闇夜に浮かぶ歌
夜が傾く。月を縛る星。儚い常夜灯。コーヒーの香りが風を拐う。ベランダの冷えた鉄柵を優しく撫で、なんとなく夜空を見上げる怠惰な時間を過ごす。こんな時に思い出す記憶は苦くて、不味い。それでもいずれ食べきらなければいけないのだ。思い出から逃げ続ければ美味しいものも遠ざかっていく。なんて世知辛い世の中なのだろうか。
もう少しで約束の時間だ。カップの中の黒い液体を飲みきり、部屋の中に戻る。グレーのパーカーと黒のスキニーパンツに着替え、髪に櫛を当てた。一応注目を浴びる場所に立つのだ。ラフな服装といえども身なりは整えておかねば。鏡から離れ、テーブルの上の紙束と部屋の鍵を持つ。火元と戸締りの確認、消灯。履きなれた靴に足を突っ込み、ドアノブに手をかけた。
徒歩二十分、川沿いの遊歩道を歩く。先も後ろにも人の姿はない。ただ川の流れる音が聞こえる。その中で紙の束に目を通し、気になる場所を手で触れていく。音符の筋道、テンポの鼓動が頭の中で再生される。これを何回も繰り返す。脳裏にしっかりと焼き付けていく。顔を上げれば、いつの間にか目的地に到着していた。
「こんばんは」
茶レンガの古めかしい家の重いドアを開け、カウンター奥に佇む人へ声をかけた。ワイシャツに黒のベストと蝶ネクタイ。高身長に細い目と少し生やした髭が紳士感を漂わせる。
「こんばんは、君の歌声が楽しみとお客様がおっしゃっていたよ」
「そうですか」
「えぇ。これ、いつものどうぞ」
彼は俺の目の前のカウンターにカクテルグラスを差し出した。少し黄色みがかった液体が店内の照明で輝く。手に取り、一気に飲み干す。爽やかなペパーミントとレモンの香りが口内に広がった。
「そのソフトドリンク好きだね」
彼は嬉しそうに微笑む。
「これを飲むと喉がすっきりするんです。コンディションは万全でいたいから」
「そうか」
口をつけたグラスが彼の手に戻っていった。
街から少し離れた場所にある、知る人ぞ知る隠れた名店。彼はこの店のマスターだ。豊富な酒の種類と落ち着く店内、そしてミュージックスペース。そしていつもと変わらず、照明に照らされたドラムセットやアンプや音楽機器が並べられていた。
「今日の帰り」
マスターが食器を洗いながら落ち着いた声で話す。
「手を合わせていくかい?」
彼が少し微笑んだ。
「……いえ、やめときます」
「……そうか」
目の前の人は何も言わないが、顔は苦しみと悲しみで混ざりあっている。ただ目を逸らした。
どちらも、間違っていない。でも、どうしようもない。
「楽屋行きます」
居心地が悪くなって逃げるようにこの場を去る。なぜ彼はこんな俺をここに呼んでくれたのだろうか。未だこの回答は白紙のままだ。
「行ってらっしゃい」
貼り付けた笑顔も、その答えも、全てカウンターの裏側にしまい込ませたのは他でもない、俺なんだ。
スタッフオンリーと洒落た英語の札を無視してドアを開ける。さっきまでの空間から一変して、ここは真っ白な世界が広がっている。例えるなら病院の廊下のような殺風景な景色。その中で手前から二番目のドアノブに触れる。途端、いきなり白壁が迫ってきた。なす術なく体が打ち付けられる。
「いった……」
「うぉっ!? 坊ちゃんいたのか!」
「お、みんな坊ちゃん来たぞ!」
犯人は部屋から現れるベースのセズ兄。隣にいるキーボードのリト兄が他のメンバーに声をかけている。わらわらと広がる声の幅に押され、仕切りの間を跨いだ。
「痛かったろ、すまんな」
「いえ、ノックしなかった俺が悪いので。外に用事があるんじゃないんですか?」
「おう、そうだった。ちょっとトイレっと」
セズ兄は一枚の紙を俺に渡し、今度こそ部屋を出ていった。貰った物に目をやると、今回の演奏する曲がでかでかと書かれている。新曲、と赤い文字も添えて。
「いきなりとんだ災難だったな」
「よ、坊ちゃん、新曲の練習してきたか?」
リト兄が背中を叩き、スティックを持ちながらドラムのヨーグ兄が近づいてきた。彼らは俺よりも小さいながらも、シルクハットと厳つい体で存在感を放っている。
「してきましたけど、坊ちゃん呼びなんとかならないんですか」
「ならねぇな」
「ならないね」
分かりきっていたことだ。
「今回の曲も随分大人な感じでいいよなぁ。よくこんなの作れるよなアイツ」
「これ思いつくのに丸一週間かかったって言ってた。坊ちゃんもこの曲相当難しいんじゃない?」
確かに今までの曲の中で一番歌いにくかった。でも一番感情を入れやすい曲でもある。なんだかんだ気に入っていた。
「まぁ難しかったですけど、一番好きです、この曲」
「ほー意外だぜ」
「演奏するの楽しみだね」
お手洗いから帰ってきたセズ兄も加わり、楽屋の中は一層喧騒に包まれる。俺はスコアを開いて好きなフレーズを口遊む。ここのもの悲しさと愛おしさが目を通す度に胸を締め付けてくる。なぜかは分からない、それでもこの歌詞が好きだ。
「皆ー、そろそろリハーサル室、お、坊ちゃん待ってたぜ」
新しくドアを開けたのは、ギターのティア兄。彼がこのメンバーのリーダーで作詞作曲も担当している。十、二十代のメンバーの中で、彼一人だけ三十歳だ。まだ記憶に新しい誕生日に思いっきり弄られていたのを思い出す。
「よっしゃーやるぞー!」
「えぇと今回使うやつは」
「スティックもうひとつどこやったっけ」
思い思いの言葉と共に楽屋から出ていく。俺はこの部屋の鍵を握りしめ、最後にこの部屋を去る。
またここに来るのは、本番が終わった後だ。
リハーサルを終えてから何分が経っただろうか。体感時間は優に三十分を超える。しかし時計はゆっくりと進んでいく。本番開始時刻まであと五分だ。いつまで経ってもなれないこの空気に向かって溜め息をこぼした。楽譜を見る気分にもならず、ステージをただ見つめている。今日も今日とて物好きな客がぼちぼちと集まり始めていた。
「そろそろだな」
「……ティア兄」
楽屋から戻ってきた彼は俺の横の椅子に腰掛けた。ギターピックを握りしめて、俺と同じように舞台を見つめている。
「新曲、どうだった? 結構自信作なんだけど」
へへっと笑いながらこちらを向いた。謙虚な彼がそう言うなんて彼の中では余程の大作なのだろう。しかし自分は素直になれずに靴を見下ろした。
「歌いずらいです」
「ははっ、そうだろう。確かに無茶なメロディかもしれないって作っていて思ったよ」
でもまぁ、彼はそう言って立ち上がった。少しだけ忙しなさを感じる。一回深呼吸して、振り返る。屈託の無い笑みだ。
「坊ちゃん、あんたなら自分の物にできるんだろ?」
自信と期待と少しの煽り、そして彼は何よりもこの緊張を楽しんでいる。
「それにな、あの曲、坊ちゃんのことイメージして作ったんだよ。だから自分の物にしてもらわないと困るんだよな。」
練習の日々を思い出す。なかなか掴めない音程とリズムに苦戦しながらも、歌詞だけは自分に寄り添ってくれていた。ずっと離してくれなかった、気持ち悪い程に。彼は俺の肩を叩き、頭を撫でた。
「楽しみにしてるよ、坊ちゃん。」
彼は手をひらひらさせ、舞台へ歩いていく。
この曲の通りなら、俺は相当複雑で難解な性格らしい。相手を苦戦させる質の悪いひねくれ者なのかもしれない。でも、それでも歌い上げなければいけないのだ。これは正真正銘、俺の歌なのだから。
俺はフードを被り、彼の後についていった。
「――こんばんは、今日もお集まりいただきありがとうございます。」
リーダーの一言で一気にこちらへ視線が動く。今日は新曲の噂を聞いてか、人がいつもより多い気がする。常連以外も来ているようだ。そんな見知らぬ圧にも慣れたもので、ティア兄は楽しそうに笑っている。
「今回も二曲演奏させていただきます。そして、一曲目は……なんと……新曲でございます!」
無駄に長く溜めて発表の直後、ざわめきが起こる。お約束のような展開だと冷めた気持ちで目を伏せた。
「……早速ですが聞いてください。新曲、トライアングル」
一瞬の静寂。いきなり空気を割くようにドラムが飛び出す。駆けるリズムに乗るキーボードの軽快な前奏のメロディ。ゆったりと入ってくるベース。途端感情を吐き出すギター。そして。
夢なんて捨てたと吐き捨てた日
隣り合わせの生と死の狭間
君は今更何を望む
観客の集中が俺を貫く。毎度そうだ。何に驚いているのか知らないが、俺が歌い始めるといつもこうなる。まるで散乱していた氷の粒が急に自分の心臓めがけて全方向から飛んでくるような感覚。今回は人が多いから尚更だ。少しだけ手が震える。
――歌い上げなければ。あっという間に過ぎていく音に飲まれて、最後はそう思うことしかできなくなっている。歌い上げてこそ、この歌の真価が見える。無心でありつつも、命の灯火が消えぬよう歌い続ける。
そろそろ俺の好きな歌詞だ。このギターソロが終われば、そのときが来る。ドラムの喧騒が俺を煽る。息を整え、スタンドマイクを握りしめる。最後の一音が鳴り響く。唇に触れるギリギリのマイク。静かな熱気に当てられる。ゆっくりと、暗闇へ誘い込まれていく。
どうしようもない俺に
君が望む物はなんだ
金か、友か、それとも、愛か
でも俺の手の中には
変わらない君しかいないんだよ
――街外れのミュージックバーで今宵も拍手がしたたかに反響する。しかし届かないのだろう、遠い遠い君には。それでも、望んでいいのなら。無造作に浮かんだこの声を汲んでくれ。タクの歌だけでいい、拾い上げてくれよ。
なぁ、チヅ。