64 姉 21
退院してしばらくしても、私の悪阻は完全におさまることはなく、体調がいいと言えるときがない。
身体の怠さに耐えきれず、無理をすれば胎児に影響が出るため、私は仕事を辞めざるを得なかった。
昼間は、仕事を休んで母が一緒にいてくれた。
こんなに長い時間、母と二人きりで過ごすことは、初めてだった。
母は、いかに父が素敵か、最初の出会いから順に、物語でもきかせるように語ってくれた。
母の話の中の父は、今の父の何倍もかっこよかった。母には父がそう見えているのだろう。
私は将来お腹の子に、何を語ってあげられるのだろう?
そもそも私に、将来はあるのだろうか?
夜になると、仕事から帰ってきた夫と入れ代わりに母が家に帰り、私は夫と一緒に軽い食事をとる。
寝る前に、夫に自分からキスをし、弟に向けていた気持ちをのせて、「愛してる」と感謝を告げる。夫は私を抱きしめて、頭を撫でてくれる。
夫は私を抱きたくないのだと思っていたけれど、私を人形として愛してくれているから抱かないのかもしれない。
人形を抱く、特殊な趣味を持ち合わせていないだけなのだ。その証拠に、夫は毎日私を後ろから抱きしめて、耳元で愛をささやいてくれる。
この分だと、夫に新しい女性は必要ないようだ、と判断した。
しばらくすると、夫が就寝前に苦しそうな顔をするようになった。
私が人形だから、という理由以外に妊娠中だからか、夫は私の身体に性的なことをしない。
詳しく知らないけれど、男性は、一度女性を抱くと、また女性を抱きたくなるのではないか?
夫が我慢しすぎて身体を壊すのではないかと心配すると、夫は私を抱き寄せて、「無理してないよ」と言った。
私は夫が遠慮しているのだと思い、服を脱ぎ始めると、夫が慌てて私を止めた。
「出産後に、してもいい?」
夫が言うことに私は頷いた。
以前の私はどうして夫を拒んでいたのかわからない。
気持ちの動きは覚えているのに、同じ反応はできない。私たちは夫婦なのだから、夫婦らしく夫を抱きしめた。
夜になると、夫と私は別々の部屋で寝る。
うつらうつらと昔の弟を思い出しながら、自分が弟にしてきた数々の罪を悔いる。
私が弟に執着しなければ、弟が私に執着して苦しむこともなかった。
弟は、私の間違った愛情を受け取って、私を真っすぐに愛してしまった。
弟が他人を愛さないのは、私のせいだ。
お互いに他人と結婚して別々に生活すれば、弟の私に対する執着も薄れていくと思っていたけれど、私たちの結婚後の生活は実家にいた頃よりも酷い。
ほぼ毎晩弟のベッドに入り、弟の体温と匂いに包まれて、私は幸せだと思ってしまっていた。
私の弟に対する間違った愛情がなくならない限り、弟は私を間違って愛したままだろう。
弟は私のせいで、悲惨な体験を選んで実行してしまった。
私の間違った感情をなかったことにしたいのに、私は弟から離れられない。
離れられないから、せめて弟に対する執着を薄めようと、弟の声を消した。
弟に触れられると心が喜ぶので、弟の感触も消した。
弟が見えると心が高鳴るので、弟の姿を消した。
嗅ぐと弟が欲しくなるので、弟の匂いを消した。
弟にしがみつくさまざまな感情が邪魔なので、私の感情もなくしてみた。
それでも、私の記憶の中の弟が、私を離してくれない。
弟についての記憶が、私に新しく感情を作っていく。
この感情もまた、弟に対する執着だった。
感情を消す。
弟を思い出す。
感情が生まれる。
弟に恋をしている。
汚い感情を消す。
切りがない。
私は弟が大切なので、私の記憶の中の弟を、消していくことにした。
何度も思い返すうちに定着した過去の記憶は、やすやすと消されてくれない。
最近の記憶から順に、なかったことにしていく。
弟がくれた言葉を消す。
弟が触れた感触を消す。
弟が見せた表情を消す。
弟に包まれた匂いを消す。
弟の味を消す。
新しい記憶を消しても、私の中の弟への想いがまだ消えていない。
仕方ないので、幸せだった思い出を新しいものから順に消していく。
結婚後に弟と添い寝した日々のこと。
結婚記念の写真を二人で並んで撮ったこと。
弟が私の婚姻の日に合わせて婚姻したこと。
結婚後も私のそばに居たくていろいろ画策したと弟が白状したこと。
一緒に出かけて遊んだこと。
繋いだ手からとろけていくような心地になり、二人なのに一人になったような気がしたこと。
自分の心を観察してみると、まだ弟への不要な愛情がある。
私はさらに、私の中の弟を消していかないといけない。
辛くも悲しくもないけれど、私の中身がなくなって、私はがらんどうになっていく気がする。
弟に対する過剰な想いを消したら私はきちんと弟の姉として正しく弟に接することができるのだから、気にしないで綺麗な姉になるべく努力を続ける。
私はお姉ちゃんだから、弟を幸せにしないといけないのだ。
私のベッドには、弟がいる。
声も聞こえず姿も見えず、感触もなく、匂いもない。
それでも確かに、弟がいる。
ほぼ寝たきりの状態だった頃に、スマホに弟から連絡きたのが、見えない弟との交流の始まりだった。
『姉さん、一緒に寝よう。』
また前のように、添い寝をしたいのだと思い、気軽に返事を返す。
「いいよ。おいで。」
部屋に弟がいることを知っているので口答すると、私の意識が切れた。
スマホの電子音で意識が戻る。
『胸元を見て。』
いつのまにか、胸をさらけ出している。赤い印がついた胸元を見た。これでは所有欲丸だしだ。
弟は、夫に抱かれた私を欲しいのだろうか?
初めての体験が、よほど辛かったのか?
「私を、抱きたい?」
『抱きたい。してもいい?』
今の私の身体はぼろぼろだ。今の私では、弟を受け止めきれない。
弟には、完璧な私をあげたい。そして、悲しい初めての体験を、幸せな体験で塗り替えてあげたい。
きちんと全部私をあげたいから、あげるのは今ではない。
「今は無理だけど、そのうちにあげる。」
『待ってるよ。』
意識が途絶えた。
スマホの着信音が鳴る。枕元から取り出して、文字を読む。
『昨夜、したよ。』
何を? まさか、もう?
『気持ちよかった。』
え? 身体に痕跡がないのに? 嘘よね?
『姉さん、僕のことを感知してくれないから、されてもわからないんだよ。』
なにそれ?! なんて言い草!!!
意識が途絶えた。
スマホの着信音が鳴る。
私は昨夜、弟がなぜ嘘をついたのかききだそうと思っていたので、スマホを手に取る前に、部屋にいるだろう弟に話しかける。
「私と、遊びたいの?」
また、着信音が鳴る。
『そうだよ。』
「出産後なら、私の身体で遊ばせてあげるわ。」
弟ではない人に抱かれた私の身体でよければ、いくらでも遊んでいい。
弟の心を護れなかった姉の、罪滅ぼしだ。
『そういう遊びはしないよ。姉さんの身体は、遊び道具ではないから。』
弟がしたいのは、言葉遊びか?
体調悪くて寝込んでいて、退屈だから、ちょうどいい。
「あなたが小学生のときに、私とたくさんキスしたわ。」
『姉さんのキス、大好きだよ。』
意識が途絶える。




