逆転の姫君 1
私は高らかに声を上げた。
「今週で辞めさせていただきます。今までありがとうございました。」
周りの人々が目を丸くする。主婦やいかにもな男性上司、揃いも揃って動きが止まる。非常に滑稽だ。
「え、え? ナナちゃん、仕事辞めるの?」
「急で申し訳ないです。軍隊の方からお声を頂いて、そこで働くことになったんです。」
そして驚愕の声が漏れ始める。その反応はおかしいことではない。魔法や魔術に一切関係ないと思っていた職場の人間がいきなり軍人になると言うのだ。
「ナナちゃん適性あったの!?」
「あったみたいです、今まで分からなくて……あはは」
「そりゃすごい! いやーナナちゃんが軍人様か……なんだか不思議だな!」
分かってるって。どうせ心の端でなんでお前なんかがって思っているのでしょう。気持ち悪く『様』なんてつけて。見え透いた言葉で私を呆れさせないで。
「でも寂しくなるわね……私たちの職場の華がいなくなるのね……」
「そんな! それじゃ私が遠くに行くみたいじゃないですか!」
高給取りが。どんな姑息な手を使ったのかしら。
「大変かもしれないけど、私たちはいつでも応援してるからね!」
「何かあったら気軽においでね!」
仕事しかできないくせに。こっちは同情で入れてあげたのに。
「……皆さん」
あぁまた聞こえない声が聞こえる。私にかけられた呪いが自分の首を絞めていく。被害妄想、自意識過剰、薄情者。本当は心からの優しさかもしれないのに、私が正直に受け取れないせいで。ごめんなさい、ごめんなさい。私の呪いのせいで、皆が汚れて見えてしまう。でも、でも、どうせ。
私なんて働き者の駒としか見てないのでしょう。
「ありがとうございます! 皆さんのこと、大好きです!」
「――本当は辛いの。無条件に人を疑ってしまうこの性格がひたすらに嫌い。大っ嫌い。こんな私なんてって思ってしまう」
頂き物のクッキーを齧りながら、目の前のユウに話しかける。私の心を見つけた、たった一人の友人。何を隠してもいずれバレてしまう彼になら、薄汚れたこの性格を露呈しても構わない。信用ではない、ただお互いに支え合っているだけだ。
「しょうがないと思う。ナナがおかしいんじゃない。そうしないと自分を守れないから。」
しょうがない。明るい彼が予想外の言葉を使った。
「僕もよく言われるんだ。高給取りって。才能に恵まれただけでいい気になるなって。パトロールの時に舌打ちされたりとか、ね。」
クッキーの割れる音が響く。
「僕はポジティブじゃない。だから傷つくことが怖いし、自分を守ろうとする。その為には相手から自分の距離をできる限り離すしかないんだ。痛みを感じない為に。」
彼の瞳が悲しく揺れる。それを隠すように紅茶をすすった。
「僕には立ち向かう強さも勇気もない。でもそれは、皆一緒なんだよ。」
立ち向かう、強さと勇気。
私にはない、いや、届かないものたち。怖くて手を伸ばすのを躊躇う程、遠い遠い空の上にある。
「……やっぱりまだ僕のこと、信じられない?」
声が小さくてもその一言に私は顔を上げる。彼はただ悲しそうに微笑んでいた。嘘をつこうと心が騒ぐ。その顔を見たくないと本能が叫ぶ。でも駄目だ。彼に嘘は通用しない。
「……ごめんなさい」
「謝らないで。少しずつでいいから」
「分かるの! ユウが本当に私のことを心配してくれてることも、信じてくれていることも! でもね、私が、私の心が、許してくれないの……」
涙が零れた。空になったカップに雫が落ちる。顔を抑えてまた自ら闇の中に閉じこもる。申し訳ない気持ちで胸がはち切れそうだ。
わざわざ私の隣に立って、彼は優しく背中をさする。その手の温かさが余計に苦しくさせて。いつからだろう。自分がこんなに複雑で面倒くさくなってしまったのは。
*
豪華なシャンデリアと大きく育った観葉植物、奥にいる綺麗な受付嬢。ここは本当に学園なのだろうか? 実はお偉いさんの豪邸なのではないかと困惑してしまうほどに贅を尽くした空間が広がっている。薄汚い学校のイメージが払拭された瞬間形容され難い感覚を足元を伝った。
「やっ……」
少しの段差に躓いた? ぐにゃりと何かを踏んづけた? いや違う、そんな物は私の視界に映らない。ひたすら気持ち悪さが加速する。体も驚いて次の一歩に怯えてしまう。でもユウは何事もなく先へ行く。こんな豪勢な場所に一人にされたら場違いな空気に潰されてしまう。
「まって……!」
体が言うことを聞かない。縺れる足。前傾する上半身。だめ、倒れちゃう!
「よっ、と」
ひとつの腕に全体重が乗る。引き締まった力強い男性の腕。
「ごめんね、歩きにくいよね」
さっきまで離れていたのに今はすぐ近くにいる。穏やかな茶色の瞳に心が疼いた。緊張を悟られないように目を逸らす。
「私、こそ、鈍臭くてごめんなさい」
「違うんだ、ナナが悪いんじゃない。この床に魔力を張り巡らして浮遊感を生み出しているんだ」
「浮遊感?」
「マイが提案したみたいでね、なんでも空を歩く時の練習になるらしいんだ。ナナならすぐに慣れるよ」
恐る恐る足を踏み出してみる。硬い地の感触ではなくて柔らかい空気の感触、これが浮遊感。魔術と科学の結晶が生んだ新たな感覚。すごい。
「でもやっぱり気持ち悪いな……」
「最初はそんなもんだよ、ほら腕に掴まって」
そんな一言にどきりとしてしまう。何秒か逡巡して腕に触れた。意識してはいけない、横の人はなんとも思ってないのだから。
「……支えてくれてありがとう」
「どういたしまして」
私の歩幅と彼の歩幅が合っていて、また心が擽られる。緊張していた自分の口元が緩み、優しい彼の腕に触れる手に少しだけ力を込めた。
「――こんにちは。昨日ぶりね、ナナさん」
「こんにちは、えっと……」
「私はマイよ、こっちはタク。これからよろしくね!」
「よ、よろしくお願いします!」
会議室のような場所に通されて、目の前の女性と向かい合う。やはりよく見ると本当に美しい人だ……私と同い年に思えない。こんな美女と同じ仕事をするなんて少し腰が引けてしまう。今まではおじさんおばさんだらけだったから。
「ナナさん、務めてた仕事先は今どんな感じなのかしら?」
「今週の土曜日まで働くことなりました」
「今日は火曜日だったわね、今週中に何回こっちに来れそう?」
「えっと……今日と明日と明後日、だから三回です」
本当は今すぐにでも辞めてしまいたかったけれど、流石にそんな我儘を言うわけにはいけなかった。あちらも手続きやら書類確保やらで忙しいだろうから。あんなに内心嫌っていた職場でも最後まで良い子で振る舞うなんて……と自分自身を鼻で笑った。
マイさんは少し考えた後、私に向かって微笑んだ。
「それじゃ、今日は学園探索をしましょう! 書類は次来た時でいいから!」
彼女の優しい言葉を聞いたタクさんがむっとした顔をする。
「いつも俺に早く書類提出しろってうるさいのに」
「あのねーナナさんは体験入隊で緊張してるでしょ? いつも飄々としているタクくんとは違うんです、分かった?」
「……ふん、書類作成手伝わないからな」
これが冗談を言い合える仲……。胸の当たりが少しだけちくっと痛んだ。これを『羨ましい』って言うのかな。
「ナナさん、緊張しなくていいからね? リラックスリラックスはい深呼吸ー!」
「え、えっと、すぅー…………ふぅー…………」
促されるまま深呼吸をする。彼女も、そしてなぜかユウも一緒に。ちょっとだけ嬉しくなって、さっきの痛みも和らいでいった。
「――よし! それじゃ、三班皆で校舎探検だ!」
「れっつごーよ!」
「おー……?」
一応ノリというものに乗っかってみたら、マイさんに満面の笑みで頭を撫でられた。ユウも楽しそうに笑っていた。タクさんも表情は硬いけれど、なんだか満更でもなさそうだ。私も自然と笑みがこぼれる。
誰かと共にいる。そんな人にとって当たり前のことが私にはとても温かくて、少し苦しかった。
言葉の通り、『愉快な仲間たち』と共に私の小さな冒険が始まろうとしている。