不良品の僕たちは 3
雲ひとつない夕焼けの空を見上げる。土手道は何も空を邪魔しないから好きだ。なぜかいつもよりも明るく見える。隣に春川さんがいるからだろうか。
「春川さん、その」
少しの気まずさを打ち消すように俺は声を絞り出す。
「部活、今日はいいの?」
「いいの」
「……そっか」
会話が終わる。もしかしたら怒っているのかもしれない。また沈黙で落ち着かなくなり始めた時、春川さんが俺の顔を覗き込み、驚いた顔をした。
「もしかして、先生との話聞いて申し訳ないって思ってる? 今なんて謝ろうとか考えてる?」
「えっ」
勝手に秘密を知ってしまったのだ、そりゃやっちまったと思うだろう。え、俺、へんなのか? 俺がへんなのか?
「ぷっ……あはは! 桜宮君って分かりやすいね、ふふ!」
「な!? だ、だって、誰でも秘密がバレたら嫌な思いするだろ!?」
「あはは、いや、そうじゃなくてね」
彼女は爽やかに笑う。
「真っ直ぐな人なんだなぁって。すてきだなって思ったの」
その顔が胸にきて、息を飲んだ。
「……怒ってないのか?」
「怒ってないよ。怒るわけないよ。」
「そっか、よかった」
足を止め、夕焼けの空を見つめる。肩まで伸びた髪が風に揺れる。
「私ね、七人家族なの。母と私と妹、新しく結婚した父、父方の祖母、祖父、叔父。母方の家族は皆死んじゃって、住む場所もなくて。逃げるように秋田からここに来て、結婚して、七人で住み始めたんだ」
彼女から笑みはとっくに消えていた。
「何よりも父方の家族が最悪でね。父は父親としての覚悟や責任感がなくて、祖母は自己中、祖父は否定的で気に入らないとすぐ怒鳴って、叔父は何も連絡せずにほっつき歩いてる」
小学生の自転車の群れが通り過ぎる。
「一緒に暮らし始めて約七年、やっと色々なストレスやら不満に諦めがつくようになった。でも、突然苦しくなって、悲しくなって、ひたすら泣きたくなる時がある。酷い時には無気力になって動けなくて一日無駄にすることもあったの、ずっと泣き続けたりしてね」
涙声が二人の空気を包む。
「他にも問題山積みで、必死に働いてくれる母には心配かけたくなくて、嫌われたくなくて……。おかしいよね、こんな家族! 言いたいことも言えなくて、気ばっか遣ってさ」
「そうだよ」
すぐに声が溢れ出た。
「おかしいよね、おかしいと思うよね」
彼女が僕に振り返る。瞳が合う。さっきとは違う驚きの色に染まっていた。そして潤みが強くなる。
「ははっ……初めてだよ、肯定されたの。どんなに仲のいい友だちや知り合いでも、つまらない張り合いや同情しかしてこないのに。なに、そうだよって……はは……」
するりと彼女の笑みが落ちる。
「気持ち、知ってるね?」
あまりにも凛とした声で言うものだから、僕は瞳を泳がせた。夕日を見ながら言葉を選ぶ。烏の群れが遠ざかっていく。
「……僕は母さんが自己中だ。しかも完璧主義で自分のやりたくないことは絶対しない独裁の女王みたいな人間だ。長男と三男は才能に恵まれて母さんに愛されてる。有名な話だよね」
彼女の視線を右から感じる。
「表向きは素晴らしい家族だ。でもその裏は出来損ないの僕がいる。家に帰ったら掃除や洗濯、夕飯作り、失敗したらこっぴどく怒られて、下手したら殴られて。そして最初からやり直し。気を遣わない日なんて一度もなかったよ」
僕は笑った。
「おかしいよね、こんな家族! 言いたいことも言えなくて、気ばっか遣ってさ!」
「……そうだね、おかしいよね、こんな家族!」
僕は大声で言った。彼女も笑った。彼女も声を張り上げた。清々しい彼女の頬に一筋の涙が落ちていった。
――コンビニの近くの公園のブランコに揺られる。手には温かいコーヒー缶を持ち、夕暮れの空を見上げる。東側はもう藍色になり始めている。それでも僕たちの時間はゆったりと進んでいた。ブランコに乗ったのなんていつぶりだろうか。
「最近思う一番の夢は、長生きせずに早く死にたいなんだよね」
何か言わなければと急くこともなく、ただ出任せの言葉に頼る。どんなに暗い話題でも今は真っ黒のコーヒーに沈められる。
「わかる。長生きすればもっと迷惑かけるし、だからといって今自殺したらお母さんが可哀想。どうしようもないよね」
「それな」
一口飲んだ。
「僕さ、あんな家庭に育ったからか昔っから気弱な礼儀正しい良い子でいようとしてたんだよ。そのせいでいじめられてさ、今はお面被ってるんだよ。俺って言ってみたり口悪くしてみたりさ。おかげさまで僕自身どうすればいいか分からなくなった」
「悲しくないのに涙が溢れだしたり、分かってるつもりでも腹立たしくなったりするよね。混乱するからまじでやめてほしい」
「ほんとそれな」
彼女もホットココアを一口飲んだ。何の解決にも向かない話し合いがあまりにも心地よすぎる。共感がほしいだけなんて、僕は女々しい。でも、今はそれでよかった。
「なんか、たまーになんだけど皆よりも私の感情がひとつだけ抜け落ちているような感覚になる時があるんだよね。何かは分からないんだけどさ」
「浮いてる時とか、孤立している時にとか?」
「いや、あー……どうなんだろ、でもなんとなくだよ、なんとなく」
「うーん、わかる気がしなくもない」
確かに自分から抜け落ちる感覚は経験したことがある。でもそれが感情なのか何なのかは分からない。そこは主観的なものなんだろう。ぐいっと飲み干し、苦味を味わう。
「私は人間として不良品だなって思うんだ。感情が足りない不良品。なんとか普通に見せようとしている不良品。それでも生きていいんだなって、神様は生きろって言ってんだなって」
彼女は前を向いた。
「そう思うと少しだけ頑張れる」
また僕を見て照れくさそうに微笑んだ。飲みきったココアの缶を地面に置いてブランコを漕ぎ始める。見る見るうちに僕と彼女は離れていく。
「じゃあ僕も不良品だ!」
土を大きく蹴った。風を切る快感を思いだした。気持ちは高ぶる。
「仲間か!」
「仲間だ!」
「そうか!」
「そうだ!」
生産性のない幼稚な会話。でも大声で笑い合うのが何よりも楽しかった。生きててよかった、久しぶりにそう思えた。
「よっ、とととっ、と」
春川さんはブランコから飛び降りる。少しふらつきながらも着地した。スカートが丸みを帯び、元の形に戻る。僕もゆっくりと地に足をつけた。
「あのさ、文芸部に入らない?」
「文芸部?」
学校では全く耳にしない部活。そんな部活あったのか。
「実は文芸部、私しか部員いないんだ。来年度から廃部になることも決まってる。それでも小説書きたいからさ、放課後一人で国語資料室使ってるんだけどね」
「どうして」
「目標があるの。引退する前にひとつの物語を作り上げるって。高校で何もできなかったからせめて何か残したくて。だから休み時間とかにずっと内容考えてたりしてたの」
彼女がずっと机に向かっていたのはそんな理由があったからなのか。自分の目標の為、必死に努力していた姿勢だったのか。
「自信持ちたいの、自分でも書き上げられるって、頑張ればできるって」
彼女は自分自身に向き合っている。色々なことを諦めたとしても、自分に対しては諦めていない。
「桜宮君は本好きだって言ってたから、よければ私の小説の感想聞かせてほしい。毎日一時間だけ活動するんだけど……なんか利用するみたいな感じでごめんね。でも、もっと桜宮君と話してみたいの。教室だと変な風に見られるからさ……」
僕も、動きださなければ。彼女が眩しい存在のままでいるのは嫌だ。離れたくない。
だったら、ここで言わなければ。チャンスは待つものではない、自分から掴むものだ。
「ごめんね、家のことあるよね。厳しいよね」
「入部するよ」
彼女が目を見開く。今日最後の日の光が降り注ぐ。
「春川さんの小説読んでみたい、そして僕も変わりたいんだ。利用するされるじゃない、お互いの成長の為だ」
はっきりした声で僕は言い放った。それを見て、涙が何度もこぼれ落ちていく。しかし、優しく笑っていた。
「……変な人」
「君も変な人だ、何で泣いてるのさ」
「これは分かるよ、嬉し涙だもん」
涙を拭ってバックと空の缶を持つ。そろそろ帰らないと怒られちゃうね、と悲しそうに言いながら。ここから僕の家はすぐそこだ。今日はありがとう、と一言添えて彼女の姿を見送った。僕は、どんな顔をしていただろうか。
不良品の僕たちは今日も明日も、生きていく。
どんなに苦しかろうと生きていく。
何かに縛られて生きていく。
それでもいいと思えた。
僕は未来に振り返り、歩きだす。