61 弟 19
姉の退院の日に義兄と病院に行くと、僕は姉の新しい異変に直ぐに気がついた。
姉は、僕の声に続いて、僕の姿が見えなくなっていた。
姉のすぐ目の前に立っていても、姉に僕の姿は見えていない。
声もかけてもらえない。
僕がショックで立ったままでいると、姉の進行を邪魔する位置にいた僕を綺麗に避けて、姉が普通に歩いて行く。
肩に手を乗せると、そのまま動かなくなる。
ーー僕は姉にとって、邪魔な存在なのか?
目の前が一段と暗くなる。
「弟は、元気にしてる?」
個室を出る前に、姉が義兄に尋ねる。
義兄が一瞬動きを止め、答えた。
「してるよ。」
「そう、よかった。」
姉が微笑む。
義兄は、新しい話題を出す。
「妹が、マンションに空き室があったら、先輩と暮らしたいと言ってるんだ。
どういう理由か知らないけれど。どうする?」
「私には、何も言えない。弟はなんて言っているの?」
義兄が僕を見る。
「好きにしたらいいよ。でも、子供の教育環境は整えた方がいいと思う。」
義兄は僕の言葉を、僕の目の前にいる姉に伝える。
「私も弟の意見に賛成よ。マンションの空き室は、お兄ちゃんにきいておくね。」
姉が笑顔で言う。
タクシーでマンションに帰り、姉の自宅に入院の荷物を持って入る。
「おかえり。」
「ただいま。」
義兄と姉が、挨拶を交わす。
僕は「おじゃまします」と言って家にあがる。
義兄が姉をソファーに座らせ、お茶を用意し、入院の荷物を片付けている。
僕は姉の横に座らせてもらい、姉の様子を伺う。
義兄が姉のところに戻ると姉が立ち上がって義兄に抱き着いた。
そのまま義兄にキスをし、愛らしい表情をみせる。
義兄が姉にキスを返し、姉が喜びの表情を浮かべた。
僕はソファーに座ったまま、映画のワンシーンを見る観客のように姉達の表情が見える角度で二人を見ている。
姉が義兄を見たまま、愛情が深くこもった声で愛を告げる。
義兄が姉を抱きしめた。
僕は姉を見続けた。
姉が僕を見ることができないならば、僕が姉を見ていなければならない。
しかし、二人がベッドに入るところまでついていく勇気はない。
今日はこの後、姉だけが自室で休むようだ。
義兄を残し、僕は姉について姉の部屋に入った。
僕はこの部屋に入ったのは初めてだったので、少し辺りを見回す。
姉はパジャマに着替えていた。
久しぶりに見た姉の裸は、痩せすぎて肉がついていなかった。
僕が姉に妊娠を強要したために、姉は心身のバランスを崩している。
姉がベッドに入り、枕元に置いたスマホを触り出した。
僕のスマホが鳴った。
姉は自分のスマホを確認し、少し首を傾げた。
気にしないことにしたらしく、スマホを枕元に置いて寝始めた。
姉は病室でも移動中でも自宅でも、人の目につくところでは表情があった。
ところが、自室に入った後は、姉に表情が一切見られない。
人間は、ここまで無表情でいられるものなのか。
僕は先ほど鳴ったスマホの内容を確認した。
『会いたい。』
姉が無表情で僕に宛てたメッセージ。
僕は姉に返信した。
『今、会ってるよ。』
僕は姉の前髪部分の頭を優しく撫でた。
姉の頭を撫でながら、僕は今日の出来事について考えた。
姉に感情が欠落していることを確認した。
リビングで姉が義兄に向かって示した愛情は、どういう類のものなのか。
普通の夫婦の愛情か。
僕は普通の夫婦を知らないので、判断できない。
あれほど深い感情を込めた言葉を、姉は義兄にあげていたのか。
僕は姉に脅迫されるようにして始めた深いキスや、以降の隠さないといけない姉との行為の数々を思い出していた。
今となっては、遠い、遠い記憶だ。
僕は姉の頬にキスして、姉のスマホに『帰るね。』と送信した。
姉の目に僕が映らない。
姉の耳に僕の声が届かない。
姉は僕とのことを、全部なかったことにしたいのか?
違う。姉は、僕のことを弟として大切に思ってくれている。
ではなぜ、僕を見てくれない?
なぜ、僕の声を聞いてくれない?
なぜ、僕を感じてくれない?
姉の感情が消えてしまった。
姉が通常の人間を装っているのが見ていて辛い。
僕に対する感情は、そこまで辛いものだったのか?
全部捨てないと生きていけないくらい、辛かったのか?
僕を残して、姉が逃避した。
姉を現実に連れ戻さないほうが、姉にとっては幸せなのか?
翌日、僕は父に姉の状態を報告した。
僕は姉が現実逃避するほど過酷な状況に追い込んだ。
父に怒られるのを待っていたのに、父は怒ってくれなかった。
「最大限努力した結果なんだ。受け止めるしかない。これからを考えるんだ。」
父はいつでも冷静で、的確なアドバイスをくれる。
僕はいつも父の子であることを誇りに思い、父のように冷静かつ理性的に行動しようとするのだけれど、姉のことになると、なぜかうまくいかない。
母は病院にも姉に付き添ってくれているので、報告していない。
お叱りも後から受けることとし、兄さんにも報告した。
「君と奥さんの妊娠のことで、特殊事情ってある? 例えば、愛し合っていないとか、通常と違うやり方をしたとか?」
「どうして?」
僕はいつも兄さんに見透かされているような気がしている。
「お姉ちゃんから、連絡をもらった。君の奥さんが同居したい先輩というのは、奥さんの同性の恋人だ。」
僕は知っていたので頷いた。
兄さんは急に真面目な顔になった。
「君は奥さんを全く愛していないね。そして奥さんも君を愛していない。
愛し合っていないどころか他に好きな人がいる者同士が、子供を作る。
君のお姉ちゃんに対する執着心の強さから考えて、一般の方法で子供を作ったと思えない。
お姉ちゃんがそのことを知ったとしたら、どう考える?」
兄さんが僕の目をじっと見る。
姉が知っていた?
それほど問題ない方法だ。
双方の心にダメージが少ない方法を選んだ。
何が問題なんだ?
僕が考えていると、兄さんがダメな生徒を教える先生のように、丁寧に教えてくれた。
「もしも、お姉ちゃんが君のような体験をしたとしたら、君はどう思う?」
僕は、姉が、僕の結婚相手が妊娠した経緯について知っている可能性を考えた。
僕の結婚相手が"子供をなす行為"について、僕に嬉しそうに話していたことを思い出した。
姉が彼女からあの話を聞かされたとしたら、どう捉える?
僕<姉>が、初めての体験で、姉<僕>のことを想い、そこの部分だけを必要とされ、最小限の接触と最短時間で、愛し合わない交尾をする。
僕は愕然とした。
これは、なんだ? まるでモノ扱いだ。
第三者の観点でみると、僕と結婚相手の考えていた"姉を想っての行為"の話と、余りに印象が変わっている。
「まあ、推測だけどね。もしもお姉ちゃんがそのことを知ったら、ということ前提の。」
もしも姉が僕の"体験"の話を否定的に考えたとしたら?
姉は、自分に責任があると考えるだろう。
姉はいつでも僕の姉であろうと努力していた。
自惚れではなく、姉は僕のことを愛してくれている。
僕を弟ではなく男として愛していることに、罪悪感を持っている。
これ以上、愛さないで済むように、相手の存在を感じないようにする。
でも、姉は姉でありたいから、弟の存在を消せない。
僕の存在を消せないから、せめて僕の声を聞こえないようにする。
声だけでは足りないから、僕の姿を見えないようにする。
姉の心が動くと僕が引きずられるから、感情を消して、何も感じないようにする。
他には? 姉は他に、異常を抱えているのではないか?
僕は両手で顔を覆った。涙がだらだらこぼれてくる。
姉の愛が深すぎて、僕には愛が大きすぎて、どうしたらいいのかわからない。




