生贄と魔女、オリフェとエリザ
……また嫌われてしまう、痛いことをされる。そう思ったの。
……綺麗な紅い目だと思ったんだ。3つも並んでいたけどね。
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「王子様……?」
私は目の前の人が、何故ここに居るのかが理解できなくて、息を呑んだ。
長い金色の睫毛を伏せて、静かに寝息をたてているのは、秋色の森の中で出会った――あの王子様だ。
そう。あの日、私に怯えきった歪んだ顔を見せて、必死にナイフを突き立ててきた、あの王子様だった。
なんとなく、王子様を起こしてはいけない気がして、息を潜めて王子様を観察する。
王子様は、何故か私の身体にもたれ掛かってとても気持ちよさそうに眠っていた。
……どうして、ここで寝ているのかしら。……おぞましい、醜い化物にもたれ掛かって眠るなんて、どんな心境の変化があったの?
王子様がそこにいる。そして、私に触れている――……それは、とても嬉しいことだったけれども、同時に脳裏にあの日の痛みが蘇ってきて、私は身体を固くした。
そこで、あの日魔女が言ったことを思い出した。
そういえば、魔女は私に王子様をくれると言った。
つまりは、この王子様は私に捧げられた、ということなのかしら?
「……うん……」
そのとき、王子様が小さく声をあげた。
どきり、と私の心臓が跳ねる。
逃げ出したいけれど、王子様が私にもたれかかっているせいで、動くことができない。
やがて、王子様の睫毛がかすかに震えると、ゆっくりと瞳が開かれていった。
――ああ。やっぱり綺麗な碧色。
その色を、私は泣きたい気分で見つめた。
だって、きっとこのあと私を待っているのは――どうしようもない、拒絶。
予想通り、王子様は私の存在に気がつくと、怯えたような表情をして、震えながら涙を零し始めた。
胸が苦しい。やっぱり、王子様は、私のことを――……。
……でも、でもね。
絶望的な気分で、王子様が泣いているのをみていた私の目の前で、信じられない事が起こったのよ。
「……やあ。やっと起きたんだね。お寝坊な魔女さん」
王子様は涙を袖で乱暴に拭うと、私に向かって、まるであの日見た舞踏会で、隣に立つ令嬢に向けたみたいに、ふんわりと陽だまりみたいな笑顔を向けたのだもの。
**********
目が覚めた時、目の前にきらきらと不安げに揺れる、3つの紅い目があった。
僕は、それを目にした瞬間、思わず息を呑んだ。
……ああ、魔女が起きたんだ。
それを理解するまでは、然程時間はかからなかった。
じゃあ、僕はこれからむしゃむしゃと食べられる訳だ。
いつもは固く閉じられていた3つの瞳を開けた魔女は、こちらを身じろぎもせずに見つめている。
大きな体、真紅の3つの目、僕を丸呑みできそうなほど大きな嘴。その恐ろしい見た目に、背中に冷たいものが流れた。
恐怖がじわじわとお腹の底から涌いてくる。唇がかすかに震えている。
――ああ、今日で終わりなんだ。
――食べられるのは、痛いのかな。きっととても恐ろしいに違いない。
そう思った瞬間、僕の身体が震え始め、恐怖からか涙が溢れた。
息がうまくできない。死んでもいい、そう思っていたのに。怖い。死ぬのが怖い。やっぱり、痛いのは嫌だ――……。
けれども、恐怖に彩られた頭のなかで、次の瞬間全く別の考えが過ぎった。
……でも、それさえ乗り越えれば、この巫山戯た人生を終わらせることが出来る。
――もう、誰かに愛してほしいなんて、期待しなくてもいい。
――死の訪れを頭の隅で意識しながら、魔女の温もりに縋る人生も、終わらせることが出来る。
途端、恐怖ではなく、喜びがぞわぞわと僕の中から湧き上がってきた。全身に鳥肌が立っている。
……死ぬことが、何よりも嬉しいなんて、僕はきっと狂っている。
そうさせたのは、このクソッタレな人生だ。もう、終わらせてしまおう。
だから、僕は恐怖を無理やりねじ伏せて、袖で涙を拭うと、にっこりと、僕の人生で初めてだっていうくらい、柔らかい笑顔を浮かべて、魔女に言ったんだ。
「……やあ。やっと起きたんだね。お寝坊な魔女さん」
そういった瞬間。
何故か魔女の3つの瞳から、ぼろぼろと涙が溢れ始めた。
僕は思わず慌ててしまった。だって、他人が泣いていても、それをどうこうする方法なんて、ぼくはしらなかったんだから。
困りきって、誰かが助けてくれやしないかと、周りを見回すけれども、誰も居るはずも、助けてくれるはずもなく、僕は途方に暮れてしまった。
その間も、魔女の瞳からはとめどなく涙が溢れ続けていた。
「王子様」
意外なことに、魔女の声は可愛らしい女の子の声だった。
ひくっひくっと、喉を引き攣らせながら泣いている魔女は、どう見ても化物以外の何物でも無いのだけれど、何故か小さな子供のように見えてきて――不思議と、慰めなければいけない、そんな使命感が沸いてきた。
僕を食べるはずの化物を慰めるなんて、今思えば随分とおかしなことだと思うけれど。
僕は震える手を、そっと魔女へ伸ばした。
寝ている魔女へ触れるのは平気だったけれど、起きて動いているものを触るのは、やっぱり怖い。
……でも。
「……泣かないで。お願いだよ」
僕はそういうと、魔女の頭を腕の中に抱えて、優しく撫でてやった。
少し前、道端で見知らぬ母親が子供にしてやっていたように。
――僕が、泣いているときに、してもらいたいとずっと思っていた仕草で。
すると、なぜだか更に魔女の瞳から涙が溢れてきて、その涙は僕の着ていた服をびしょびしょに汚してしまった。
「……どうして泣くのさ」
「だ、だって、だって……! 王子様が、王子様が……私に、笑いかけてくれたのよ?」
「へ?」
「それに。抱きしめてくれているなんて! 私、嬉しくて……うっ、ううう。なぜだか、涙が止まらないの」
どうやら、魔女は僕が笑いかけただけで、これだけ号泣しているらしい。
僕はなんだか、全身から力が抜けてしまって、魔女の頭を撫でるのをやめて地面に座り込んだ。
その間も、魔女はしゃくりあげながら、涙をぽろぽろ流している。
その3つの瞳から流れた涙が、大きな粒となってぽちょん、ぽちょんと僕の頭の上に降ってきて、髪までぐっしょりと濡れそぼってしまった。
……冷たい。
一体、どうなっているの――……。
僕は困惑して、僕を食べる予定の魔女を見上げた。
しばらくすると、魔女は漸く落ち着いたのか、涙が止まった目をぱちぱちと瞬かせている。
そして、ずり、と僕から少し距離をとった。
とうとう僕を食べるつもりか! そう思って、僕は魔女を見つめた。……けれども、魔女はその場から動かず、ただ僕を見ているだけだ。そして、僕と魔女は無言で見つめ合った。まるで、お互いが動くのを待っているようだ。
――僕はその状況が、数分続くと、堪らずに口を開いた。
「……ねえ、魔女。僕を食べないのかい?」
「ええ!? 私が!? 王子様を!?」
「そうだよ。僕はそのためにここに居るのに。……食べてもらわなきゃ困るんだよ」
「こまっ……困るの!? ええええ……? どういうこと?」
「どういうことって……。聞きたいのは、僕のほうさ」
僕たちは、ふたりして困惑してしまって、顔を見合わせた。
しかも、魔女はこんなことを言い出したんだ。
「それに、私は魔女じゃないわ。知り合いに魔女はいるけれど、私は魔女じゃない」
その言葉に、僕の頭は益々混乱してきて、思わず変な顔をしてしまった。
……それから、ふたりで状況のすり合わせをした。
魔女曰く――本人は魔女じゃないっていっているけれど――ある日、その知り合いという魔女と一緒に、王子様に会いに、この城にやってきたのだという。そして、この塔の中までやってきて――それからの、記憶は曖昧らしい。
ずっと眠っていたと、本人は言っていた。けれども、眠りながら色々と勉強をしていた、というのは理解し難かったけれど。
魔女の説明がひとしきり終わると、今度は僕の番だ。
僕は、魔女に捧げられる生贄だということ。
魔女を眠りから覚ますために、歌い続けていたことを説明した。
「……私を起こすの? どうして?」
「さあね。それは、僕も知らないよ。お城に連れてこられて、いきなり起こせって言われたんだ。そして、むしゃむしゃと食べられろって」
「嫌だわ。私、王子様を食べることなんてしないわ」
「ああ。そうだ、それ!」
「なあに?」
「僕も、王子様じゃあ、ないから」
王様の血を引いているらしいけれど、王子様っぽいことは何一つされてないし、していない。
「僕は、王子様じゃないよ。魔女」
「私だって、魔女じゃないわ。王子様」
「……なんだか、僕達面倒だな」
「うん。……そうね」
非情にややこしくて、面倒な状況に、お互い微妙な顔で見つめ合った。
「じゃあ、普通に名前で呼びあえばいい。僕の名前はオリフェ。……オリフェだよ。君の名前は?」
「……名前? そんなものないわ」
「えええ、じゃあ、君はなんて呼ばれていたんだい」
「私は……魔女には、化物って呼ばれていたわ」
「なんだい、そりゃあ。酷いね」
「酷いの?」
「ああ、とっても酷い」
「そうなの……よくわからないわ。王子様」
魔女はそういうと、くりっと首を傾げた。
僕は少し考えると、魔女にこう提案した。
「その、王子様ってやめてよ。オリフェって呼んで」
「でも」
「……君のことは、エリザって呼ぶことにするよ。物語に出てくる女の子の名前さ」
「エリザ」
魔女――エリザは、口の中で何回かその名前を呟いた。
そして、すうっと嬉しそうに目を細めた。
「エリザ、よろしくね。……って、僕を食べる相手に、言う言葉じゃあないとおもうけど」
「だから食べないって言っているでしょ。……おうじ……、お、オリフェ」
「よく出来ました」
「ふふ。王子様こそ、前みたいに私を刺さなくていいの?」
「なんだいそれ」
「とっても怖がっていたじゃない」
「……わけがわからないな。僕達には、話し合いがまだまだ必要だ」
僕はそう言うと、エリザを見上げた。
エリザもみっつもある瞳を細めて僕を見下ろして、「そうね、オリフェ」と言った。
――これが、生贄である僕と、僕を食べる予定の魔女との出会いだった。