鏡台
今日も新しい一日が始まる。なんてことはない、いつも通りの、代り映えのしない、退屈な日常。それでも私は楽しみにしていた、何か普段とは違うことが起こるんじゃないかって。
今日は休日。私は『探検』と称して街に繰り出し、目についたお店にふらっと立ち寄る。
今日のお店は古道具屋、理由なんてない。目についたから、ただそれだけ。中はどことなく埃っぽい、見ると恐らく売り物であろう家具にもうっすら埃が積もっていた。
その中で一際、埃を纏う鏡が見える。全身鏡のようだけれど、足元には引き出しがあり、恐らく鏡台なのだろう。鏡の表面は膜があるかのように薄汚れており、私の姿を静かに映している。
そのとき、私は笑っていないはずなのに、鏡に映る私が口角をあげ笑みを浮かべた。ような気がした。私はすぐさま店の奥で船を漕ぐ店主に声をかけ、鏡台の買い取りを申し出る。聞けば大した価値もないとのことで、三万円ほどで自宅まで運んでもらえるらしい。
アンティークかと思っていたため、あまりの安さによくできたイミテーションだと感心してしまう。まぁ、私からすればアンティークだろうがイミテーションだろうが関係ないのだが。
その日は言い値をその場で支払うだけにして、鏡台は後日自宅まで配送してもらうことにした。
ちょうど一週間後の十三時、私の家に鏡台が届いた。配送時間をきっちり守ってくれる配送業者のおかげで、慌てることもイライラすることもなく、安心して待つことができたのだから、私はとても機嫌がいい。
さて、早速始めましょう。この鏡を置くために、私がわざわざ模様替えまでして置くところを用意したんですもの。
中に入っているはずの鏡を傷つけることの無いよう、カッターの刃を浅く入れ梱包用の段ボールを丁寧に開けていく。中にあるのは、待ち焦がれていたあの鏡台、持つと私の力でも簡単に持ち上げられるほどに軽い。そのまま鏡台のために開けておいた空間へ、ゆっくりと置き、少し離れて様子を見る。うん、やっぱりぴったりね。
部屋に置くと何かが違う。あの店で見た時と、何かが。その答えはすぐに分かる、鏡の表面が綺麗に磨かれていたからだ。でも、変わっているのはそこだけ。何の変哲もない、ただの鏡が置いてある。きっと何かが違うはず、と覗き込んでも私を静かに映すだけ。
ううむ、お店でのアレは気のせいだったのかしら。鏡の中の私は小首を傾げてみせるだけ。面白いものだと、この退屈な時間を紛らわしてくれるものだと、そう期待していたのに、当てが外れたようだ。
私が「はぁ……」と落胆を込めたため息を吐いた時、鏡の私がクスリと小さく微笑んだ。
「貴方は、誰?」
『私は私よ』
「……そう」
『驚かないのね』
「驚いているわ、これでもね」
『ふふふ、貴方らしい。いえ、私らしいかしら?』
「貴方は貴方、私じゃないわ」
『確かに、私は私よ。もちろん、貴方は貴方』
鏡に映る私は楽しそうに笑う。私の顔で、私以外の誰かが笑うなんて、気味が悪い。
「何が言いたいの?」
『私は貴方であり、貴方は私なのよ』
「意味が分からないわ」
『そのうち分かるわ』
そして鏡から彼女の気配が消えた。
この鏡を部屋に置いてから三日が経った。その時の私は着る服を決めかねている最中で、両手に服を持ち、珍しいことに悩んでいた。
『あぁ。そのスカートに合わせるのなら、右に持っているブラウスの方がいいわ』
「……。出てきて早々にアドバイスかしら、私も丁度こっちのブラウスにしようと思っていたところよ」
あなたに言われたからじゃない。ということを伝え、私は手早く着替えていく。身支度を整え鏡を見る。別に彼女がどうってことはない、だた変なところがないか確認をするため。
鏡を見るとまぁまぁ似合っており、やはりブラウスにしてよかったと思える。
『ほら、やっぱりブラウスにしてよかったでしょう?』
「どうして貴方が出てくるのかしら?」
『別にいいじゃない、不都合はないはずよ』
彼女はくすくすと、さも楽しそうに笑い、そのまま気配を消した。
それからというもの、彼女はたびたび私の前に現れては、同様のことを繰り返していった。私といえば、不思議なことに特に不快感を抱くことなく彼女と接することができていた。
ある時私は彼女に言った。
「貴方は私の最大の理解者ね」
と。すると彼女は答えるのだ。
『当り前じゃない、だって貴方は私だもの』
あぁ。彼女の言うことは、あながち間違いでもないかもしれない。
その日、外出先で嫌なことが起こった。私は彼女に聞いてもらおうと、足早に帰路へ着く。
自宅に着くと乱雑に靴を脱ぎ捨てる。部屋までは鞄を持って行ったが、部屋の中に入った途端、適当に投げてしまった。鏡を見るとそこでは彼女が、泣いていた。私は先ほどまでの怒りを抑え問いかける。
「ねぇ、どうして貴方は泣いているの?」
私の問いに彼女はしくしくと涙を静かに零しながら、首を横にゆるく振るだけで何も答えようとしない。
私が笑顔で接すれば、彼女が笑顔になるのではないかとも思った。私は自分の顔に、精いっぱいの作り笑顔を浮かべる。それでも彼女が泣き止むことはなかった。
次第に私は、彼女に憤りを感じ始めていた。
「私は笑っているじゃない、笑えているじゃないの!」
どうして笑ってくれないの? 貴方は私の――。
『例え、貴方の顔が笑っているのだとしても……』
彼女は蚊の鳴くような小さな声で言葉を紡ぎ始める。私はその言葉を聞き逃さないように耳を澄ませ、続く言葉を静かに待った。
『私は、泣くわ』
この言葉に私は憤りを覚えずにはいられない。私の理解者であるはずの彼女が、私の理解を超えたことの言うのだから。
『私はあなたの心そのもの。貴方が今まさに憤りという感情を表出させていても、貴方の深層心理。心の一番奥深くでは、――』
突如、彼女の言葉が途切れ、気配も消えた。鏡は鏡としてその役目を全うするかのように私を映す。
鏡に映る私は、目を真っ赤に充血させ泣いていた。