督、受験もお世話になります。まず何から始めたらいいですか」

そうだなぁ、と監督は少しうれしそうだ。終始不安そうな顔をしていた母さんの顔がほどけた気がした。


「今日の試験結果は一週間後、マイページで発表します。お疲れさまでした」

「お疲れ様でした。失礼します」

やり切った。電源を切っていたスマホを起動させる。黒い画面から、パッ、と浮かび上がるリンゴのマーク。面接をしたのは三十分程度なのに、それがひどく長い時間だったように思う。

 学校を出てすぐ、インスタグラムを開く。古典だるい、というテロップと共に流される教室の風景。こいつバカすぎw、と自動販売機のジュースを買いまくる様子。文和は、青春を詰め込んだ十五秒に負けじと学校を撮影し「とりま面接終わった~」とストーリーを作り上げる。まだ授業中のはずなのに、文和のストーリーには次々と既読がつく。


 第一志望の一般入試に向かう。受験票、筆箱、ボロボロになった単語帳、心配で何度も何度も確認をした。

 入室開始時間よりだいぶ早くに到着する。受付に制服を着た受験生らしき人が並んでいたが、なんだか格好悪いので、マックに行き時間を潰す。コーヒーを頼み、単語帳を開くが、そわそわして内容が頭に入ってこない。音楽を聴きながらコーヒーを飲み切ったが、結局十分くらいしか潰せなかった。

 少し並び、受付へ。先生でも大学生でもなさそうな人が案内をしてくれる。アルバイトだろうか。光明の席は後ろの方だった。

 九時十七分。あと十三分で最初の科目が始まる。うわ、隣の人鉄壁使ってる。見せつけてきてんのかな。前の人は、俺と同じだ。でも俺の方がやり込んでるに決まっている。なんか顔もさえない感じだな。

 周りの人ばかり気になる。光明は自分の小ささにうんざりしながら、腕時計を見やすい位置に置く。

「それでは、英語を始めます。解答用紙はー」

試験官が丁寧に説明をする。その説明の時間が長い。今まで詰め込んできた知識が抜けいってしまうような気がする。

 九時三十分、バラッ、と問題用紙が開かれる音が教室に響く。

十二時三十分。トイレに立った光明は、スマホを触っている人を見下しながら席に戻る。あんなやつに負けるはずがない、と思っていないとやってられなかった。残りは世界史。苦手な中世ヨーロッパをできるだけ多く見返す。


 スマホを起動させ、グーグルで大学のマイページへログインする。慣れた作業だ。早く合格発表を見たい、という気持ちと、そうでない気持ちが半々で存在する。恭平は一度スマホを置き、心の整理をつけてから合否画面を開く。「少々お待ちください」と謎の円がスクロールしている。

「受験番号 17569 不合格」

胸がキュウと締め付けられたあと、そうだよな、と後悔の気持ちが押し寄せてくる。三十万円。私立大学の受験にかかる費用は、高校生にとって途方もなく高い。それが自分のお金ではないことにも、余計ダメージを受ける要素の一つだ。

 この大学に落ちたら浪人しようと決めていた。センター試験の成績を提出すれば合格できる大学も存在したが、それは恭平のプライドが許さなかった。だいたいスタートが遅いのだから仕方がないのだ、と親を説得し、予備校への入学手続きを済ませた。

「浪人確定」

不合格のスクリーンショットを光明に送信する。

 夏の大会の後、光明から「オープンキャンパスに行こう」という誘いが来た。話したのは光明がグラウンドを抜け出してから以来で、校内ですれ違ったときも気まずくて聞けずにいた。その状況がなんだか気持ち悪かったので、「いいよ」とすぐに返信をした。

「まじか。俺も志望校全落ちしたわ。浪人ダメって言われたから、Fラン行かなきゃいけない(泣)」

泣きたいのはお前の親だろうな、と思ったが、自分も同じだったことを思い出す。

「きついねー。大学デビュー期待してる(笑)」一つもおかしくないけど、(笑)を付ける。

 大学でも変われないんだろうな。恭平はアイコンを見知らぬ国の風景に設定している光明のアカウントをチェックした。


 どれだけ準備しても打てないことがある。朝からの素振りをし、早めにグラウンドに到着する。相手投手をよく観察してタイミングを合わせる。練習通りのルーティン。いつも通りのスイング。でも、それらが全てうまくいっていもアウトになる。でも、野球は次の打席が回ってくる。

 受験は違う。失敗したら終わりだ。セカンドゴロでも満足しないといけない。それでも親は学費を払ってくれる。光明は罪悪感に押しつぶされそうだった。

 良い大学に進学するために野球部を抜けた。なのに、肝心の結果がこれでは一体何の意味があったのか、と言われてしまう。

 光明は言い訳を探し始めた。「20××年 センター試験 難化」「大学入試 安全志向」「××大学 志望者 増加」グーグル、ツイッター、2ちゃんねる。検索窓にキーワードを入れていくと、自分を擁護する言葉が山のように書き込まれていた。

「今年レベル高くね? 頭いいやつが志望下げてるから、レベルが鬼上がってる(笑)」

そうだ、レベルが高かったからなんだ。

「今年はセンターが難化したからちゃんと勉強したけどダメだったって人多そう」

俺はちゃんとやったけどダメだったんだ。他の奴とは違う。

「AOとかで入っている奴って、入学したら絶対追いつけないで退学するでしょ(笑)」

だいたい一般を選んでいる時点で他の奴とは違う。俺は楽して入った奴とは違うんだ。

 いったん検索を離れ、ツイッターのタイムラインを確認する。


「春から王慶大学社会学部です! 同じ学部の人、フォロー待ってます!」


 光明は氷ついたように動かなくなった。スマホの画面を見ているのに、意識だけがどこか別の所に行ってしまったみたいだ。文和が王慶? どうして? うちの高校にはそんないい推薦は無いはずだ。偏差値だって七十近くあるのに。光明は文和のツイートを細かく確認する。すると、青い文字でたくさんのタグ付けがされていた。

「#春から王慶! #王慶ボーイ #AO入試」

AO入試―。倍率が恐ろしく高いと言われる狭き門。バカにしていた存在に、負けた。

文和は、練習を適当にこなし、公式戦にスタメンで出場する。

自分は、家に帰ったらそのまま倒れてしまうくらいに練習し、公式戦では応援をする。

一体、何が違うんだ。どう考えても、俺のほうが正しい。光明は、白い指で鳥のマークのアイコンをタップする。

「バイトつかれたー」

「エッチな人妻と…」

 ほとんどの人がインスタに移ったからか、タイムラインには、広告とアカウントを乗っ取られた同級生のリツイートで溢れている。そんな無駄な文章を目に入れながら、光明はプロフィール欄からもう一つのアカウントを開く。慣れた手付きで文章を作り、一度読み返す。

「AO入試とかいう欠陥システム。こんな裏口入学まがいの奴らと、一般入試で入ってきた奴が同等に扱われる日本の大学どうなってんだよ」

光明は数分考えたあと、このツイートを投稿した。

 すると、ベルのマークに数字が溜まってくる。

「××さんがいいねしました」

「△△さんがリツイートしました」

見えない誰かが光明の意見に同調する。数分おきにやってくる青い通知が光明のデコボコした心をトンボをかけているときのようにならしていく。

「××さんがいいねしました」

「△△さんがリツイートしました」

やめられない。

「☆☆さんが返信しました」

え? 返信? 光明は今まで来たことが無い反応に戸惑いつつ、通知のタブを慎重に開く。

「FF外から失礼します。AO入試はアメリカで導入された効率的な入試制度です…ならば…ではないでしょうか?」

 光明は百四十字を目一杯に使った見知らぬ人の返信を飛ばし飛ばしで読む。ネットからの引用。誰でも書き換えられるサイトがソース。この長ったらしい文章は、この人の意見ではない。誰だよこいつ。意味があるかどうかわからない「通報」を押し、ブロックする。SNSは自分にとって面倒な相手をすぐにシャットアウトできるところが良い。

 プツ、プツ、プツ、と増えていく通知に光明の口角は上がり続けた。


 不本意な結果がもたらした通学路。不本意な結果がもたらした入学式。不本意な結果がもたらしたオリエンテーション。光明の大学生活には全て、不本意な、という形容詞がついて回った。

 入学式に金髪で来るバカ。気持ち悪い。

 ツイッターで事前に友達を作る。気持ち悪い。

 意味のないサークル活動を勧誘する在校生。気持ち悪い。

 一人にならないように、明らかに合ってない奴らとつるむ暗い奴。気持ち悪い。

 こんな大学は自分のいるべき場所じゃない。受験勉強をした自分は、他のやつより上だ。食堂にいても、授業を受けていても、購買でものを買っていても、光明の目には気持ち悪い光景しか広がっていなかった。

大学には、小説や映画に出て来るような明るくてさわやかな同級生はいない。自分から行動を起こさないと何も起きないのだ。だから、光明の大学生活は何も起きない。

授業前の五分、暇ができた光明はインスタグラムを開く。写真が無いと投稿できないタイムラインには、選び抜かれた綺麗な世界しか存在しないからつまらない。

光明は丸いアイコンが横一列に並んでいる場所をタップする。

居酒屋らしき店内の映像と共に「人文科で飲み~」というテロップがついた動画。

授業中にイヤホンで音楽を聴いている友達を隠し撮りした写真。

 自分たちの姿を見せびらかしたくてたまらない投稿のスクリーンショットを一つ一つ丁寧に撮っていく。そして、フォトアプリを開き「バカ」とまとめられたフォルダにその写真を保存する。

 「バカ」を無表情で見る。何の意味もないけれど、このフォルダを見ていると背中がゾクゾクする。そのあと、気になった写真を恭平に送信し、フォルダをさかのぼり、最も古い写真を開く。ここで光明のゾクゾクは頂点に達する。

「これから王慶で飲み~。酔っぱらってます(笑)」

先生が教室に入ってきたので光明はスマホの電源を落とした。


「みんな春休みだよね? 久しぶりに飯でも行きましょー」

野球部のグループラインに和人から連絡が来ていた。光明はすぐに既読をつけるが、返信はしない。たまったお笑い番組の録画を消費しながら、光明はスマホをときどきのぞき込む。

「いいね。 何日が良い? 決めてくれればそこに合わせるわ」

つい最近まで放送されていたドラマのスタンプと共に文和の返信が来る。光明はグループラインでも個性を発揮しようとする文和がおかしかったので、恭平にラインする。

「文和がドラマのスタンプ使ってるの気持ち悪すぎ(笑) てか、集まり行く?」

ここ最近の恭平とのやり取りは、文和の話題で持ちきりだ。昨日も恭平から文和のツイートのスクショが送られてきた。

「ね、 ハマってる感を出そうとし過ぎてて気持ち悪いw 集まり俺は行くつもりでいるよ」

なら俺も行くわ、と返しグループラインで行われいる日付の決定を待つ。

「じゃ二十日で。いけない人いる?」

「ごめん。二十一にできない?」

グループラインで自分の意見を発信できる人はすごいと思う。自分の都合で全体の予定が変わることが怖くないのだろうか。

「全然いいよ。二十一で決まりってことで」

和人がテンポ良く決めていく。高校のときはいつもグダグダしていたから、きっと大学のサークルで学んだのだろう。光明はカレンダーに予定を追加し、ひな壇でトークをする芸人へ意識を戻した。


 当たり障りのない私服を選ぶのに時間が掛かった。キャラクターがプリントされたパーカーはアピールしているみたいで嫌だし、かといってジャケットを着ていったらブランドに染まった、と思われそうで怖い。光明は散々迷った挙句、無地で灰色の長袖Tシャツを選択した。

「おーい。こうめーい」

事前に決めておいた集合場所に恭平は五分遅れてきた。変わらないな、と思いながら「ちょっと、遅いわよ!」とおどけて見せる。

「ごめんね。許して~」

語尾にハートが付きそうな恭平の声で笑ったあと、皆で決めた焼肉のチェーン店へ向かう。食べ放題で2980円。タレをたっぷりと付けた肉の味を想像しながら歩く。

 店の前に男の集団が固まっているのを見て、すぐに野球部の奴らだとわかる。全身をブランドで固めた奴は文和だろうか。誰よりも大きな声で、存在を示している。

「おー! 久しぶり! 光明痩せた?」

和人が部活のときと変わらない態度で話しかけてきた。光明はすかさずスイッチをオンにする。

「えー、変わんないよ。和人はデブったね?」

「失礼しちゃうわ!」と和人はおどけ、すぐに恭平にも話しかけている。

 話す人がいなくなった光明は周りを観察する。服が高校のときと変わっていないやつ。インスタにアップしていた服を恥ずかしげもなく着るやつ。自分より上か下か。くまなく観察し、ランク付けを行っていく。光明は自分より上だと判断した文和に話しかけようとする。

「みんな揃ったみたいだし、中入ろうか」

和人がまとめだしたので、光明は話しかけるタイミングを見失ってしまう。

 中に入ると、店員が「来た来た」という顔で誘導してきた。きっと予約を済ませているのだろう。光明は感心する。

 案内されたのは座敷で、二列に長い机が配置されていた。何となく固まっていた人たちで座り、メニューを見始める。幸い文和とは一人挟んだ隣だったので、何とか話せそうだ。光明は大学のこと、サークルのこと、入試のこと、と事前に用意しておいた質問を心の中で繰り返し、文和の方を向く。

「キャプテーン。久しぶり。大学どうなのよ」

できるだけかしこまらないように、光明は軽く話しかける。

「あっ、光明じゃん。いたのかよ! 小さすぎて見えなかったわ。学校は楽しいよ」

うるせぇ、殺すぞ! と強めに突っ込んで、質問を切りだす。

「文和ってAO入試? で入ったんでしょ? 俺一般だからさ、聞かせてよ、受験のこと」

AO入試、という何度も何度も検索した言葉をできるだけ初めて聞いた言葉のように発音しながら、光明は聞いた。

「そうそう。自分でもびっくりよ。夏休みで監督に呼ばれてさ、受けてみないかって言われて。最初はAO入試なんて全く知らなかったし、受ける気もなかったけど、模試の成績があまりにも悪くてさー、親もいたし、受けます、って言っちゃったんだよね」

王慶だぞ。普通の努力じゃ入れないだろ。光明はさも簡単そうに受験の結果を話す文和が本当に羨ましかった。

 すごいなぁ、と相槌を打ち、今度はサークルについても聞いてみる。

「サークルとかは何入ってんの?」

「今は、学生委員会とフットサル。サッカーやるの小学生以来だけど楽しくって」

サッカーやってたんだ、と声だけで反応し、光明はポケットにあるスマホを触る。「バカ」のフォルダのことを考えていないと、自分が保てなかった。

「光明はどこの大学行ったんだっけ?」

やめてくれ。悪気のない、純粋な疑問から来る文和の問いに顔がゆがみそうになる。

「桜間台大学ってとこ。俺、一般入試で第一志望も第二志望も落ちちゃってさ、泣く泣くセンターで引っかかった所入るしかなくて。ホントは行きたくないんだけど、親に浪人ダメって言われてさ。仕方なくって感じで」

桜間台大学、で十分なのに、次々に必要のない情報を足してしまう自分が情けない。

「いや、でもすごいよ。一般でしょ? 俺なんてバカだからさ、一般は早々にあきらめてたし」

文和がフォローしてくれる。背番号が発表されたときもこんな感じだったっけ。

「ちょっとジュース飲み過ぎたわ。トイレどこ?」

恭平に教えてもらい席を立つ。痛てて。ひざ痛いな、なんて思いながら立とうとすると、文和が、「俺も行く」と立ち上がる。光明はトイレの中で「バカ」を見て心を落ち着けようとしたが、今更やめるわけにもいかず、仕方なく一緒に向かう。

「恭平目にクマできてるよな」

小便器の前に立つ文和が前を向きながら話しかけてくる。

「うん」

 さっき質問しすぎたから一瞬で話題が尽きてしまう。世の中には、沈黙が続いても平気な人と、平気じゃない人の二タイプが存在する。光明にとって文和は後者だ。必死に会話を続けようと考えるが、何も浮かばない。

「あのさ」と言ったあと文和が一度上を見上げた。何かを考えている感じがする。

「お前の本番っていつだよ」

意味がわからない。光明はチャックを締め、洗面所へ向かう。

「なになに? どーゆーこと?」

「だからさ、今のお前はどういう状態なわけ?」

文和が隣の水道で手を洗い始める。

「えー? 社会に出る準備? みたいな」

そうだ。大学生は人生の夏休みだけど、その有り余る時間は社会に出るための準備期間だ。

「それだよ。俺が言いたいのはそれ。その準備ってやつ」

「え?」

何なんだ。準備は最も時間をかけるべき、とかそういう手垢のついた説教を垂れるつもりなのだろうか。

「野球部のときなら代打や代走の準備。野球部をやめて、受験勉強をするようになってからは、大学の準備。今は社会人の準備。光明はいつも準備ばっかり。肝心の本番がいつまでたってもやって来ない。なんでそうなるかって言うと、光明が準備だと思ってること全てが現実逃避だからなんだよね」

手はとっくに洗い終わっている。濡れた手を拭きたい。

「あとさ、お前がさっき話してた大学生活楽しくないとかいう話、本当に気持ち悪かったんだよ」

文和の「お前」が良く研いだ包丁のように鋭く光明の耳を刺す。

「友達が数えるほどしかいなくて、サークルにも入ってない。こんな人間排除されて当然なのに、全然平気ですよ、みたいな顔してさ。考えてることは、彼女欲しい、とか、騒ぎたい、とかありきたりなことのくせに、変に達観しちゃって。自分が高尚な人間とでも思ってるの?」

文和と目を合わせられない。トイレの扉の向こうから、恭平の声がする。

「人が入ってくるからそろそろ、」

「いいよ。まだ終わってない」

文和は光明を逃がしてくれない。キュイィ、と扉が開く。

「最近、小説や映画、テレビやラジオ関連のリツイートが多いよね。俺、わかっちゃったんだ。どうして急に好きになったのかが」

「何が、わか、わかるんだよ」

声が震える。空気の通り道に蓋をされてしまったみたいに、声が出しづらい。

「サークルって、実は努力しないと楽しめないんだよ。自分が受け身でいるだけじゃ絶対に続かない。事実、だる、とか言ってやめてく奴を何人も見てきたし。自分から楽しみたい、って思いを素直に表に出すから先輩たちがやりやすくなる。結果的にそれが良い雰囲気につながるのね。でも、お前みたいな、受け身で素直じゃないやつ、は気を使うわけ。つまらなくなるのは、気を使うやつがいるからなのに、当の本人は周りのせいにして悪口を言う」

文和の後ろにいる恭平がアイコンタクトを送ってくるが、どうすることもできない。文和はそのまま話し続ける。

「さっき言ったエンタメ達が好きなのは、受け身で、素直になる努力ができない自分を許してくれる存在だからなんだろ?」

顔が上がらない。首がコンクリートで固められてしまったように固い。それでも「違う」と言わなくては。

「なあ、いつまでトイレいんだよ。今お金集めてるから戻ろうよ」

とうとう恭平が口を開いた。

「これ、恭平にも言えることだから」

文和は光明の方を見ながらそう言った。

「今の自分は本当の自分じゃない。ただの成長過程だ。こんな風に思ってるだろ。でも、それ間違ってるよ。お前が大事に大事に育ててる理想の自分には追い付けない、一生かかっても。だって、今の自分を楽しめてないから。今を楽しめよ。今の自分を受け入れろよ。今の自分で生きろよ。未来の自分で生き続けてたら、あっという間に髪の毛がなくなってるよ」

急にハゲでボケた文和のジェスチャーに、恭平が一瞬笑う。胸がきつくなって、呼吸ができなくなりそうだ。だが、酸素は供給される。光明の現実は続いている。

「わかった?」

「え、まぁ」

自分でもびっくりするくらい声が小さい。

「まだわかってないの? じゃあもっと現実を突き付けてあげるよ。お前は、Fランで人生の、」

「わかった。もう。うん」

今度は声が出た。文和に言われたことを思い出したからか、やっと空気の通り道が開いた気がする。

「よし。じゃあお金、出しに行こう。まだデザート食ってないけど」

文和まだ全然食ってないじゃんか、と恭平が言い、トイレのドアが開く。光明は三千円を払い、スマホを手に取る。フォトを開き、「バカ」を選択する。長押しをすると、削除の項目が浮かび上がってくるのでそれをタップ。

「何見てたの?」

前にいると思っていた文和が、光明のスマホの画面をのぞき込んでいた。

「ねぇ、何見てたの?」

消せなかった。長年使い続けた靴を捨てる時のように、ためらいの気持ちが込み上げてくる。「バカ」のサムネイルは飲み会をする文和の写真に設定していたから、確実に見られていただろう。

「いや、消そうと思って」

「何を?」

「インスタとかから保存したやつ」

光明ちゃーん、と酔っぱらった和人が近づいてくる。

「それ貸せよ」

文和が光明のスマホをひょいと取り上げる。「や、待って」と取り返そうとするが、「好き~」と言ってくる和人が光明に抱き着いてきて、身動きが取れなくなる。力強いな、こいつ。

「ねぇ、待って、マジで返して」

あのフォルダを見られたら終わる。

「うわっ」

終わった。今日の「バカ」には未成年飲酒をする和人の写真と共に「親に養ってもらってるくせに、いっちょ前に酒を飲むバカ」という説明が添えられている。

「光明ってこんなシュミだったの? 幼女は無いわぁ。和人! 光明ロリコンだって」

ロリコンは無いわ、と和人が引いている。

 助かった。だけど、文和は見たに違いない。だって、幼女の写真なんて持っていないから。

そんじゃまた集まろうね、と誰かが言い、解散する。

「ごめん、光明。さっきは今を楽しめてないなんて言ったりして。楽しんでたんだね。最低の方法で」

「バカ」のフォルダを指さしながら、文和がスマホを返してくれた。


「本番」


眩しい。丁寧に舗装された道路に面した建物。正面がガラスでできているから、店内が丸見えだ。床は茶色のフローリングで、背もたれが腰までしかない椅子が一定の間隔で置かれている。店の前で立ち尽くす自分を、通り過ぎていく人々が笑っている気がして、光明は思わず帰りたくなる。しかし、もう予約をしてしまった。

財布、インターネットの口コミ、頼み方。全てを確認し、自分の前進が映し出されてしまうくらい綺麗に磨かれたガラスの扉を開く。

「いらっしゃいませ。ご予約はお済みですか?」

髪の毛を茶色に染めた店員が声をかけてくる。あっていた目線が一瞬上に向いた。光明は自分の髪の毛を見られた、と察する。光明はそんなカッコ悪い自分を、店の外から撮影したつもりになり、「大学デビューを計ろうとする陰キャ」とツイートする。

「はい、電話で予約した木山です」

「木山さんは初めてのご利用ですよね?」

「はい」

ではこちらにおかけください、と背もたれが腰までしかない椅子に案内される。今日のために買いに行った肩掛けカバンを荷物置き場に下ろす。椅子に座ると鏡が自分を写し、見ていられなくなる。

「どんな感じにしますか?」

さっき出迎えてくれた店員とは別の女性の店員が光明の髪を触りながら聞いてくる。光明の心臓がドクドクとペースを上げ、脇から一粒の汗が落ちる。お任せで、と言いそうになる口を必死で抑える。

「金髪にして、タイタニックのときのディカプリオみたいにしてください」

え? と言う店員との空気に死にたくなる。それでも光明はスマホの画像と共に繰り返す。

「これです。タイタニックのディカプリオみたいにしてください」

光明の本番が始まった。


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