10 弟 3
塾の宿題を早く終わらせたくて、ぼくはとても集中していた。
ぼくは集中すると、周囲の音が聴こえないときがある。
肩を触られて、ぼくは顔を上げた。眠そうな母さんが斜め後ろに立って、ぼくの肩に手を乗せていた。
「電話よ。」
母さんがあくびをしながら、大きめのタブレットをぼくに渡した。画面には兄さんが映っている。
母さんがドアをノックしたのもドアを開けたのも、ぼくは気付かなかった。もしかしたら、ぼくのスマホに電話してもぼくが出ないので、兄さんは母さんに電話したのかもしれない。
「ありがとう。」
ぼくは母さんに感謝してタブレットを受け取り、兄さんと会話を始めた。
「電話、気付かなくてごめんなさい。」
「宿題していたんだから、気にしなくていいよ。」
やっぱりぼくのスマホに電話してくれていた。
兄さんは仕事用なのかスーツを着ていて、普段よりもかっこよく見える。
「忙しいのに、時間を作ってくれて、ありがとう。」
「大切な弟の話だから、時間くらい作るよ。それで、今日は何に悩んでいるのかな?」
兄さんは笑顔できいてきた。
ぼくは一度、深く呼吸した。
「夢で、姉ちゃんとキスした。」
兄さんは笑顔のまま黙っている。
「姉と弟がキスするなんて、おかしいよね?」
ぼくは不安になっていた。
「夢でキスしてどうだった? 実際に、お姉ちゃんとしたくなった?」
兄さんの問い掛けに、ぼくは答えられなかった。
「体の発育について、質問してもいい?」
兄さんは別のことをきいてきた。
「うん。」
「もう、男性の体になった?」
「まだ。」
ぼくは素直に答えた。
「もうすぐだよ。そうしたら、答えが出る。」
兄さんは、確信を持っているようだ。
「一般的に、思春期に、身近な異性に対して好意を抱くことがあるというのはきいたことがある?」
兄さんは画面越しにぼくの目を見ている。
「知らない。」
「もしかしたら、思春期に入るからそういう夢を見たのかもしれないし、そうではないかもしれない。」
そうではないのかもしれない、という言葉が、ぼくの心を支配する。それこそ、ぼくが思っていたことなのだから。
「ぼくはどうしたらいい?」
ぼくの不安は現実のものになるかもしれない。
「心配しないで今まで通り過ごすといいよ。お父さんもお母さんも、お姉ちゃんも、当然私も、みんな君の味方だ。どんな君でも、全員君の味方だよ。この家族はそういう家族なんだ。」
兄さんは自信に満ちた様子で言うけれど、ぼくの不安は消えない。
ぼくの不安を感じとったのか、兄さんが提案した。
「お父さんかお母さんに、夢でお姉ちゃんとキスした、と言ってみてごらん。私と似たような反応をすると思うよ。」
ぼくは親には話せれなくて、兄さんに相談した。兄さんは親に話しても、大丈夫だと言う。
「わかった。兄さんを信じるよ。」
兄さんを信じて、ぼくは安心するしかない。
「本当に、この家族は特別なんだ。不安になることは、何一つない。今度私が日本に滞在するときに、理由を教えてあげる。」
兄さんは意志のこもった目で、ぼくを見ている。
ぼくは兄さんの力強い言葉と目で、心が落ち着いた。
お礼を言って通話を切り、宿題の続きをして直ぐに寝た。
夏になり、兄さんが家に滞在した。
ぼくは兄さんから、家族の特別な事情について少しきいた。兄さんの性別や、留学のときに母さんと知り合って母さんと親友になったこと、日本に来て家族として生活したこと、ぼくたちを自分の子供のように思っていること。
「もっと細かい事情もあるけれど、また次の機会に話すよ。」
ぼくがきいたことは、大人の事情の一部なんだろう。兄さんは、ぼくが大人になったら、きっと全て教えてくれる。
「君の両親は心が広くて深い。君が生まれる前から二人を知っている私が保証する。君は安心して、両親に何でも言うといいよ。」
兄さんはぼくの両親のことをうれしそうに話す。
それでもぼくは親に言うのは気恥ずかしいから、これからも兄さんに相談すると思う。
毎年のように、姉ちゃんはリビングで兄さんにじゃれついていた。仲のいい様子なのに、この年のぼくは少し不満に思った。
ぼくはお茶をもらおうとキッチンに入り、母さんが兄さんを見つめているのに気づいた。普段と様子が違う。
「母さん?」
母さんは、ぼくに顔を向けて微笑んだ。
「なあに?」
幸せそうな、優しい声と表情。
ぼくはどうして母さんに声をかけたのかわからない。
「母さんもお茶飲む?」
ぼくは何でもない、と言おうとしてやめて、母さんがぼくの違和感に気づかないよう会話した。
母さんは普段の母さんだった。
来年の夏になったら、ぼくは兄さんにもう少し話をきこうと思った。
無事に受験校に合格し、ぼくは晴れて男子校に入学した。
ぼくは女子の攻撃から解放され、のびのびと学校生活をおくれる。
運動系の部活に入り、学校行事を楽しみ、友達と遊んで、毎日が楽しい。
そして夏がきた。
兄さんが日本に滞在し、ぼくたち家族は兄さんと国内旅行に出かけた。
ぼくたちは特別な目的がないので、定番の観光スポットを回った。定番のルートは、人気があるから定番になる。人気があるのは、それだけの理由がある。
要するに、他人の経験に基づき、ぼくたちはハズレのない観光を楽しんだ。
ぼくたちは、一見、普通の家族だった。
ぼくはずっとそう思っていた。
ぼくたちは景色のいい遊歩道を歩いていた。
父さんと姉ちゃんが、二人で大学生活について話している。母さんと兄さんが父さんたちより後ろを少し離れて歩き、楽しそうに笑顔でいる。
ぼくは姉ちゃんを挟んで、父さんと反対側の位置にいる。父さんと姉ちゃんが話す間、ぼくは時々後ろを見る。
母さんがはしゃいで、足元の小石で転びそうになる。兄さんが危なげなく母さんの腰を腕で寄せて、母さんが転ぶのを回避する。母さんが兄さんに抱えられる。立ち止まった二人が、見つめ合っている。
ぼくはいたたまれなくて、先に歩こうと顔を前に向く途中で、父さんの顔が視界に入った。
父さんも、後ろを見ていた。父さんの顔には、怒りの表情も、不信な表情も、そのほか母さんたちを責めるような表情は一切みられなかった。
父さんは気づいていない?
もしくは、ぼくの思い違い?




